天国か地獄


 01

 結局マットの上に座って眠っていたのだけれど、朝日の眩しさに目を開けばまず隣で丸くなっている栫井を見つけた。
 あれ、確か眠る前は跳び箱に凭れ掛かっていたような気がするが……まあいいや。
 志摩はどこだろうか、思いながら起き上がった俺だったが体育倉庫内に志摩の姿がないことに気付く。

「か、栫井、栫井っ」
「……うるっせえ……」
「志摩が、志摩がいないんだよ」
「知らねーよあんなやつ」

 そう言って、ごろりと寝返りを打つなり再び眠り始める栫井。

「栫井……!」

 栫井の反応はご最もだが、俺からしてみればそれだけで済まされる事態ではないのだ。
 どうしよう、まだ外にいるのだろうか、もう明るくなっているのに。外を探してみるか?でも、誰かに見付かったら。一人で百面相していたときだった。
 旧体育倉庫前に人影が現れる。

「ちょっと栫井、何齋藤イジメてるわけ」
「し……志摩!」
「おはよう、齋藤」
「あ、おはよう……じゃなくて、どこに行ってたんだよ」
「どこって……ほら、お腹減っただろうって思ってさ。ご飯、買ってきちゃった」

 そう言って軽く袋を掲げる志摩。
 見覚えのあるそれは学生寮一階のコンビニの袋だ。
 どうやら学生寮まで戻っていたようだ。

「はい、これ齋藤の分でこれは俺ね」

 大丈夫だったのだろうか。一人どぎまぎしていると差し出される袋を慌てて受け取る。
 中にはパックジュースとパンが入っていた。

「あ、ありがとう……」
「……」

 丁度お腹が減っていたのだ、とつい頬を綻ばせる俺だったが起き上がる栫井にぎくりとする。
 そうだ、栫井の分。

「あ、あの……ありがたいんだけど……栫井のは……?」
「ああ、忘れてた。そういやお前もいたんだったね。いやー忘れてたよごめんごめん」
「……」
「し、志摩……」

 またそんな小学生みたいな煽り方を、と冷や汗を滲ませた時。
 志摩は袋の中からガサガサと何かを取り出す。
 そして、

「ほら、栫井」

 取りだした何かを栫井の前に投げてやる志摩に、内心俺はおおっと驚いた。だってあの志摩が、素直に栫井の分まで用意しているなんて。
 感動しながら俺は栫井の前に置かれたそれに目を向け……凍り付いた。

「箸もらうの忘れたから素手で食えよ」

 置かれたそれは缶詰だった。こんな状況で非常食、確かに非常時ではあるがなんという嫌がらせじみたチョイスだろうか。

「か、栫井、俺の箸あげるよ」
「いらねえ」
「でも、それじゃあ食べれないよ」
「いらねえって言ってんだろ」

「こんな不味そうなもの食えるかよ」と吐き捨てる栫井。
 ほら機嫌が悪くなってしまっているではないかと志摩にアイコンタクトを送れば、何を勘違いしたのか「こんな時にまで我儘言ってんじゃねーよ」とか言ってしまう始末。
 やめてくれ、これ以上栫井を煽らないでくれ。

「栫井、それなら俺のパン半分あげるよ。……これなら食べられるよね」

 慌ててパンの袋を開け、千切る。
 その半分を差し出せば、栫井は興味なさそうにそっぽ向いた。
 そして、

「……余計なことしてんじゃねぇよ」
「え?」
「優しいんだな、アンタは」

「本当、ムカつく」と、吐き捨てられたその言葉に、動けなくなってしまう。
 優しいというのは個人的に褒め言葉だと思っていた。
 けれど、栫井の口にするその単語は酷く冷たくて、なんとなく、刺々しくて。

「か、栫井……?」
「おい、なんだよその言い方は」

 あっちが気を損ねればこっちも気を損ねるらしく。
 今にも栫井に掴み掛かりそうな気配すらある志摩のネクタイを引っ張り、「志摩、いいよ」と慌てて宥める。

「気に障ったんだったら……謝るよ、けれど、何か口に入れた方がいいよ」
「……」

 結局、栫井はそれから俺と目を合わせてくれなくて、そのまま旧体育倉庫を後にする。
 このままどこかへ行くことはないだろうけれど、やはり気になるものは気になるわけで。

「何あいつ、クソ、ムカつく」
「志摩、もう良いから」
「齋藤が良くても俺が嫌なんだよ」

 やっぱり二人の相性の悪さは問題だ。
 きっと、このまま長くいればいるほどまた揉めるだろう。そうなったら、栫井を利用することも難しくなる。
 せめて志摩が折れてくれたらと思うが、それも無理だろう。この関係が崩れるまで、時間の問題だ。

