天国か地獄


 06

「どうだ?まだ寒いか?少しだけ温度を上げてみたのだが、暑かったらすぐに言ってくれ」
「……」
「すまなかった。腹、空いただろう?そろそろ胃の方も慣れてきただろうし、大丈夫だろう」

 食事にするか、と立ち上がった芳川会長はサイドテーブルの上、既に冷めきった料理を乗せたトレーから皿を手に取る。
 固形料理ばかりでスープ類が見当たらないのは俺の手が使えないのを配慮した上なのか、わからないが、今この状況で食欲は湧くはずもなく。

「ほら、口を開けろ」

 箸を使い、揚げ物を手に取った会長。
 それを口先まで持って来られるが、とてもじゃないがそんな脂っこいもの、食べる気にすらなれない。首を横に振り、拒絶する。
 なのに、

「いいから開けろ。このまま何も食べなかったら体を壊すだろ」

 怒ったようなその声に、少しびっくりして背筋が伸びた。それでも、食べられなくて。
 頑なになって口を開けようとしない俺に、芳川会長は溜め息を吐き、渋々その揚げ物を皿に戻す。

「ならば、これはどうだ?フルーツ、これくらいなら入るだろう」

 栄養もたっぷりだぞ、と笑う会長は小皿に盛られた桃を箸で持ち上げる。滴る汁。
 何を持ってこられたところで俺にとって何も変わらない。
 無言で俯けば、眉間を寄せた会長は「これも嫌なのか」と唸る。
 明らかに会長がイライラし始めているのがわかって、怖かったが、それでも、志摩の安否も分からない今、自分だけのうのうと食事を取る気になれない。

「いい加減にしろ」

 箸を置いた会長の怒鳴り声にビクッと体が反応した。
 自分の声の大きさに本人も驚いたようで、僅かにバツが悪そうにする会長は「すまない」とだけ謝り、そして俺を見下ろす。

「……しかし、俺は君のためを思って言ってるんだ。無理にでも何かを食べた方がいい。でなければ、身が保たないだろう」
「……なら、この縄を外して下さい。俺、自分で食べますから」
「それは出来ない」

 即答だった。予想は出来ていたが、それでもショックを受けずにいられなくて。

「会長……ッ」
「言っただろう。俺は君のためならなんでもすると。……君を自由にするつもりはない。それは、全て齋藤君のためなんだ」

 本当に俺のためだというのか。会長の言葉は早々理解出来るものではなくて、確かに勝手な行動したのは事実だ。会長の行動に俺の意思がないのも事実で。何が善で何が悪なのか、最早俺には判断つかなかった。それでも、会長の行動が俺のためになるとはそう思えない。

「……俺には、わかりません」
「別に、理解されなくても構わない。俺も君がわからないのだから」

 小さく息をつく会長。
 どこか疲弊したその表情に、俺はなにも言い返すことが出来なくて。

「ここまでしてやっているのに、どうして君は満足しないのだろうな」

 理解できないな、と吐き捨てる会長は、フォークを手に取った。
 そして、そのまま皿の上に乗せてある揚げ物に突き立てる。小さく響く金属音。そのまま揚げ物を口に含めた会長に、俺はハッとする。
 まさか。既視感に、全身から血の気が引く。
 そして、俺の予想は当たるわけで。

「ちょ……ッ、待っ、待って下さい」

 肩を掴まれ、咄嗟に後ずさる。
 会長が何しようとしているのか、わかった。わかったが、どうしてもそれを受け入れる気にはなれなくて。
 必死に逃げようとするが背後に回された手に後頭部を掴まれ、固定される。血の気が引いた。

