天国か地獄


 03

 安久を置いたまま、男子便所を出て、志摩と歩く。
 話すことといえば、やはり先ほどの安久の言葉のことで。

「やっぱり、安久のいうことを聞くのは軽率だと思う」
「でも、八木先輩のことは……本当だと思う。嘘をついてるように思えないし」

 そう反論すれば「だからだよ」と志摩は息を吐いた。

「安久は実際に見たのか、人伝というなら嘘を教えられた可能性もある。鵜呑みにするのは良くないと思うよ」
「……そうだね」

 そうだ、その可能性もある。
 どこまでを信じていいのかわからない今、ただ阿佐美になった阿賀松は下手に人前で出れないというのは確実で。

「仁科先輩の部屋にいるっていうのも……」
「怪しいね。ノコノコ行ったりしたら待ち伏せされてるなんてのが目に見えてるよ」
「……」

 どうにかして阿賀松だけを炙り出すことは出来ないだろうか。
 考えてみるが、どうしても安久と縁の姿がチラつく。

「ねえ、志摩」
「ん?」
「縁先輩って……今どうしてる?」

 縁に大きな傷を負わせたのは恐らく、一ヶ月も近く前のことだ。
 まだ派手には動けないとは思うけれど、まだ塞いでいないであろう頃、灘を探していたときの姿を思うと思っていた以上に縁はタフだということがわかった。
 つまり、それは、非常に厄介だというわけで。

「……なんで?」
「もし動けるくらい回復してたら……って思ったから」
「その心配はいらないよ」

 なんとなく、含みのある言い方をする志摩が引っかかる。
「どういう意味?」と尋ねれば、志摩は笑う。

「派手な運動は出来ないはずだから」
「……」

 志摩が何か隠しているのは明らかで。
 それがろくでもないことというのは間違いないだろう。

「ま、阿賀松たちの動きなら俺の方で様子見てみるから気にしなくていいよ」
「……でも」
「齋藤は元気になるのが先だよ」

 俺はもう大丈夫だよ。
 何回も繰り返したやり取り。恐らくどれだけ見繕ったところで見抜かれるのだろう。
 志摩の言う通りだ。全力疾走くらいは出来るようにならないと。
 いつまでも志摩に引っ張ってもらってばかりじゃダメなんだ。

 ◆ ◆ ◆

 昼休み。
 購買でパンを買い、栫井がいるはずの旧体育倉庫へ向かう。
 志摩は途中まで付いてきていたのだが、「ちょっと気になることがあるから」と言ってグラウンドで別れた。
 志摩の気になることも気がかりだったが、今は栫井のご飯の方が先だ。
 バレないように、小走りで向かった旧体育倉庫。中を覗けば、そこは静まり返っており。

「……栫井?」

 カートの物陰を覗き込めば、いた。
 カートに凭れるようにして目を閉じた栫井は眠っているようだ。
 静かに寝息を立てる栫井。
 よっぽど疲れているのか、寝ているときまで眉間に皺が入っている。
 ここで起こすのもなんだか気が引けて、栫井の側に腰を下ろした俺は栫井が目を覚ますのを待ってみることにする。
 けれど。高窓から差し込む陽射し、暖かな気温に次第に眠くなってくる。うとうとしそうになり、必死になって目を開くが、ダメだった。
 ちょっとだけ、目を閉じるだけだからと言い訳じみたことを並べながら瞼を下ろせば、次に目を開いた時には目の前には栫井がいて。
 怪訝そうにこちらを眺めていた栫井に驚いて、慌てて体を起こせば手元でビニール袋が音を立てた。
 どうやら気付かぬ間に本格的に眠ってしまっていたようだ。

「ぁ……ご、ごめん……俺……っ」
「寝るんならこれ外してから寝ろよ」
「ご……ごめんなさい……」

 気を取り直し、栫井にどやされながらも拘束を解く。
 そして俺たちは改めて昼食に入ることにした。

「どうだった?誰か、来たりとかは……?」
「……別に」
「……本当に?」

 美味しいともまずいとも言わずに黙々とパンを食べる栫井。
 そのぼかしたような物言いが引っ掛かり尋ねれば、栫井はゴクリと飲み込み、ゆっくりと口を開いた。

「……壱畝遥香」
「……え?」
「だっけ?……そいつが来てただけ」

 予想だにしていなかったその名前に、全身が強張る。
 なんで壱畝が。思ったが、壱畝が芳川会長と通じていると考えるならば俺たちを探っていたと考えて普通だろう。
 バクバクと乱れる脈を落ち着かせながら、俺は栫井に目を向けた。

「壱畝……君、には、見つからなかったの?」
「入り口から覗いただけだったからな。……すぐ出ていった」

 その言葉を聞いて安堵したが、そもそも壱畝がわざわざ人気のないこの倉庫に来たのが問題だ。
 もしかしたら全て行動を見られてるとして、栫井が見つかるのは時間の問題なのは明らかで。そうなったら、そう考えると生きた心地がしなかった。