「……志摩、聞いて欲しいことがあるんだ」

 栫井がいないことを確認し、俺はおずおずと口を開く。
 勘の鋭い志摩は俺が何を言わんとするか察したようだ。

「……囮の話なら聞かないよ」

 そう、おにぎりを取り出す志摩の言葉に「違うんだ」と首を横に振る。

「昨日、あれから志摩に言われた通り他に何か良い案がないか考えてみたんだ」
「……それで?」
「……阿佐美を尋ねようと思う」

 おにぎりを食べようとしていた志摩の動きが確かに一瞬、ピタリと動きを止めた。

「……なんだって?」

 冷たい声。
 ああ、怒っている。それがよくわかったけれど、ここまできて引き下がることは出来ない。
 勝機があるならば、少しでも諦めたくなかった。

「阿佐美なら話も分かるし、阿賀松がなにをしようとしてるのかも分かるかもしれない」
「……齋藤、それ本気で言ってるの?」

 突き刺さる志摩の視線を受けながら、俺は頷き返す。

「驚いたよ、齋藤がここまで馬鹿だとは思わなかった」

 容赦のない言葉だが、志摩の反応は粗方想像出来ていた。
 志摩は阿佐美を警戒している。無理もない、阿賀松と通じているのは間違いないのだから阿佐美と接触するということは阿賀松本人ともそれ程近付くということだ。
 それでも、それ以外確実な方法は思いつかないのだ。

「皆が皆お話して理解できるようなやつだと思ってるならその時点で間違いだよ」
「でも」
「でもじゃないよ」

「とにかく、様子を見るべきだと俺は思うね。俺達には時間もだけれど情報もない。下手に動いたらやつらの思う壺だよ」見誤るな、と言っているのだろう。
 志摩の言葉は最もだ。けれど、悠長に構える暇はないのだ。
 ……だからこそ、なのだろうが。

「……」

 手っ取り早い方法があるというのにそれを許可してもらえないというのは焦れったい。
 それほど志摩が俺の身を案じてくれていると思えばいいのかもしれないが、そうしている内に志摩の首まで絞められているような気がしてならないのだ。

「昨日、齋藤が言っていたあれ」

 志摩を納得させる方法がないだろうか。そんなことを考えていた時だった。
 ふと、思い出したように志摩は口を開いた。

「停学を解除っていうのはいいと思うよ」
「……本当に?」
「嘘はつかないよ。けれど、自分から阿賀松たちのもとに行くのは許さない。だから、俺の目の届く範囲で授業に復帰するのはいいって」

「少なからず、奴らの動きを確認する必要がある。それに、いつまでもコソコソ逃げ回ってる暇はないんだしね」驚く俺を見て、志摩は笑った。

「志摩……ありがとう」
「このくらいのことでお礼なんてやめてよ。まるで俺がすごい心の狭いやつみたいじゃないか」

 茶化すような言葉だが、正直志摩は結構変な所で厳しいのは確実だろう。
 思ったが敢えて俺は何も言わないことにする。

「八木先輩のことだけど、それとなく芳川に伝えてみたらどうだろう。阿賀松側だと隠してる今下手に齋藤に手を出せないと思うし、芳川に牽制させておけば大分行動もしやすくなるんじゃないかな」

 会長たちは八木の動きを知らないという。
 いつも利用している風紀が自分を裏切っているなんて毛頭も思ってないのだろう。けれど、そんなことしたら、八木が。
 怖かったし妙に圧力掛けてくる人だったが、悪い人ではなさそうだった。
 蘇る記憶に、慌てて俺は頭を振った。

「……そうだね」

 余計なことを考えるな。いまは、目の前のことだけを考えろ。後ろを振り向くな。
 軋むように痛む胸を無理矢理押し殺し、俺は志摩に頷いてみせる。

「それと、壱畝遥香のことだけど」

 ふと、志摩が声を潜めた。
 聞きたくないその固有名詞に全身が凍り付いた。
 けれど、見てみぬふりをすることはできない。
 会長を探ろうとすれば避けては通れない道だ。

「何か、わかったの?」
「やつが転校してからは芳川が面倒見ていたみたいだけど、特別仲がよさそうなわけじゃないみたいだね。副会長候補という話が出てきたのも最近の……齋藤が入院し始めた頃の話みたいだ」
「……」