「や……ッ、ぅ、んんッ!」

 俺の制止を無視し、唇を塞がれた。
 口いっぱいに広がる料理の味に、本来ならば食欲を唆られるのだろうが無理矢理捩じ込まれるそれにただ嗚咽が込み上げてきて。

「っ、ぁ、んうう……ッ」

 ぬめる舌を唇を抉じ開けられ、咥内へと押し流される揚げ物は既に形がなくて。
 食事というよりも、まるで動物かなにかが食べられない子供のための行為のようにすら感じ、実際に会長からしてみればそうなのだろうが、それでも、自分が人間として扱われていないようで、酷く情けなくて。

「ぅ、っえ、……ッ」

 どんどん咥内へと押し流されてくるそれに、そのざらついた感触を忘れたくてそのまま喉奥へと流し込む。
 ごくりと喉が鳴り、まずは一口、料理を口にした俺に満足したのだろう。会長は口を離す。

「なるほど、君はこうしたら食べるのか」

 冗談なのか、本気なのか、バカ真面目な顔してそう呟く会長にただ目から涙が溢れた。
 自分が何も出来ない赤ん坊のように扱われることが、これ以上にないほど屈辱的だった。そして、こんな風に悔しく感じる自分に少しだけ驚いたのも事実で。

「……食べます、食べます、ちゃんと自分で食べますから……っ」

 だから、と口を開くよりも先に、会長が二口目の料理をフォークで取る方が早かった。皿の隅、小さく盛られたそれはパスタのようで。

「なに、遠慮しなくてもいい」

 涼しい顔して、濡れた唇を舐め取る会長は薄く笑う。
 その言葉に、会長の口へと運ばれる二口目に、足元が崩れ落ちる。

「喉も通らないのなら俺が流し込んでやる」

 頬を伝うのが涙なのか冷や汗なのかそれすらも区別付かなくて。ただ、目の前が暗くなっていく。


「っ、ぅおえ゙ッ」

 止まらない嗚咽。
 腹に溜まった料理を吐き出したいのに、手足も使えない今ただ胃が痙攣起こすばかりで肝心の嘔吐まで行き着かなくて。
 あの後、俺は全ての料理を会長に食べさせられた。会長を通して。
 満たされた腹がただただ気持ち悪くて、会長のことは嫌いじゃなかった、好きだったし、かっこよくて憧れていた。だからこそ余計、ここに来てからの会長の奇行を受け付けることが出来なくて。

 無人の仮眠室内。
 数分前、放送で呼び出された芳川会長は空の皿とともに仮眠室を後にした。
 何も着せてもらえない服も、手足を括り付ける縄もそのままだ。外されていた猿轡も、また咥内に収まっている。

「っ……ふ、っく……ッ」

 俺はここで何をしているんだ。情けなくて泣きたくなったが、最早涙すら出なくて。
 嗚咽だけが、仮眠室に響く。
 このまま俺は会長の言うとおり阿賀松たちが処分されるまでここに居なければならないのか。
 今の会長は正気じゃない。そう痛いほどわかっていたし、下手な真似をしたらいつ自分がその矛先を向けられるかわからない。
 わかっていたが、全てが終わるまで待つことは出来ない。それでは遅いのだ。
 恐らく、阿賀松は阿佐美を盾に逃げ切るし、全てはすぐに片付かない。だけど、そのことを会長に伝える暇も、伝える気もなかった。
 どうにかして逃げられないか。今度こそ、逃げたらどんな目に遭うか分からない。わかっていたが、それでも会長から逃げたかった。恐らく、その本能が俺の会長に対する答えなのだろう。
 会長が正常ではないとしても、こちらが本性だったとしても、それでも、俺はこのまま会長の全てを見てみぬフリをして受け入れることは出来ない。
 だとすれば、どうすれば。
『伊織さんへの被害届を取り消してくれ』
 不意に、脳裏に安久の泣き顔が浮かぶ。
 阿賀松を自由にする。過る思考に、自分でも背筋が凍るようだった。
 だけど、このままでは会長は止まらない。
 恐らく、止められることが出来るのは、阿賀松だけではないのだろうか。そう、思えるくらい、俺は追い込まれていたのだろう。
 だけど、今の俺には最善の方法は思い浮かばなくて。それしかない。
 そう、俺は決意する。

