08
「では、戻りましょうか」
結局、最後の後処理まで灘任せになってしまった。
灘の顔をまともに見ることが出来ないまま、俺は腕を掴まれ男子便所を後にする。
「……」
「……」
手錠は相変わらずだ。隣を歩く灘も、相変わらずで。
逃げ場を探そうにも隙そのものが見つからない。
常に灘の視線を感じながらも、俺は俯いたまま歩くしかなかった。
「……齋藤君」
不意に、灘が俺の名前を呼ぶ。そのときだった。
パンッと、何かが叩き壊されるような破壊音が聞こえた。
それは然程遠くない通路の奥からで、次の瞬間、静まり返っていた通路にけたたましいサイレンが響き渡る。
「……なに……ッ?!」
その音には聞き覚えがあった。
火災などの非常時、もしくはその模擬として避難訓練で校内に響かせる、サイレン。
一体何ごとだ。そう狼狽えていると、灘が振り返る。
見ているのは俺ではなく、その背後。咄嗟に灘に腕を強く引かれたその次の瞬間、聞き慣れない音が背後でする。
なにかが噴出するようなその音だ。
「……ッ」
伸びてきた灘の腕に強く抱き締められた。
自分の胸に押し付けるように、空気を吸わせないとするかのように。
動くに動けず、それ以上に、視線を上げた先、辺りが真っ白になっているのを見てただ事ではないのはすぐに理解した。何が起こっているのかも。
「オラ……さっさと、くたばれッ!」
聞き覚えのある声とともに鈍い音がして、背中に回された灘の手が僅かに強張る。
それでも、灘は声を上げずに俺を抱きしめていて。
「……ッ」
二度目の音ともに、灘の指が俺から離れる。
「息を吸わずにこのまま階段を下りて下さい」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だった。
どういう意味かと聞き返す前に、灘に思いっきり突き飛ばされた。まるで自分から引き離すかのように。
「……痛っ……」
咄嗟に、灘を見た。その正面には見知らぬ生徒がいて、灘の横顔が赤く濡れていたのを見て、生徒は丁度手にしていた消火器を灘に向かって振り回していて。
「灘君……ッ」
止めようと、生徒に体当たりでもして消火器を灘から逸らそうとするけど、俺の体は自由が奪われたままで。
逃げるどころかみっともなく転ぶ俺を見て、僅かに目を見開いた灘。
その横顔に思いっきり消火器が叩き込まれるのを見て、俺は。俺は。
灘から溢れる赤に、腹の底からどっと嫌なものか迫り上がってくるのが分かった。
誰が、どうして、こんな。酷いことを。目の前の残状から目を覆い隠したくなったが、その自由さえ奪われた俺に為すすべはなくて。
「誰か……っ」
喉奥から声を押し出す。震えようが、構わず。
「誰かッ!来て下さい!」
ひりつく喉を使い、出したこともないような大声を張り上げた。兎に角、誰でもいい。誰か、灘を助けてくれ。
その一心で叫ぶが、校内に響き渡る非常ベルで俺の声は掻き消される。
いきなりの奇襲。四発目が灘の頭部を掠めた時、消火器を素手で受け止めた灘はそのまま相手の手から消火器を奪う。
そして間髪入れずに相手の顔面を思いっきり側面で殴りつけた。
「っぐゥッ」
「ひ……ッ」
まさかの灘の反撃に、咄嗟に目を瞑っていた。
何かが潰れるような音がして、耳を塞ごうにも塞げなくて、容赦なく連発で男を殴りつける灘に、とうとう俺はその悲痛な呻き声が聞こえなくなるまでその場を動くことが出来なくて。
「……は、っぁ……」
呼吸が、息が苦しい。顔を真っ赤に腫らした男の咥内、消火器のノズルを押し込んだ灘はそのまま思いっきりそのレバーを引いた。
「うぅううゔッ!!」
「灘君ッ!!」
もう相手が戦意喪失しているのは一目瞭然で、それでも尚手を止めない灘を見兼ねた俺は慌てて呼び止める。
俺の声に反応したのかわからないが、レバーから手を離した灘はそのまま消火器を男の顔面に投げつけた。男は口から白と赤が混ざったような何かを吐き出しながらそのまま後ろに倒れる。
「……灘君」