 壱畝と会長。二人が一緒に居るという事実だけで酷く目眩を覚えた。
 しかし、問題はそこではない。
 ずっと覚えていたこの組み合わせの違和感。不自然なのだ、色々。なによりも急すぎる、栫井の退学にしても全てが円滑に進みすぎているのだ。
 恐らく、裏で会長と壱畝の間でなんらかの取引が行われているのは一目瞭然なのだけれど肝心のそれが分からないのだ。
 栫井の退学理由が偽造だということを晴らしたらいいのではないだろうか。
 妊娠させただとかいうが、栫井はそんなことはないと言っている。
 だったら、その真偽を確かめれば栫井の退学は免除され、会長のしたことを明るみに出るのではないだろうか。
 でも、どうやって?
 妊娠したという子に会って「本当の父親は誰なんですか?」と問い詰めろということか?……無理だろ。
 ならば、話を聞くだけでも出来ないだろうか。
 しかし、他校の女子ということしかしらないし、志摩の言うとおり情報量が少なすぎるのだ。
 うーん、うーんと一人考え込んでいると、ふと、思い付く。
 そう言えば一人いるじゃないか、他校の女子ともある意味深く交流があるやつが。

「……そういえば、十勝君は栫井のこと、知ってるんだよね?」
「そりゃ耳には入ってるでしょ、同じ役員なんだし」
「少し……話聞けないかな」

 十勝ならば、十勝ならば俺よりも上手く聞き出すことも出来るかもしれない。
 前提としては、栫井の退学のことを不審に思っていなければならないのだけれど。

「今度は何を企んでるわけ?」
「た、企んでるわけじゃないよ。……けれど、気になったんだ。あの二人が黙って会長のすることを見てるはずがないって」

 それに、今まで一緒にやってきた仲間だ。あまり仲が良いようには見えなかったが、それでも十勝の性格を考えたら見過ごさないだろう。……少なくとも、俺はそう思いたかった。

「齋藤ってば……本当におめでたいよね」

 志摩の嫌味にもそろそろ慣れてきた。
 おめでたくてもなんでもいい。いくら小さくても可能性があるならそれを無視することは出来ない。

「でも、栫井のことはどうでもいいんだけど壱畝の件は確かに不愉快だもんね。いいよ、俺の方からもあいつに連絡とってみるよ」

 押し黙る俺に諦めたように笑う志摩。
 その予想外の言葉に俺は目を丸くした。

「本当に?」
「お礼はキスでいいよ」
「ありがとう、志摩」
「あ……スルーなんだ?……まあ、いいけどね」

 とにかく、芳川会長には栫井の退学の件から探りを入れてみることにした。
 そして、阿賀松については様子見。闇雲に手を出すには厄介過ぎるという志摩の意見だ。

 栫井は……旧体育倉庫に置いておくことにした。
 一応ちゃんと食べ物も用意したし、大丈夫だろう。
 逃げないようににと念のため柱と腕を縛ってきたが、食べ物は片手で食べられそうなものを用意したし……。
 栫井は不機嫌だったが、一緒に校内を彷徨くよりは安全だろうと判断したのだ。
 逃げられるんじゃないかという可能性も考えたが、俺達と行動する方が安全だと栫井も分かっているはずだ。……逃げたくなるほど志摩がムカつくというのならどうしようもないが。
 そして、俺はそのままの足で職員室へ向かった。停学を解除するために。


 久し振りに堂々と歩く校舎は新鮮だった。
 職員室内、扉を開けば教師たちの視線が一斉に突き刺さる。
 数名の教師からは咄嗟に視線を逸らされ、数名の教師はおどろいたように目を見開いていて。
 そのうちの一人、担任は俺の姿を見るなり駆け足でやってきた。
 なんだか照れくさくなって「お久しぶりです」と笑えば、担任は安堵したように頬を綻ばせた。
 担任がいつもと変わらない態度でいてくれたのが救いかもしれない。
 担任に停学を解除するという旨を伝えれば、あっさりとそれは承諾された。

「しかし……具合はもう大丈夫なのか?」
「はい、すみません長い間授業休んでしまって」
「体を壊したんなら仕方ないだろ、それよりもあまり無理するなよ。なにかあったらすぐに先生たちに言えよ?」

 言えることなら言いたいけれど、恐らく、先生を頼るには手遅れすぎるところまで来ているのだろう。
 担任には迷惑を掛けてしまうだろう。
 それが心残りだが、いまの俺には「ありがとうございます」と言うことしか出来なくて。
 満足そうに頷く担任は、ふと思い出したように「ああ、そうだ」と声を上げた。

「お前が休んでいた間の授業のことだけどな、壱畝のやつがノートに纏めてくれているはずだから見せてもらえ」
「……壱畝君が……ですか?」
「聞いたぞ、中学の時から仲が良かったそうじゃないか。あいつもお前が停学届け出したと聞いて心配していたぞ」

