天国か地獄


 02

 ホームルームが終わり、一限目から移動教室ということで教科書の準備をしていたのだけれど。

「齋藤、準備できた?」
「あ、ちょっと待って……」

 前回のように毛虫が入っていたらということを考えてもたもたしていたら余計時間が掛かってしまい、それどころか指が引っかかってしまいバサバサと中身をぶち撒けてしまう。

「わ……っ!」
「齋藤何してるの」

 廊下の方から聞こえてくる呆れたような志摩の声。
 慌てて床に散らばる教科書を拾おうとした時、不意に伸びてきた手がそれを横から拾った。

「ご、ごめ……」
「別にいいよ、これくらい」

 そして、教科書を受け取ったとき、頭上から聞こえてきたその声に全身が強張った。
 俺のすぐ横、あっという間に教科書を拾い上げた壱畝は志摩を振り返る。

「それよりも志摩君、早く行った方がいいんじゃないのか?ただでさえ無断欠席してるんだし、これ以上サボったら何言われるか分かんないぞ」
「別に構わないよ。今更真面目にしたって評価が上がるわけでもないしね」
「随分といい加減だな」

 随分と絡んでくる壱畝に嫌なものを感じずにはいられなくて、早く立ち去ろう、そう志摩に視線を送れば志摩は小さく頷く。

「……齋藤、準備は出来た?」
「あ、うん……」
「行こ」

 そう、伸びてきた手に手を取られる。
 掌を包み込み、指まで絡めてくる志摩には驚いたが今はとにかくこの場から離れたくて。
 まだ、心臓がバクバク言っている。背後に突き刺さる視線が恐ろしくて、俺は、後ろを向くことは出来なかった。
 教室を出て、人気のない廊下を歩く。既にクラスメートたちの姿は見当たらない。

「あいつ、目障りだな……」
「志摩……」
「何?壱畝遥香のことまで庇うつもり?」
「違うよ。ありがとう……って言おうと思ったんだ」

「ありがとう、志摩」そう、その横顔に声を掛ければ、志摩は目を逸らした。

「……別に、俺は個人的にあいつが気に入らないだけだから」

 そして、そう小さく呟く志摩。
 もしかして、照れているのだろうか。
 最近になって知ったことだが、志摩はわりとストレートな言葉に弱いようだ。自分だってこっ恥ずかしいことを言うくせに、俺が口にするとすぐ目を逸らしてくる。
 変わってるな、なんて今更思わないけどやっぱりこう親近感が沸くというか。なんというか。
 志摩に手を引かれたまま歩くこと暫く。一向に目的地である移動教室先に着かないのだが、これはあれだろう。気のせいというわけではないだろう。

「次の授業、実験室だよね」
「そうだね」
「……道、こっちじゃないよね?」
「齋藤はサボりは嫌い?」
「えっ?」
「一限ぐらいいいでしょ、出なくても。齋藤が具合悪くなったから休ませてたって言っとくから」

 なんというこの堂々とした言い草は。
 まさか最初からサボる気満々だということに顎が外れそうになるが、志摩は全く悪びれた様子もない。

「……で、でも……」

 それじゃ、わざわざ来た意味ないのでは。
 そう、思わずにはいられなかったが。

「……なんかさ、齋藤が他のやつらにジロジロ見られるのってすごい気分悪いんだよね」

 うんざりとしたように吐き捨てる志摩に、俺はなにも言えなくなる。
 俺を、気遣ってくれたというのだろうか。そう考えると強く言うことが出来なくて。

「……次の授業にはちゃんと出るんだよね?」
「うん」
「なら、いいよ。……その、サボっても」

「けど、俺も一緒にいるけど、いいかな」そう恐る恐る口にすれば、志摩は「勿論」と笑った。
 俺も大概志摩に甘いようだ。
 いつもの愛想笑いとは違う嬉しそうなその笑顔に、少なからず満たされている自分に苦笑せずにはいられなかった。

「なんか、こうして堂々と歩くのって久し振りな気がする」
「ああ……確かに、ずっと走るか隠れるかだったしね」
「……」
「まだ、緊張する?」

 サボると決めた一限目の時間帯。
 既に授業は始まっているため、廊下に人の気配はしない。それでも、周囲を探らずにはいられなくて。
 志摩の問い掛けに俺は小さく頷き返す。