「……やっぱり、ここじゃダメなんだ」
「……」

 どこか、他に、なにか。俺の部屋はダメだ。栫井の部屋も使えない。だったら、どこが安全だというのか。
 そう、一人しあんしたときだった。
「おい」と栫井は口を開く。

「俺を自由にしろ」
「え?」
「いい加減、コソコソすんのは面倒なんだよ」
「ちょっと、待って。どういう……意味?」
「自分の身くらい自分で守れる。……あんたに庇ってもらわなくたって」

「そう言ってんだけど」と、続ける栫井。
 いつものトゲトゲしさはない分、栫井が本気で言っているのだと分かり、余計ショックが大きくて。

「でも……」
「俺に逃げられたりでもしたら不都合だって?」
「ち、違う……くはないけど……」
「……」

 人質だから、とかそんな薄っぺらい口約束、元より効能があるとは思っていない。
 引き止める言葉が見つからないことが問題だった。
 俺は、栫井と一緒にいていいのか迷い始めていたのだろう。
 そんな俺の動揺を感知したのか、深く息を吐いた栫井は俺を横目に見る。

「俺は……あんたから逃げない。……逃げるつもりはない」

 また、思考が揺れる。言葉の真偽なんてわからない。それでも、今更栫井がこんな嘘をつくとは思えなくて。だからこそ、迷った。
 嬉しく思う反面、信じていいのかわからなくて。口籠る俺に、栫井は「携帯」と手を出してきた。

「え?」
「あるだろ?……出せよ」

 言われるがまま、志摩から借りていた端末を栫井に渡す。
 すると、慣れた手付きで端末を操作した栫井はそのままそれを俺に投げて返した。
 落としそうになって、なんとかキャッチに成功する。

「今充電ねーけど、充電入れてくるから……そしたら使えるし」

「だから、なんか用ある時は掛ければいいだろ」と、続ける栫井。
 端末、アドレス帳を見れば栫井の連絡先がそこに記載されていた。
 本物の連絡先なのかとかそんなことよりも、栫井が動くということは自分は頼りないからであって、そのことが申し訳なくて。

「……っ」

 ここにいろ、どこにも行かないでくれ。そう言わなければならない。
 分かっているのに、このまま引き止めていたことで栫井が捕まったらって思ったらなにも言えなかった。

「……ごめん、栫井……俺がちゃんと、世話するって言ったのに……」
「俺は犬かよ」
「でも、怪我とかあるし、もし、何かあったら」
「逆だろ」
「……え?」
「もう、これ以上気にするものもなくなったんだ」

「清々するだろ」そう、微かに笑った栫井の言葉に胸の奥がチクリと痛んだ。
 その言葉の裏に会長の姿が見えたような気がして、ああ、そうかと思った途端、余計辛くなる。
 けれど、その言葉は俺にとって何より求めていたものでもあって。

「なんか勘違いしてるみたいだけど……別にあんたが嫌で逃げるわけでもヤケになったわけでもないから」
「……なら、どうして急に……」
「……志摩亮太は、信用できない」
「え?」
「あいつには勝手にいなくなってたって言っとけ。……その方が俺もお前も都合いいだろ」

 突然出てきた志摩の言葉に今度は驚く番だった。
 確かに、志摩と栫井の仲はあまりよくないというのは分かっていた。
 志摩のことをよく思っていないことも、だからこそ。

「……栫井、俺のこと、信用してくれてるの?」
「……は?」

 そんなことを、志摩と一番近いであろう俺に言うということは相当の覚悟がいるはずだ。
 ただでさえあまり素直とは言い難い栫井の性格を考えると、その労力は計り知れない。
 俺の言葉の意味に気付いたらしい栫井はハッとし、そして忌々しそうに舌打ちをした。

「ばっかじゃねーの……そういう話してるわけじゃねえから、今」
「でも……」
「黙れよ」

 伸びてきた手にビックリして、咄嗟に目を瞑った時。
 額に小さな痛みが走る。

「あいた……ッ」

 どうやら指で小突かれたらしい。
 驚いて顔を上げれば、こちらを見てくる栫井とまともに目があって。

「……またな」

 そう、栫井は笑った。
 皮肉でも意地の悪さも感じさせない、ちゃんと笑った栫井を見たのは恐らく初めてのことで。
 立ち上がる栫井が、そのまま俺の隣からいなくなる。

「……っ」

 呼び止めなければ。分かっているのに、ここは栫井のことを信じよう、そうもう一人の自分が声を上げる。
 栫井を繋いでおくことが、栫井にとって一番の苦痛であることは気付いていた。
 なにが最善なのか、分からない。
 けれど敢えて危険の中に脚を踏み込むことによって見つかる打開策に俺は賭けることにした。


