天国か地獄


 05

 二度目の気絶から目を覚ました時。今が何時なのか、そして自分がどこにいるのか、それすら分からなくて。
 ぼんやりとした脳味噌を叩き起こし、どこか怠い体を起こそうとするが、思う様に体が動かない。
 疑問を覚え、辺りを見回せばそこは見覚えのある場所で。

 生徒会室奥にある仮眠室。そこのベッドで眠らされていたようだ。
 背後、回された手と折りたたまれた足首が束ねられるようにして固定されているのだろう、通りで動けないはずだ。それ以上に、窮屈な体制に意識は段々覚醒していく。

「っふ、ぅ……ッ」

 咄嗟に、誰かいないか声を上げようとすれば、すぐにそれは口に嵌め込まれた何かに妨げられる。
 明らかに、自分が身動き取れないようにされている。
 それは明確で、そうするように施した人物が誰なのかも、すぐに理解することが出来た。だけど、信じたくない。理解したくなかった。
 ……だって、

「ようやく起きたか」

 背後。軋む音ともに足音がゆっくりと近づいてくる。
 聞き慣れたはずのその声が、まるで他人のもののように感じてしまうのがその声の持ち主が俺の知っているその人と同じものだと理解したくなかったからで。

「随分とよく眠っていたな。……腹が減ったんじゃないのか?待ってろ、すぐに用意させるから」

 近づいてくるその声に、体が硬直する。背後を振り返ることも逃げることも出来ず、ただベッドの上で横たわることしか出来ない俺にその人――芳川会長は俺の正面へと現れた。

「……っ」
「悪いな。その猿轡、邪魔だろうが我慢してくれ。……舌を噛み切られたりでもしたら困るからな」

 そう続ける会長はいつもと変わらない様子で。
 それでも、全身から滲み出る得体の知れない圧力は紛らすことも出来ないくらい濃厚で。

「それに、今は君の言葉を聞きたくないんだ」

「わかってくれ」と続ける芳川会長。
 その目の奥底、薄暗く淀んだその眼差しに全身の血の気が引いていく。
 それでも、負けじと腕に力を込める。キツく両手足を固定するそれは縄だろう。ささくれがちくちくと皮膚に刺さり、痛みや痒みよりも、こんな真似をしてくる会長にショックを受けずには居られなくて。
 それ以上に、ようやく、芳川会長の片鱗に直接触れることが出来たみたいで、胸の取っ掛かりが外れたようだった。
 芳川会長から逃げ出すことが裏切り行為になることは想像ついていた。おまけに、今回で二度目だ。
 会長が怒るのも無理はない。そう、思っていたけれど。

「ああ、頼む、出来るだけ早く持ってきてくれ」

 仮眠室の隅、携帯を取り出した会長は受話器の向こうの誰かに向かってそう続ける。
 恐らく、灘辺りだろう。
 固定された体。ろくに休むことも出来ず、起きることも眠ることも出来ぬまま俺はその通話をただ無言で聞いていた。
 ふとした拍子に蘇る、首を締められたときのあの圧迫感。
 会長に暴力を奮われたことがなかっただけ余計、その首に絡みつく力強い腕の感触が生々しく、こびりついて離れなくて。

「……今、君の夜食を用意させるように言った。それほどは時間は掛からないはずだ」

 ということは、今は夜なのだろうか。そういえば、志摩は。志摩はどうなったのだろうか。
 あの後、取り押さえられた志摩は……。

「齋藤君」

 不意に名前を呼ばれた。それに返すことも出来ない今、俺は返事の代わりに少しだけ視線を逸らす。
 ベッドの側。ゆっくりと歩み寄ってきた会長はこちらを覗き込んできて。
 目を、見たくなかった。会長に顔を見られたくもなかった。必死に目を逸らそうとするけど、伸びてきた骨っぽいその指に顎を掴まれ、顔を上げさせられた。

「もう、俺の顔も見たくないのか」
「……」
「俺よりも……志摩亮太の言葉を信じるのか?」

 その静かな問い掛けに、胸の奥、バクバクと脈打つ心臓が大きく跳ね上がる。
 どこから俺たちの後を着いていたのか。薄暗い通路の下。暗幕の影で自分たちの様子を伺っては足音を立てずに着いてきていた会長のことを考えたら、ぞっと背筋が凍るようで。

「……」

 信じるとか信じないとか、今となっては問題ではない。今こうして首を締められ無理やり落とされた俺の手足が縛られている。その事実だけは間違いなくて。
 無言で目を伏せれば、そんな俺の態度が気に障ったのだろう。顎を掴んでいた会長の指に力が込められる。