 会長が戻ってくるまでにどれくらい掛かるかわからない。
 一分も無駄に出来なくて、思い立った俺はすぐ行動に移す。とは言われても、俺に出来ることなど限られていて。ベッドの上、痛む体を捩るようにして体を動かす。
 転がる、というにはあまりにも無様で、背後に束ねられた手足が邪魔でろくに動けない。
 いっそこの手足がなければまだマシだっただろうが、そんな恐ろしいこと考えてる場合ではない。
 なんとかベッドの縁まできた俺。ぎゅっと目を瞑り、そのまま俺は体を横転させた。瞬間。

「ふぅ゙ッ」

 落下する体。まともに受け身も取れず、腹から落ちた俺は暫くその場で悶えていた。
 重点的に殴られた腹部は内出血を起こしていた。また、酷くなってなければいいが。
 この時点で既に泣きそうになりながらも、痛む体を無理矢理動かしそのままベッド横のサイドテーブルの側に移動する。そして、縛られた手足を上にし、既に感覚を失い掛けている手でなんとかサイドテーブルを捉えた。
 あとは、思いっきり力を一点に掛けるだけで。

「……ッ」

 サイドテーブルを掴んだまま、思いっきりそれを横倒しにする。
 瞬間、ゴッと大きな音を立て床に叩きつけられるサイドテーブル。
 これは賭けだった。恐らくまだ扉の外にいるであろう灘に、防音のこの部屋の物音が届くかどうかの賭けだ。
 そして、その賭けは……。

「……なんの音ですか」

 開く扉、現れた灘に俺は心の底でガッツポーズをする。しかし、問題はここからだ。
 目の前の男から隙を突かなければならないのだから、それもそう容易ではないだろう。
 とにかく、せめてこの部屋から出なければ。縛られて放置されていた間、頭の中で巡らせていた幾つかの作戦を実行に移すことにする。
 作戦その@、トイレに行きたいと灘にせがむ。
 とは言っても口を塞がれた今トイレに行きたいと伝えることすらままならない。
 まずは、この猿轡を外してもらわなければ話にならない。

「ふっ、ぅう……ッ」
「……」
「ほ、ほひへひ……ひひはひへふ」

 伝わったのかは灘の無表情からはわからない。
 それでも自分なりによく出来たはずだ。……そう思いたい。
 無表情。突き刺さるような灘の視線に、そういえば灘から見れば俺は上半身裸で地面の上ではしゃいでるやつなんだよなと今更考えてしまって顔が熱くなる。
 それでも負けじと灘を見上げ返した俺は「ほひへ!(トイレ)」ともう一度声を上げた。トイレ連呼で申し訳ないが、とにかくトイレという単語を伝えたいのだ。

「トイレ、行きたいんですか」
「……!」

 よかった、伝わった!
 本当だったらついでに猿轡も外してもらいたかったが、この際伝わっただけでも良しとしよう。
 こくこくこくと何度も首を縦に振れば、灘は再び黙り込む。
 生徒会室には、仮眠室はあっても便所はなかった。
 最寄りでも生徒会室を一旦出る必要があり、そこまでは長くはないが歩かなければならない。
 こんな格好でトイレに行けるわけはないし、手足の縄を切ってもらえるのは間違いない。そして、そこで逃げる。
 作戦@はそこまで見込んだ上の作戦だ。つまり、どれ一つ段階が欠けてもいけない。
 なのに。

「大ですか、小ですか」

 言いながら、制服の中からビニール袋と手袋を取り出す灘に一瞬思考回路が停止した。
 え、ちょっと待って。え?
 ……え?