 有り得ない。有り得ないが、とにかく人面がいい壱畝のことだろう。これも、担任からの好感度を上げようとするものなのかもしれない。いや、そうだ。それしか考えられない。

「後で元気な顔見せてやれ」
「……はい、失礼します」

 俺は担任に頭を下げ、職員室を後にする。
 ……壱畝。
 恐らく、教室にいけば壱畝と会うことになるだろう。治まったはずの全身が痛み始める。
 ……壱畝。
 キスをされた時の感触が今でも蘇る。
 額に滲む汗を拭い、深呼吸。志摩に悟られないようにしなければ。
 余計な心配は、掛けたくない。

「齋藤、どうだった?」

 職員室前廊下、佇んでいた志摩は俺の元へやってくる。

「阿賀松は先生たちには……変なこと言ってなかったみたい。すんなり解除することできたよ」
「そう、なら良かった」

 もしかしたらもう戻れないかもしれない。
 そんな覚悟もしていただけに、逆にちゃんと手続をしてくれていた阿賀松に驚いた……というよりも拍子抜けした。俺があのまま病院に残っていたら普通に学園に戻してくれるつもりだったのだろうか。
 全て気まぐれで動いている阿賀松のことなど考えるだけ無駄だと分かっていても、やはり、考えずにはいられなかった。

「……」
「齋藤?」

 どうやら変な顔をしていたようだ。
「どうしたの?」と勘繰るような目を向けてくる志摩に、慌てて俺は首を横に振った。

「いや、なんでもないよ。……ごめん、それじゃあ行こうか」

 今更、道を間違えたのではないかなんて考えるだけ無駄だ。
 立ち止まることは出来ない。引き返すことなんて、とても。

 こうやって、まともにホームルーム前の教室に入るのはどれくらい振りだろうか。
 人の目を避けるように廊下を歩き、教室の前、俺は数回深呼吸をする。

 ――よし。
 覚悟を決め、扉を開けばクラスメートたちの視線が一斉に突き刺さった。
 先程まで賑やかだった教室内はしんと静まり返り、アウェー感のようなものを感じずにはいられなかったが、仕方ない。事実なのだから。
 しかしそれも一瞬のことで、何でもなかったかのように再び賑わう教室内。
 声を掛けてくる人間はおらず、敢えて無視しているのか。まるで腫れ物のように扱いだが、俺にとっては寧ろ、これくらいで丁度よかった。
 けれど、唯一、あいつだけは違った。

「あれ?……ゆう君?」

 教室の扉が開き、現れたのは壱畝だった。
 丁度今登校してきたばかりなのだろう、肩からバッグを下げた壱畝は俺と志摩の姿を見るなり、にこりと笑った。

「随分と久し振りじゃん。……一ヶ月振りくらいかな?……ねえ、ゆう君」
「……はる、ちゃん」
「さっき先生に聞いたよ、ノートだろ?悪いけどゆう君が復帰してるって思わなくて部屋に置いたままなんだよな」

 変わらない、何もなかったかのような笑顔、態度。
 矢継ぎ早に紡がれる言葉が奴の本心を隠しているように思え、無意識に全身に力が籠もる。
 一歩、歩み寄ってくる壱畝につい、後退りそうになり、なんとか踏み止まった。
 けれど、

「放課後、取りに来いよ」

 耳元、寄せられた唇。
 部屋に、と小さく付け足され、ドクンと心臓が脈打つ。

「おい」

 見兼ねた志摩が壱畝に掴み掛かりそうなのを感じ、咄嗟に俺は志摩の腕を引いた。
「志摩」と、アイコンタクトを送れば、志摩は不服そうにしながらも上げかけた手を下ろす。
 そうだ、今は、一人ではない。志摩がいる。

「わかった、放課後だよね」

 壱畝に向き直った俺は、こちらを見下ろすその目を見詰め返した。
 よく見てみると、最後に見た時よりも痩せたような気がする。目の下の隈も、酷くて。

「ありがと。……大変だったよね、こんなこと押し付けられて」

 そう、何気なく口にして、後悔する。
 目の色を変えてこちらを睨みつけてくる壱畝が、何か言おうと口を開いた時だった。
 教室内、取り付けられたスピーカーからチャイムが響いた。そして、扉が開き続けて入ってくる担任。

「おーい、席につけー!」

 その言葉に、各々の席へと戻るクラスメートたち。
 それは、壱畝も一緒だった。
 ……やはり、人前ではなにもするつもりはないようだ。
 席に戻る壱畝にほっと安堵しながらも、俺達も席に戻ることにした。けれど、ここからが問題だ。
 空のままになった阿佐美の席を見詰め、俺は小さく息を吐いた。

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