「こっちを向け」
「ぅ……ッ!」
「これ以上俺に逆らうのなら約束は破綻だ」

「それでも構わないのか」突き刺すようなその鋭い言葉に胸を抉らるようで。
 約束。その言葉を口の中で呟いた時、俺は栫井を庇った時、会長に出した交換条件を思い出す。

「栫井だけではない、彼……志摩亮太と言ったか?君がこれ以上勝手な真似をするというなら、俺にも考えがある」

 唐突に出てきた志摩の名前に、背筋に冷たい汗が流れる。
 目を見開いて会長を見上げた時、その目と確かに視線がぶつかった。

「そういや今特別教室棟では校舎を新設しているんだったな。……あそこなら、うっかり鉄筋が落ちてきても仕方ない」

 何気ない調子で紡がれるその言葉は、恐らく俺の危機感不安感等を煽るための挑発だとわかっていた。わかっていたが、ただの脅しには聞こえなくて。

「例え全ての指の骨が折れていたとしても、全ては事故で済まされることになる」
「……っ」

 想像したくもなかった。全身が強張り、呼吸が浅くなる。
 どうして、どうしてそんなことをしなければならないのか。志摩は関係ないだろう。
 そう言い返したいところだが、志摩が会長にしてきたこともあるので一概には言えない。
 だけど、なんでそれを、俺に。

「齋藤君、君も知っているのだろう。俺は、君のためならなんでも出来る。なんでも……君が苦しむことになってもだ」

「それが、君のためになるのなら」顎の輪郭をなぞるように這わされたその冷たい指先に、思わず顔を逸らしてしまう。
 目の前の人が、吐出される言葉が、ずっと憧れていた人のものだと思いたくもなくて。

「……俺の言う事を聞け、齋藤君。最後の会議まででいい、俺だけの言葉を聞け」

 唇が触れ合うくらいの至近距離、
 囁きかけられるその声が、鼓膜から脳髄へと直接流れ込んできて。
 ぐわんぐわんと反響する会長の言葉に肯定することも否定する手段も持たない俺に選択肢は用意されていないらしい。塞がれた口からは息が吐出されるだけで。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。
 ぼんやりとした頭の中、ただ焦りだけが俺の思考を巡るばかりで。逸る気持ちを抑えることもできず、思うようにならない体へのジレンマに気分が悪くなるばかりで。
 そんな俺を、ただ芳川会長は眺めていた。何を考えているのかすら分からない、冷たい目で。
 そんな中、不意に仮眠室の扉がノックされる。
 椅子から立ち上がった芳川会長はそのまま扉の方へと向かった。

「すみません。ただいまお持ちしました」
「ああ、すまない」

 聞こえてきた声は恐らく、というか十中八九灘だろう。扉に背を向けてる形になっているので灘の姿は伺えないが、灘がベッドの上の俺を見てどう思ってるか考えただけで生きた心地がしなくて。

「齋藤君、待たせたな。……腹、減っただろう。今用意するから」

 トレーに乗せられた一人前のランチ。それを一旦ベッド横のサイドテーブルに乗せた芳川会長は、そのままベッドに乗ってきて。

「っ、ぅ、ふ……」

 伸びてきた手に上半身を抱えるように起こされる。
 文字通り、手も足も出ない今会長のなすがままになるしかなくて。両手足を束ねる縄を解くつもりはないようだ。
 その代わり、口の開閉を遮っていた猿轡を外された。先ほどまでの違和感がなくなり、咥内いっぱいに新鮮な空気が広がって。

「っ、けほ……」
「口の中、乾いただろう。ほら、水だ」

 そういって、サイドテーブルの上のペットボトルの口を開いた会長はそれを差し出してくる。
 確かに開きっぱなしだった口の中は乾いていたが、とてもじゃないがこんな状況で飲む気にもなれなくて。

「いい……です」

 喋る度に乾燥した喉が痛み、声が掠れる。目を逸らしたままそう返した時。

「いいから飲め、いきなり固形物を口にしては胃が刺激を受けるだろう」

 語気が僅かに強くなる。肩を揺すられ、押し付けられるペットボトルの口先から逃れるように首を動かせば、芳川会長の目の色が変わった。

「……君は」

 そう、何かを言い掛けた時。会長は俺からペットボトルを離す。
 ようやく諦めてくれたのだろうかと内心ほっと安堵したとき、何を思ったのかいきなり芳川会長はそのペットボトルに口をつけ、そのまま中身を飲み始める。
 もしかして、俺に怒って全部飲むつもりなのだろうか。突然の会長の行動にぎょっとしたが、すぐにその真意はわかることになる。