掛ける言葉が見つからなかった。
大丈夫?そう聞こうと思ったのに、無表情で相手を殴打する灘に声が出なくて。
額や頬、あらゆる箇所が切れているようで、赤い血で真っ赤に濡れた灘の顔面は痛々しい。
先程食らわせた最後の一発が灘にとって絞り出した力だったのか、こちらへと歩み寄ってくるその足元はふらついていた。
その時、丁度目の前までやってきた灘の体が前のめりに倒れる。
「灘君……ッ!」
その場に倒れそうになる灘。這いずるように移動すれば、なんとか上半身で灘を受け止めることが出来た。
灘にはまだ辛うじて意識が残っているようだった。
早く、病院に電話をしないと。けたたましく鳴り響くサイレンの中、携帯を探すが手の自由も利かない今灘を支えることも出来なくて。サイレンに余計気が急かされ、混乱する。
「……どうしよう、どうしよう……」
繰り返す。誰かが来るのを待つことしか出来ない自分が歯痒くて堪らない。そんな中、不意に灘の唇が動いた。
「え……?」
慌てて灘の口元に耳を寄せようとするが、あまりにも煩いサイレンに掻き消されてとうとう灘の声は聞こえなかった。
そのままゆっくりと目を閉じる灘。血の気が引いていく。
早く、早く誰か――。
そう、いるかもわからない神に願った時だった。
「おーおー、こりゃすげえな」
聞こえてきたのは、緊張感のない声。それは、聞き慣れたもので。
酷く久し振りに聞いたような気がする。最近、受話器越しに聞いたばかりだと言うのに。
乱れた鼓動が更に加速する。全身から嫌な汗が滲み出した。
「阿賀松……先輩……」
「久しぶりじゃねえの。随分と楽しそうなことしてんじゃねえか」
この際、阿賀松でも良かった。誰でもいい、助けてくれるのなら。
俺の頭の中には灘の応急措置をすることでいっぱいいっぱいで、だからだろう。
俺が、阿賀松に口を利けたのは。
「あの、お願いです……っ、灘君を、灘君を……」
「助けろってか?」
尋ねられ、大きく頷いた。
何度も頷く俺に、阿賀松は「は」と鼻を鳴らす。
「俺が?どうしてこいつを?」
「どうしてって……っ、だって、怪我が……」
「俺が負わせたわけでもねえし関係ねえだろ。そもそも、なあ、ユウキ君」
「お前、誰に向かって命令してんだよ」瞬間、顎先に硬い感触が押し当てられる。
それが阿賀松の靴の尖端だというのはすぐに分かったが、硬い革の感触に、血の気が引いた。
そのまま頭部ごと壁に押し付けられ、咄嗟に爪先を避けようとするが首を踏まれ、動けない。こちらを見下ろす阿賀松の目から笑みが消える。
「っ、……く、ぅ……」
「俺、言ったよなぁ?嘘吐かれるのが大嫌いだって。おまけに、あのクソ眼鏡のためだ」
「が、ァッ」
圧し潰されるような息苦しさに頭に血が上るのが分かった。
逃れることが出来なくて、掛けられる体重に然程鍛えてもいないその器官は阿賀松の力で簡単に潰されてしまいかねない。
それでも、阿賀松が怒るのも無理がないと思う。それにこれくらいはある程度想定できていた痛みだ。それよりも、俺は、早く灘を。灘を助けなければ。
「……がい、しま……す……っ」
喋る度に酸素が無くなって目の前が白くなる。
それでも、どうせこのまま無駄な呻きで残された酸素を使い果たすくらいなら。
「なだ、くんを……助けて……ッ!」
最後の方は声にならなかった。息苦しさで徐々に顔面の感覚が麻痺していく。自分がどんな顔しているのかすら考える余裕はない。生理的に涙が溢れる。悲しくはない。怖いけど、それでも、誰かが傷つくのをこれ以上見るくらいなら。
「…………」
無表情の阿賀松。何を考えているのか分からない。それでも、相変わらず隙はない。それどころか、鋭い視線は突き刺さるようで。
「……んだよ、ゴメンナサイとかスミマセンとか言わねえのかよ、お前」
え?と聞き返そうとした矢先、首を踏みつけていた阿賀松の靴が外れる。
圧迫していたものがなくなり、一気に体の中に酸素が入ってきて。