「……?小ですか?」

 不思議そうにする灘にハッとした俺は、真っ青な顔で首を横に振る。
「では」と続けようとする灘に、「ひはふ」と声を荒らげた。

「すみません。何を言ってるのかわかりません」

 なら猿轡を外してくれと死にそうになりながら訴えかければ、灘にも俺の必死さが伝ったようだ。
 渋々ながらも噛まされた猿轡を外された。瞬間、溜まっていた唾液が溢れる。

「そんなにお腹の調子が悪いのですか?」
「ち……違う……違うんだ……」
「齋藤君……?」
「トイレに……っトイレに行かせてくれ……!」

 このままではベッドので排泄処理を行われることになる。それだけは、なんとしてでも避けたくて。

「トイレの、トイレじゃないとダメなんだ、……俺。立ってからじゃないと……っ!」

 最早自分が何を言っているのかわからないが、それほど必死だったのだ。
 恐らく相当酷い顔になっていたのだろう、無言で俺の顔をじっと見る灘。
 暫く、というほど長くはないものの沈黙が流れる。そして、

「……わかりました。トイレですね」

 そう言うなり、取り出した携帯端末で何やら操作する灘。恐らく、会長に報告したのだろう。できることなら邪魔したかったが、どう足掻いても無理だ。諦める。
 その代わり、俺は下りた許可を素直に喜ぶことにした。
 しかし、それも束の間。

「では、行きましょう」
「あ、ありがと………………え?」
「トイレまでご一緒します」

 そう、なんでもないように胸ポケットからハサミを取り出す灘に再度俺の思考は停止する。

「ちょ……ちょっと待って、灘君……今、なんて……」

 じょぎじょぎと切られる縄。外れたのは腕だけで、それだけでも大分楽だが足が繋がったままの今下手に動くことすら出来なくて。
 驚いて、背後の灘を振り返ろうとした矢先。服を被せられる。
 見覚えのないそれは恐らく会長が用意していた着替えなのだろう。

「ですから、トイレ、行くんですよね」

 ご一緒します、と先程と変わりない高揚のない声で続ける灘。
 灘に気を取られてると両手首を後ろ手に掴まれ、そのままガシャリと何かを掛けられる。
 冷たい金属の感触。手首を動かそうとすれば、カシャリと小さく金属が擦れる音がして。手錠だ。

「な……灘君、これ……」
「トイレに行くまでこれを着けて下さい」
「これ、誰が用意したんだ」
「会長が、貴方に何かがあった時のためにと」

 おかしいだろう。だからってなんで手錠だ。
 まさかそんなものを出されるとは思ってもいなくて、数時間前に手錠を引き千切った痕がまだ痛むというのに、今度は剥き出しになったその鉄の腕輪にただ目の前が真っ暗になって。

「では、行きましょうか」

 じょぎんと音を立て、足首の縄が解ける。
 変に反り返った姿勢から漸く正常に戻った俺はそのまま床に寝転んで大きく伸びをしたかったが、勿論そんな暇はない。

「あっ、ちょ、待って」

 立ち上がる灘に腕を引っ張られ、無理矢理立たされそうになる。
 手足が離れたとはいえ、まだ血の巡りも回復できてない今、いきなり引っ張られて筋肉が追い付くわけがなくて。

「っう、わ」

 足にろくに力が入らず、バランスを崩しかけた時。伸びてきた手に体を支えられる。
 顔を上げればすぐそこには灘の無表情があった。

「ご、ごめん……ありがとう」

 そう、しどろもどろながらにお礼を口にしたとき。不意に灘の手が離れる。

「……」
「……?灘君?」
「行きましょう。……時間がありません」

 そう言って、俺の手を取った灘は歩き出した。
 時間がない?それは会長が戻ってくるまでということなのだろうか。
 しかし、なぜ灘がそんなことを言うのかわからなくて。
 問い掛けようとした矢先、さっさと歩き出す灘にまた転ばされそうになってそれどころではなくなる。

 home 
bookmark
←back