「ぇ、あ……っ」

 肩を掴まれ、顔を無理やり上げさせられる。
 嫌な予感がして、慌てて身動いだ時、近付いてきた芳川会長に唇を塞がれた。

「っ、ふ、ぅ……ッ!!」

 僅かに開いた唇の隙間から流れ込んでくるほのかに暖かくなったその水に全身が震える。
 慌てて顔を逸らそうとすれば、口から零れた水が顎から首へと伝い流れていく。
 それすらも構わず、強引に水を流し込んでくる芳川会長に驚いて、戸惑って、それ以上に強い力で固定してくる会長の手が、会長自身が、怖くて。

「っ、は……」

 ようやく、口の中の水がなくなる。塞ぐ暇もなく、体の奥へと注ぎ込まれた水が器官を潤していくその感覚が、不快だった。
 それでも、これで、終わったのだろう。そう、息をついた矢先。会長が二口目の水を飲むのを見て、目の前が真っ暗になる。

「や、やめて下さ……ッ!」

 俺の制止は届かず、二度目の口移しが始まる。
 先程よりも冷たい液体が咥内を満たしてきて、必死に唇を閉じてその侵入を拒もうとすれば舌で強引に抉じ開けられ、そこからまた流し込まれる。
 キスだとか、そんなことに恥じらってる余裕なんかなくて。

「っ、ぅ、んん……ッ」

 三度目、四度目と回数を重ねるうちに拒んだところで無理やり抉じ開けられるというのがわかり、既に抵抗する気は失せていて。
 流し込まれる水をただ無心で受け入れるしかなくて。その度に、芳川会長の口から飲まされるくらいならいっそのこと。

「……自分で、飲みます」

 七回目。ようやく唇が離れ、既に喉は潤っていたが恐らく会長はペットボトルが空になるまで飲ませる気なのだろう。八度目の口移しをされる前に、そう告げれば少しだけ驚いた顔をしていて。

「そうか」

 それだけを言えば、自分の口元を拭った会長はそのまま俺の唇にペットボトルの尖端を押し当ててきて。
 それを唇で挟むように咥えれば、ゆっくりと傾けられるペットボトルから水が流れ込んできて。
 最初から、素直に言う事を聞いておけばよかった。
 ……そう思わずにはいられない。

 どくどくと流れ込んでくる冷水に、徐々に腹の中が満たされていくのがわかった。
 流石にこれ以上は飲み過ぎになると思い、もういいですと会長を見上げるが会長は傾けたペットボトルを固定したままで。
 俺の意思に反してどんどん流れ込んでくるその水を飲み干すのに追いつかなくて、咄嗟にペットボトルの口を舌で抑えるが行き場を無くしたペットボトルは溢れるばかりで。
 このままでは堪らない。咄嗟に顔を逸らした時、口元から外れたペットボトルの水が勢い良く溢れ、制服に掛かる。いや、制服だけではない。シーツにも水溜まりが出来ていて。

「ッ!ゲボッ!ゲボッ!」
「おい、大丈夫か?」

 噎せ返る俺に空になったペットボトルをサイドテーブルへと戻した会長は慌てて俺の制服に手を掛ける。
 そのまま脱がされそうになり、慌てて背筋を伸ばした時、会長の手が止まる。
 そして。

「おい、灘」
「はい」
「もう戻っていいぞ」

 背後、扉に向かって声を掛ける会長。
 そこで今までずっと灘がそこで見ていたのかということを知り、じわじわと顔面に血液が集中する。

「ですが」と、珍しく会長に反論する灘だったが勿論会長が許すはずもなく。

「いいから外で待機してろ」

 そう、突き放すような会長の言葉に灘は「またなにかあればお呼び下さい」とだけ残し、仮眠室を後にした。扉の閉まる音を最後に、今度こそ会長と二人きりになってしまう。

「……」
「あ、あの……すみません、俺……」

 つい、条件反射で謝ってしまう。
 こんな状況とはいえ、この仮眠室が生徒会の私物であることには違いない 零れた水を拭うことも出来ず、項垂れた時。無言で会長が立ち上がる。
 その大きな動きにビクッと反応するが、会長は俺に目もくれずにそのままベッドを離れていく。
 どうしたのだろうか。今更会長の機嫌を伺ったところで手遅れだというのはわかっていたが、それでも相手の動向が気になるのは仕方ない。
 暫くもしない内に会長は戻ってくる。柔らかそうな白いタオルを手にして。

「すまない。冷たいだろう。……すぐに拭いてやるから」

 申し訳無そうにする会長はそういって俺の口元にタオルを押し付けて来て。
 あくまで優しいが、それでも、触れられることに抵抗を感じずにはいられない。

「いいです、大丈夫ですから、あの、自分でしますので……」
「何を言ってるんだ、その腕じゃ無理だろう」

 何気なくこの縄を解くように促してみたのだが、会長は俺の拘束を緩める気はないようで。
 僅かに細められた目。拭き取るタオルは口元から首筋へとゆっくりと下がっていく。