「……うん、ちょっとね。誰かに待ち伏せされてるんじゃないかなって思って音とか気になるかな」
「……だろうね」
「でも、志摩が居るから」
「何かがあったら盾にしてやろうって?」
「そ、そうじゃなくて……一人じゃないって分かるから、心強いよ」

 暗くならないよう、笑い返してみるものの志摩は神妙な顔のままで。

「……不安にならないの?」

 そう、ぽつりと。
 志摩が口にしたそれは卑屈でも皮肉でもなく純粋な疑問だった。

「俺は、大勢相手に出来るほどの腕力もないよ。齋藤のことだって何回も騙してきたんだし、こうしてまた齋藤を嵌めようとしてるかもしれない」

「なんて、不安にならないの?」もしかしたら、志摩はこの前のことをまだ気にしているのだろうか。
 休憩するために入ったラウンジで待ち伏せされていたことを思い出し、大人数に抑え付けられていた志摩のことを思い出せば今でも震えそうになる。
 けれど、それでも、俺は。

「……それは、俺も同じだから」

「俺だって、志摩に嘘ついたし喧嘩だって出来ない。だから、志摩がいるだけで良いんだ」何度も逃げたし、分かりあうことを諦めていた時もあった。
 無かったことにはできないけれど、それでも、だからこその今があるのだと思うようにしていた。
 納得いく返答だったのかわからない、けれど志摩は「そっか」とだけ呟き、笑った。
 その安堵したような横顔に、微かな疑問が浮かぶ。

「志摩って……」
「……何?」
「いや、なんでもないよ」
「なんかその顔、ムカつくなぁ」
「えっ?!」

 志摩は、何があっても笑って受け流すと思っていた。
 いつだって冷静だし、突拍子のないことを口にする時もあるけれどそれでも勇気もあって、悪く言えば形振り構わないところもある。
 志摩に怖いものはないのだと、思っていた。けれど、もしかしたら志摩は。
 度々に口にする試すような言葉の数々。志摩は、裏切られることを恐れているのだろうか。
 そんなことを思いながら、俺はさっさと歩いていく志摩に引き摺られないよう、急いでその後についていく。
 そして、志摩と歩き回ること暫く。

「サボるって言ったけど、どうしようか……」
「こうしてぶらぶらしてるだけでも俺、楽しいよ」
「まあ、齋藤は楽しいかもしれないけどさ……」

 なんて他愛のない会話を交わしていると、不意に後方から足音が聞こえた。
 人気のない廊下の中、間違いなく第三者の足音が聞こえたのだ。

「あの、志摩……」

 もしかしてつけられてるのだろうか。恐る恐る志摩に声を掛ければ、志摩は『し』と人差し指を唇に当てた。
 どうやら、志摩も気付いていたようだ。

「齋藤、ちょっと俺、トイレ行きたくなっちゃった」

 こんな状況で?と思ったが、すぐにそれが志摩の作戦だということに気付いた。

「わ、わかった……」

 丁度、歩く先には男子便所がある。
 志摩とともに男子便所へと入った俺たち。すぐ入り口の側、壁を背に隠れるように待ち伏せすること数秒。
 あとを追うように入ってきた人影をあっさりと捕まえることに成功する。そこまでは、よかった。
 けれど、後を着けていたらしいその人物の姿を見た瞬間、俺は「あっ」と声を漏らした。
 間違いようのない、白に近い派手は桃髪。

「離せっ!薄汚い手で触るなッ!」
「あ、安久……?!」

 志摩に腕を掴み上げられた安久に俺はなんだかもう掛ける言葉すら見当たらなかった。

「何してんの?お前。人のデートを後付けるなんて悪趣味だね」
「何がデートだ、気持ち悪い……ッ!第一、こんな状況で呑気にデートしてんじゃねえよ!」

 これは安久に同意せずには居られないが、そんなことはどうでもいい。
 こうして安久が俺たちの後を着けていたということが問題だ。

「……阿賀松に言われて俺達を着けてきたのか?」

 恐る恐る尋ねれば、フンと安久は俺からそっぽ向いた。

「べ、別に……っていうかアンタ達なんか着けてないし」

 そして、なんともわかりやすい嘘を吐く。
 前々から思っていたが、安久は感情の起伏が激しい分嘘が下手なようだ。
 俺でも見抜けるぞ、と呆れていると。

「ああ、なら勘違いか。ごめんね、そうだよね、あんなうるせえ足音立てておきながら尾行してるわけないか。だとしたらただの間抜けだしね」
「だ、誰が間抜けだッ!」
「あれ?別に尾行じゃないんでしょ?」
「ぐ……ッ!」
「……安久…………」