 場所は変わらず、旧体育倉庫。
 遅れて現れた志摩に、俺は栫井がいなくなったという旨を伝えることにした。
 のだけれど。

「栫井がいなくなった?」
「う、うん……もしかしたら、会長に……」
「……」

 驚くわけでも、喜ぶわけでもなく、ただじっと栫井のいた場所を見つめては考え込む志摩。
 その沈黙が身に刺さるようで、「志摩?」と尋ねれば志摩は微かに笑った。

「いや、何でもないよ。……でもま、良かったよ。手間が省けて」
「……何言ってるんだよ、志摩」
「あいつ、余計なことベラベラ喋ってなかったらいいけどね」

 刺々しいその言葉に、言われた俺の方が辛くなってしまっのは何故だろうか。
「志摩」と、咎めるように名前を呼べば、志摩は笑う。

「齋藤、何怒ってるの?」
「……そんな言い方はやめてくれ。……本当に、何かあったらどうするんだよ」
「……そうだね、今のは俺が言い過ぎたよ。あんなに使えそうな捨て駒がいなくなってね、本当に惜しいことしたよ」
「……」

 恐らく、志摩に人徳を説いたところでどうしようもならないだろう。
 そして俺も志摩のことをキツく言える立場でない。
 何も言えなくなり、ただ居心地の悪さだけが残った時だった。

「……ん?」

 不意に、倉庫の隅、栫井を縛り付けていたそこに屈み込み、何かを拾い上げる志摩。
 何か会ったのだろうか、とその手元に目を向けようとした時だった。

「齋藤、もう昼ご飯食べた?」
「え?」

 突然の問い掛けに、俺は狼狽える。

「いや、まだだけど……」
「……齋藤がここに来た時にはもう栫井はいなかったんだよね?」
「……そう、だけど」

 志摩からの質問攻めに、なんだか胸の奥がざわつき始める。
 それでも出来る限り矛盾を作らないよう、シラを切った時だった。志摩がゆっくりとこっちを振り返った。

「ここに袋の切れ端が落ちてるんだよね」
「え?」

 志摩の指先、摘まれたそれは間違いなく昼飯用と俺が栫井に渡した惣菜パンの袋の切れ端で。
 志摩の言わんとすることが理解できた瞬間、一気に汗が滲み出る。

「場所的に栫井がいた位置だよね。朝買ったのは缶詰だったからこんなものが落ちるはずがないんだけどなぁ……」

 バクバクと激しく脈打つ心臓。落ち着け、大丈夫だ、まだ、大丈夫だ。そう必死に宥めつけるが、一歩、歩み寄ってくる志摩に無意識の内に後退りしてしまい、気が付けばあっという間に壁際に追い込まれていて。

「……ねえ、齋藤」

 目の前、真っ直ぐに俺を見下ろしてくる志摩に名前を呼ばれ、ギクリと全身が緊張する。

「本当に、栫井はいなかったの?」

 志摩の目を真っ直ぐに見れなかったのは、その目が疑念そのものだったからだろう。
 喉が震える。それでも、ここでバレては、栫井にまで迷惑を掛けることになる。
 奥歯をギュッと噛み締め、震えを堪えた。そして、真っ直ぐと志摩の目を見据え返す。

「……言ってるだろ、会ってないって」

「それじゃ、俺と齋藤以外の誰かがここで何か食ったってことかな。栫井がそんなこと出来るはずないだろうし、俺でも齋藤でもない第三者が」

 完全に疑われてる。
 しかし志摩が疑うのは無理もない。実際、栫井を逃がしたのは俺なのだから。それでも、バレるわけには。

「ねえ……齋藤、嘘吐いてない?」
「なんで、そんなことで嘘をつかなきゃいけないんだよ」
「そうだね。例えば栫井に頼まれてなーんにも考えずに栫井を逃したりとかさ」

 志摩は本当、変なところで敏い。
 人を信じることをしない志摩だからこそその可能性にいち早く辿り着くことが出来るのだろうが、自分がその対象になるとは思ってなくて、同時に自分の甘さに驚いた。
 最初から分かっていたことではないか、元々志摩は俺のことを信じてなんかいない。

「俺を……疑うのか」
「そういう訳じゃないよ、その可能性はあるよねって話」

 そう続ける志摩はあくまでもいつもと変わらない調子で。
 本当に、食えない男だと思う。それなら余計、こんなところで食われるわけにはいかない。

「それなら……そっちだって同じことが言えるんじゃないのか」

「志摩が栫井に睡眠薬入りのパンを食べさせて眠らせた状態で勝手にここから連れ出して別のところに閉じ込めてる可能性だってあるだろ」無茶苦茶だと分かっていた、けれど、可能性というなら無茶苦茶であれ筋を通せば幾らでも作ることは出来る。
 そんな俺の反論に気を悪くするわけでもなく、志摩はいつものあっけらかんとした調子で笑うばかりで。