「ぅ……っ」

 擽ったい。それ以上に、子供かなにかのように他人に世話を焼かれるということが屈辱的で。
 会長なりの善意なのかもしれないが、それでも、されるがままになるしかない自分が恥ずかしくて堪らない。

「あの……か、いちょ……っ」

 逃げるように胸を逸し、必死に動こうとすれば体制が崩れてしまい、その場に倒れ込む。
 ベッドの上、冷たい水が制服に染み込んできて。

「全く、君は……」

 仕方ないな、と小さく会長が笑った時。
 伸びてきた手に優しく抱き起こされたと思えば、いきなり制服のシャツのボタンに手を掛けられる。

「え、あの……」
「このまま濡れたものを着ていたら風邪を引いてしまうだろう。我慢しろ」

 確かに、会長の言葉には一理ある。あるが、流石に他人に脱がされるのは抵抗があって。
「いいです、大丈夫ですから」と必死に身を捩ってその手から逃げようとする俺。
 そもそも、この体制ではまともに脱がすことも出来ないのではないか。そう、思案したとき。
 さくりと、音を立て前を留めていたボタンが落ちる。
 何事かと思い、視線を下げた時、会長の手の中には見覚えのあるナイフが握られていて。
 どこから取り出したのか、というかそれ、確か志摩が持っていたものではないのか。
 巡る思考回路、向けられた鋭い銀に全身からドッと嫌な汗が吹き出した。

「動くなよ、うっかり手が滑ったら大変だろう」

 なんでもないようにそんなことを言う会長。
 そんなものを片手に言われれば、動けるものも動けなくなるわけで。

「……っ」

 ただ、じっとすることしか出来なかった。
 服がただの布切れと化する間、息を止め、ひたすら皮膚の側を走る刃先の存在を我慢して。
 寒いとか、会長の前で脱ぎたくないだとか、そんな段ではなくて。逆らうことが出来なかった。
 すぐ背後の存在は、圧し潰されるほど大きくて。

「少し肌寒いかもしれないが、室温調整してあるから直慣れるだろう」

 そう言って、ナイフから手を離した会長は代わりにタオルを手に取った。
 流石に下には手を付けられなかったが、それでも自分だけ半裸というのには些か、いや、かなり抵抗があって。
 それでも、既に服を処分された今どうすることも出来ない。
 会長のことだ、もしかしたら新しい服を用意してくれるかもしれないと淡い期待もたった今粉砕された。

「……っ」

 不意に、タオルが首筋に押し付けられる。衣類を纏っていない皮膚に直接触れるタオル。
 確かに、濡れたままは気持ち悪いしそれを拭ってもらえるのは有り難かったが、それでも、やはり会長の手ということに余計居た堪れなくなって。
 逃げようとしても、サイドテーブル上のナイフの存在がちらついて体が動かない。

「今度は嫌がらないのか」

 その問い掛けに、どう答えればいいのか分からず、結果的に押し黙る形で答えるしかなくて。
 そんな俺に会長は特に何も言うわけでもなく、気まずい沈黙の中、ベッドに乗り上げてくる会長にスプリングが小さく軋んだ。
 丁寧に、まるで割れ物でも扱うように優しく押し付けられるタオルは胸元を中心にゆっくりと上半身の水分を拭き取っていく。
 こそばゆく、それ以上に、面と面を向かって体を弄られるというこの状況に心臓が壊れそうで。
 剥き出しになった上半身、向けられた会長の視線が止まる。

「……酷いな」

 そう会長の唇が小さく動いた。会長が何に対してそう言っているのかわからなかったが、心当たりは沢山あった。
 壱畝か志摩か、恐らく痣が痕が残っていたのだろう。それを確認するほどの勇気もなかった俺は、会長の視線から逃れることも出来ず、ただ押し黙る。
 不意に、会長の指が腹部に触れ、タオルとは違うその冷たい指先に思わず声を上げそうになって、寸でのところで堪えた。

「……会長、も、いいですから……っ」
「やはり、君を自由にさせておくべきではなかったな。……すまない、俺の判断ミスだ」

 俺の声が届いているのか否か、腹部に浮かぶ筋をなぞるその指に堪らず「会長」と呼んだ時。
 上半身に向けられいた会長の視線が俺を捉えた。

「しかし、もう大丈夫だ」

「あと数日もしない内に邪魔者はいなくなる」君を痛め付ける者も、皆。
 そう高揚のない声で告げる会長に、底冷えするような温度のない瞳に、ぞっと寒気が走る。
 阿賀松だけではないということか。
 不意に、込み上げてくる不安。その言葉の真意を確認することはとうとう出来なかった。

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