 ここまでくるとフォローのしようがない。
 悔しそうに歯を食いしばった安久は、覚悟を決めたように息を吐く。
 そして、

「別に、伊織さんは関係ない。伊織さんならこんなみみっちいことせずにガッと捕まえてこいって言う方だしね」
「……で、なんで俺達を尾行していたわけ?」
「それは、あいつが出てくると思って……って、なんでわざわざアンタに教えなきゃなんないんだよ!」
「別に教えてくれないなら構わないよ。このまま便器に縛り付けて放置しとくから」

 愛想笑いも面倒だと言うかのように無表情のまま吐き捨てる志摩に「やめろ汚らわしい!」と吠える安久。

「なら言いなよ」
「い……嫌だ」
「……ふぅ」

 ああ、やばい、志摩が苛ついている。
 機嫌が悪くなればなるほど笑顔が消えるというわかりやすい性格をしている志摩に危機感を覚え、「志摩」と宥めるように名前を呼ぶ。

「分かってるよ。実力行使だね」
「違うよ、落ち着いてって言ってるんだよ……!」

 このままでは余計面倒なことになってしまう。
 そう思った俺は、安久に向き直った。

「あの、安久、俺達もある人の動向探るためにこうして歩いてるんだ。もしかしたら力になれることがあるかもしれないし……良かったら教えてくれないかな」
「ハンッ!そんなこと言えば僕が信じるとでも思ったのか?!もうアンタ達を信じないんだからな!聞いたぞ、齋藤佑樹、あんた八木さんを騙したんだってな!」
「……!」

 安久の言葉に、息が詰まりそうになる。
 やはり、すでにバレているようだ。時間の問題だと予め構えていたがやはりこう突き付けられると来るものがあって。

「……齋藤、やっぱりこいつ少しくらい痛めつけとこうよ」

 笑顔でそんなことを言い出す志摩にゾッとし、慌てて「し、志摩!」と止める。
 そして、再び目の前の安久を見た。

「確かに、八木先輩には悪いことしたけど……これは阿賀松先輩を助けるために必要で……」
「嘘つくなよ!」

 言い掛けた言葉は安久の声に掻き消される。
 驚いて顔を上げれば、血相を変えた安久と視線がぶつかった。

「お前が八木さんを頼ったから、八木さんはなぁ……!」

 志摩の拘束を振り解いて今にも殴りかかってきそうな気配がある安久だが、「おい」と逃げ出そうとした安久を捕まえた志摩のお陰でなんとか殴られずには済んだ。
 けれど、問題はそこではない。

「……え?」
「お前と、天パ野郎のせいだ!伊織さんの怒りを治めるためにはアンタたちを捕まえて伊織さんに献納するしかないんだよ!」

 興奮のあまり、涙をじわりと滲ませた安久は俺を睨む。
 八木が、どうしたというのか。ざわつく胸の奥、必死に圧し殺していたなにかが一斉に騒ぎ出すのを感じた。
 嫌な、予感がする。

「……」
「齋藤、信じる必要はないよ。ウソかも知れない」
「ウソじゃない!」

「八木さんは伊織さんのために一生懸命だったのに、お前なんかが八木さんを頼るからだ!どうしてくれるんだよ!」ヒステリックな金切り声は俺の頭の中で何度も反響する。
 無愛想な八木の顔が脳裏に蘇り、喉の奥が詰まりそうになって。

「……ッ八木、先輩が……どうしたの……?」
「……ッ」
「安久……ねえ、教えてよ……」

 安久の腕を掴み、数回揺すれば落ち着いたようだ。
 それでも俺達に向けられた殺気は剥き出しのままで。
 浅く呼吸を繰り返した安久は目を伏せ、そしてゆっくりと俺を見た。