「まあ、確かにそれは否定できないね。……あんな男閉じ込めるくらいなら齋藤を隔離して閉じ込めておきたいけど、俺は」
「……っ、もうやめよう、こんな言い合い……答えなんて出てこないよ……」
「……そうだね、これ以上齋藤に怒られたくないしね」

「俺も、齋藤がそんなことするとは思いたくないし」小さく呟かれた言葉はしっかりと俺の耳に届いていた。
 その声に、トーンに、胸の奥が鈍く疼く。
 俺は、それを見てみぬフリをすることで精一杯だった。

「……志摩」
「ここの辺りなら大丈夫かな」

 志摩に連れられるがままやってきたのは学生寮裏だった。
 人目につかないそこはその分日が当たらず、どこかジメジメとした空気が漂っていた。
 いい場所とは思えないが、二人きりになるには最適だ。

「安久の言葉が本当か、仁科先輩の部屋の周囲を探ってみたんだ」

 そして、志摩は続ける。
 志摩が先程までどこに行ったのか気になっていた俺にとって、あの志摩が自分から切り出してきたことに驚いた。その内容にも。

「部屋はカーテンも閉め切られて分からないし、誰も出歩いていないから中がどうなってるかすら分からなかったよ。確率としては半々ってところだろうね」

「ただ、八木の姿は誰も見ていないみたいだね。元々あまり出歩くタイプじゃないから怪しいけど、八木の部屋も誰もいないしこればかりは何とも言えないな」全て安久の狂言だったらと何度も願ったが、どうやらそう上手くはいかないようだ。
 それでも、その志摩の言葉のお陰で心の準備を済ませることはできた。

「そっか……ありがとう、志摩」
「誰かさんに勝手な真似されるくらいなら自分の脚を使った方がましだからね」

 志摩の皮肉は気遣いだと思うようにしよう。
 実際、そこまで動いてくれる志摩には感謝をしてもしきれない。

「結局、芳川の方も目立った動きもないし、案外このまま今まで通り暮らせるかもしれないね」
「……それは、ないと思う」
「安心したよ、流石にそこまで平和ぼけしているわけでないみたいで」

 笑う志摩。なんだか褒められているような気がしないのは恐らく気のせいではないはずだろう。
 話題を逸らそうと思い、慌てて咳払いをする。

「でも……本当、安久の単独行動以外はあまり動きないみたいだね」
「腹探ってるんでしょ。芳川の方は下手に出られないはずだし、あの書類がある限り」
「だとしたら、動くときは……」
「書類の居場所が分かった時だろうね」
「……」

 会長の経歴全てが記載されたあの書類だけは、何がなんでも渡すことは出来ない。渡してはいけない。
 武器も盾もない俺達にとっての唯一の切り札でもある。
 そして、こうして芳川会長が泳がせてくれているということはその効果はまだ切れていないはずだ。

「まあ、それにわざわざ後を着けなくても監視することは出来るからね、二人とも」
「……監視カメラか」
「一切こっちから干渉できなくなってしまうのは厄介だけどね」

 確かに、と頷き返す。昼休み終了の予鈴が響く中、もう一度俺達は校内に戻ることにした。
 心配事と言えば、やはり栫井のことだろうか。無事だろうか、後で一度栫井の連絡先に電話を掛けてみる必要がある。
 ちゃんと携帯を充電することは出来たのだろうかとか気になることな沢山あるが、それを志摩に悟られないようにするので精一杯で。
 廊下、行き交う生徒たちに混ざって俺たちは教室へ戻る。
 いつもと違う、どこかざわめき立つ教室内。その興味の矛先が向けられていたのは俺たちではなく。

「……」

 何かあったのだろうか、思いながらも教室内に目を向ければ壱畝の姿がない。
 そのことに安堵するのも束の間、芳川会長の姿が脳裏を過り、咄嗟に俺は志摩に目配せをした。
 俺のアイコンタクトに志摩も気付いたようだ。

「ねえ、壱畝は?」

 何気なく、側に居たクラスメートに声を掛ける志摩。

「えっ?ええと、さっき会長が来て……」
「ああ、なんだ、入れ違いになっちゃったか。ありがと」

 会長?会長って言ったか、今。
 嫌な予感が的中してしまい、「志摩」と駆け寄れば志摩も思うことがあるようで。

「深追いはダメだよ。……様子を見るだけだからね」

 耳に口元を寄せられ、小声で言い聞かせられる。
 つまり、志摩も同じことを考えていたみたいだ。
「分かった」とだけ頷き返し、俺たちは再び教室を出た。

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