慌てて呼吸をし、酸素を取り入れているといきなり顔面を踏みつけられる。ぶつかる鼻先。驚いて目を見開けば靴の裏で視界全てが遮られているではないか。
「っ、あ、の……」
「特別だ。その木偶の坊、助けてやるよ。…………その代わり、舐めろよ」
「えっ?」
「さっききたねえもん踏み付けてきたから気持ち悪いったらねえんだよ。ユウキ君、てめえの舌で綺麗にしてくれよ」
「助けて欲しいんだろ?」そう笑う阿賀松は冗談にも本気とも取れない調子で続ける。
靴の裏を舐めるなんて、どこを歩いてきたのか何を踏んできたというのかもわからないそんな箇所の衛生面がとてもいいとは思えない。想像しただけで寒気がしたが、それでも、こうして俺がグズっている間にも灘が苦しんでいると思ったら俺に選択肢はなくて。
「……っ」
目を硬く瞑る。恐る恐る舌を突き出した俺は、そのまま阿賀松の靴の裏に舌を這わせた。
目を瞑って今自分が何を舐めているのか、そのことを必死に紛らすものの舌先に感じる特徴的な凹凸は紛れもなく靴底のそれで。
どれだけ舐めろというのか。それすら分からず、必死に阿賀松の足元に這いつくばって靴底を舐める。
「……ホント、お前ってプライドねーのな」
呆れたような、溜め息混じりのその言葉が胸に突き刺さる。
自分でもわかってる。本来ならば、ある程度の自尊心を持ち合わせている人間ならこんな真似しないと。
「ったく、少しは嫌がれよ。頭おかしいんじゃねえの?」
蹴るように、阿賀松の靴が離れる。言われた通りにしたはずなのに、何故か機嫌を損ねる阿賀松に戸惑わずにはいられない。
「せん、ぱい」
「そんなにそいつ、助けてほしいのかよ」
無言で頷く。
「このまま放っておいたら俺よりもお人好しなやつが通りかかるかもしんねえぞ」
「もしかしたらな」と付け足す阿賀松。阿賀松の言葉にも一理ある、それでも、そのもしかしたらを待っている暇はない。それに、阿賀松なら助けてくれるはずだ。
根拠もない。それでも、そんな気がするのだ。
「お願いします、灘君だけでもいいので、病院に連れて行って下さい」
お願いします。そう頭を下げた時、俺を見下ろしいた阿賀松の目が僅かに細められる。
「……わかったよ」
そして、諦めたように阿賀松は浅く息を吐いた。
「助けてやるよ」
「本当ですかっ?」
「そう言って俺が本当にこいつを病院なんてところ連れて行ってやると思うのか?お前は」
挑発的なその言葉。腹を探るようなその視線が居心地悪い。それでも、無理もない。阿賀松には恐らくもう隠し事は通用しないのだろう。誤魔化しだって、そうだ。
「……思います」
「へえ、どうして」
「先輩が……灘君を放っておくわけがないと思うからです」
利用価値がある。そう嬉々として語っていたあの阿賀松が、灘に恩を着せるこんなチャンスを見逃すとも思えない。
「なるほどな、お前も少しは頭使えんのな」
変わらない調子で笑う阿賀松。
不意に、廊下の奥から複数の足音が近付いてくる。身構えた矢先、現れたのは風紀の腕章を着けた生徒たちで。
まずい、と凍り付いた時。阿賀松が軽く連中に向かって手を振った。
「丁度いい。おい、そこに転がってるやつ、連れて行け」
当たり前のようにそう命じる阿賀松に、風紀委員は「わかりました」と灘の腕を掴む。
そのまま引き摺るようにしてどこかへと連れて行く風紀委員たちに、というかどうして阿賀松の命令を聞いているのか理解できなくて一人狼狽えていると、一人の風紀委員に腕を掴まれ、無理矢理立たされる。
「えっ、あ、あの……っ」
「ああ、そっちは俺の部屋にでも転がしといて」
え、と慌てて阿賀松を振り返ろうとした矢先、「わかりました」と勢い良く返事する風紀委員に肩を掴まれ無理矢理歩かされる。
行き先が阿賀松の部屋だとわかってしまった今、逃げないとマズイと思ったが元より阿賀松とは話さなければならないと思っていた。だけど、ちょっと、心の準備が。
そんな俺の意思は他所に、風紀委員たちに揉みくちゃにされながら俺は学生寮へと舞い戻るハメになる。
←back