「八木さんは……お前を匿った罰も、証拠品を奪った罰も、受けたよ……」

 罰。その嫌な単語に、全身の血の気が引いた。
 八木が、俺のせいで。罰を。蘇る赤い血の色に、阿賀松の掌の上で転がる歯。

「……ッ」

 頭を殴られたようなショックに蹲りそうになったとき、伸びてきた志摩の手に肩を抱かれた。
 そして、

「齋藤、同情する必要なんてないよ。八木さんが自分で選んだ道なんだからそのくらいの罰、受け入れて当然だ」

 優しく、慰めてくるその声に心臓が脈打つ。

「志摩亮太ッ!口を慎め!」
「慎むのはお前の方だよ、安久」

「齋藤は優しいからね、それくらいの揺さぶりで動揺するだろうけど生憎俺にはその手は通用しないから」薄く笑う志摩。
 ぎりぎりとその腕を捻り上げられる、安久は小さく唸る。
 確かに、志摩の言うことにも一理ある。けれど。

「志摩」

 気が付いたら、体が勝手に動いていた。
 安久の腕を捻る志摩の手を握れば、一瞬、志摩の動きが止まる。

「俺は……安久がウソを吐いてるとは思えないんだ」
「齋藤……またなの?」
「無条件に信じろなんて言わないよ」

「話を聞こう。……そう言ってるんだ」そう、言葉を選びながら志摩に言い聞かせれば、志摩は小さく溜息を吐いた。そして、笑う。

「……好きにしたらいいよ、どうせすぐに逃がすつもりは毛頭ないんだからね」

 笑みの形は浮かべているものの、その目は冷たく俺を見下ろす。
 呆れられても構わない。それでも、自分のせいで起きたことから目を逸らしたままでいるのは嫌だった。

「安久、教えてくれないかな。……阿賀松先輩は怒ってるの?」
「怒ってるに決まってるだろ!」

 声を荒らげる安久。つい反射で反応してしまうのを手を握り締めて堪える。

「俺のことも……怒ってるよね」
「お前のことなんてどうでもいいんだよ、問題は八木さんが伊織さんにお前のことを話さなかったことと証拠品を盗まれたことだよ。天パ野郎が余計なこと言ったんだろう、伊織さんが来ても偽物だから相手にするなって」

 安久の言葉がどれ程信用できるか分からないが、少なくとも良くも悪くも正直者の安久の言葉だ。

「……なるほどね」

 そこまでバレているということは八木が阿賀松たちに話したのも事実で間違いないだろう。

「それで、八木先輩はどこにいるの?」
「なんで……そんなこと聞くんだよ……!」
「安久の方だろ。……俺を、俺達を捕まえないといけないって言ったの」

「それなら、俺が行くよ」と、口にすればそれまで黙っていた志摩は俺を睨み付けてくる。

「齋藤、何を言ってるの?」
「八木先輩には……ちゃんとお礼をしなきゃって思っていたんだ」
「齋藤」
「志摩、後で話聞くから」

 だから、待って。と、志摩の宥めるようにその肩に触れる。
 文句言いたげに睨んでくる志摩だったが、それ以上何も言わなかった。
 どれくらい志摩へ『待て』が通用するか分からないが、あまり使い過ぎると志摩の不信感が募りかねない。手短に済まそう。

「安久、教えてくれ」
「……学生寮、仁科の部屋。……どうせ、行ったところでお前が許してもらえるわけないけどな」
「分かってるよ。……許してもらおうなんて毛頭思ってないよ」

 仲直りするつもりなんて尚更だ。ネクタイを緩め、それを外した俺は志摩に手渡す。

「志摩、これで安久を便器に縛り付けておいて」

「は?」と目を丸くしたのは安久だった。
 志摩は無表情で俺のネクタイを受け取り、笑う。

「そういう時だけ俺に頼るんだね」
「縛り方、分からないから」
「いいよ、これくらいならお安い御用さ」
「ちょっと、おい、やめろ!おい!」

 安久には悪いが、やはりあまりウロウロされると困る。

「おいっ、待てよ!これ!なんだよこれっ離せよ!おい!」

 便器の上に座らせるよう縛り付けた安久は真っ青になって叫ぶ。
 そんな安久を一瞥し、志摩は俺を見た。

「齋藤、このままでいいの?口を塞いどいた方が……」
「いいよ、声を上げれたほうが早く見つかるだろ」

 安久には、餌になってもらいたかった。阿賀松を引っ張り出すための、餌に。
 この行動がどう結果を出すのかわからない、吉と出るのか凶と出るかもすら。けれど、この際どちらでも良かった。
 阿賀松の行動が読めるのなら。

「……なるほどね」

 目を細め、そう頷く志摩は満足げだったので多分、少し機嫌が良くなったのだろう。
 なんて思いながら、俺達はその場を後にした。

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