03
ああ、そういえばすぐに連絡しろと言われていたんだった。
思いながら、俺は「もしもし」と携帯を耳に押し当てる。
『今終わったよ。……そっちはどう?』
「うん、会えた。一応怪我はないみたいだけど」
『は?いたの?』
『すぐ連絡してって言わなかったっけ、俺』そして案の定突っ込まれた。
しかも機嫌が悪くなっている。まずい。
「ご、ごめん……今会えたんだ」
『ふーん。あっそ。……とにかく、今そっち向かってるから絶対動かないでよね』
「絶対だから」と、刺々しいその言葉に「わかった」とだけ返し、俺は通話を終了させた。
栫井の話で頭がこんがらがって、志摩へ連絡するのをすっかり忘れていた。
怒られるだろうな、なんて考えたら今からお腹が痛くなってきた。
「おい、今の……」
一人項垂れていると、通話を聞いていた栫井が呆れたようにこちらを見てくるではないか。
どうやら受話器向こうの志摩の声が聞こえていたようだ。
携帯端末を仕舞い、慌てて栫井に向かう。
「あ、ごめん。……その、志摩に協力してもらって一緒に探してたんだ。栫井のこと」
「……は?」
「すぐ来るみたいだから、それまでもう少しここで……」
やばい。明らかに不機嫌だ。無理もない、二人ともあまりお互いにいい印象を持っていないようだし、だけど、そんな志摩だって俺に協力してくれたのも事実だ。
そうやんわり宥めようと試みた矢先。腕を掴まれる。
「っ、か、栫井……?」
腕を掴むその指が皮膚に食い込んでいく。
その痛みに驚いて、動けなくて、恐る恐る相手を見上げたときだった。
空き教室の扉が、開いた。
「お待たせ、齋藤」
まさか、と思いきやそのまさかだった。
さっき確かに向かってるとは言ったが、まさかこんな速さで辿り着くなんて思ってもいなかった俺は、現れた志摩に青褪めた。
まだ栫井に事情も説明していないのに、と。
バッドタイミングとは恐らくこのことだろう。
栫井に掴み掛かられた俺を見て、志摩の目の色が変わったのだ。
「……って、本当に遅かったかな。齋藤に何してんだよ、お前」
「それはこっちのセリフだ」
志摩、落ち着いて。と慌ててフォローしようとした矢先、俺から手を離した栫井が志摩に詰め寄った。
そのまま志摩の胸倉を思いっきり掴む栫井に、全身から嫌な汗がどっと滲む。
「てめえ、どういうつもりだ」
「ちょっと、栫井……っ」
「どういうつもりも何も齋藤がお前に心配して煩いからわざわざ手伝ってやったんだよ。まず感謝してもらいたいくらいだね」
「感謝だと?」
やばい、このままではやばい。
煽り体質の志摩と沸点が低い栫井が揃えばなにが起こるかなんて予め想定できていたはずだ。それでも、志摩なら。今の志摩ならもう少し穏便な対応が出来るのではと期待してた俺がそもそも間違っていたというのか。
目に見えるほど険悪化する二人に、このままでは殴り合いになり兼ねないと慌てて仲裁に入る俺。
「ね、待って、二人とも、落ち着いて……」
「お前は黙ってろ!」
「ひっ」
そして慌てて近くの棚の影に避難した。
「これにこんな悪趣味な格好させたのもお前だろ、志摩亮太」
「別に俺の趣味でもないよ。まさか齋藤の変装が好みじゃなかったからって俺を悪役扱いするつもり?」
「言い掛かりもいい加減にしろよ」と吐き捨てる志摩は笑顔を浮かべているものの栫井に対する嫌悪諸々が滲み出ていて。
「志摩、栫井怪我してるから。お願いだから喧嘩は……」
「俺も怪我してるんだけど?」
そう言われてしまえば何も言えなくなる。
その怪我がいつ出来たものなのか、どのタイミングで出来たのか、追及するほどの勇気はない。
「ふ、二人とも……あのさ、それよりも早くここを移動した方がいいと思うんだけど……」
場所が場所だ。また誰かが来たら面倒なことになりかねない。
そう思い、二人の気を引こうとしてみたが……。
「二人とも?」
俺の言葉にまず反応したのは志摩だった。
最早笑顔を取り繕う気すらないのか、不快感を顕にした志摩に俺は益々困惑した。
「二人ともってなに?まさかこいつも連れて行くつもり?」
「いや、だって、せっかく探してたのに……」
「冗談じゃない。確かに探してはあげたけど一緒に連れて行くなんて誰が言った?無事みたいだしもういいでしょ」
確かに、志摩は栫井を見つけるのを手伝うとしか言っていない。
それでも見付けたからもういいやとお別れできるはずなんてなくて、「で、でも」と助けを求めるように栫井に目を向ける。
「お前らと行くなんてこっちから願い下げだ」
「か、栫井まで……!」
「だってよ、よかったね齋藤。じゃあほら早くいこうか」
どうしてここまで譲り合おうとしないのか。
お互いに頑なに引こうとしないどころか俺の言葉に耳を傾けようともせず肩を組んでくる志摩。
「ちょっと待てって、志摩!」
ぐいぐいと力づくで俺を棚の影から連れ出そうとする志摩に、慌てて近くのカーテンを手綱代わりに掴んだ時だった。
がらり。そんな音を立て、開かれる窓はさっき栫井が現れた窓枠で。
今度はなんなんだ、と背後の窓を振り返った俺はそのまま凍り付いた。それは、俺だけではなく志摩も同じだった。
「えっ、嘘……なんで……」
足音もなく、静かに室内へと降りたのは灘和真だった。
相変わらず涼しい顔をした乱入者に愕然とする俺と志摩。
唯一、栫井だけは反応を示さなかった。まるで最初から現れる乱入者のことを知っていたかのように。
「灘君、無事だったんだね」
なんでまた窓から。まさか俺の知らないところで窓から出入りすることがこの学園の常識になっていたのだろうか、とかそんなことは横に置いといて、一先ず俺は灘との再会を素直に喜ぶことにした。
だけど、灘は俺の方を見ることはなくて。
「……」
「灘君?」
「これは……どういうことでしょうか」
ただ一点。志摩に目を向けた灘はぽつりと呟く。
「見ての通りだ。分かったんならさっさとそこのうるせーやつらをどっかに……」
うんざりした調子で栫井が口を開いたとき、その拳が硬く握り締められるのを見えた。
嫌な予感がしたときにはもう遅くて、次の瞬間、志摩の顔面に向かって振り上げられる拳に血の気が引いた。
「志摩っ!」
鈍い音が響き、咄嗟に目を逸しそうになるのを堪え、殴り付けられた友人の名前を呼ぶ。そしてすぐ、乾いた笑いが返ってきた。
「ッ、ぶないなぁ……」
間一髪、というところか。志摩に掴まれた灘の拳は壁に押し付けられていて。今の音が灘の拳からしたものだと思えば安堵したが、安心すべきことではないということをすぐに知らされる。
少なくとも、俺の知っている灘は会って早々人の顔面ぶん殴ろうとするようなやつではない。
「おい、灘……っ!」
同様、驚く栫井に対しても灘は顔色一つ変えることもせず、痛みなんて感じないかのように壁から手を離した灘はもう片方の手で携帯端末を取り出した。
「志摩亮太、見付けました。ええ、校舎三階東棟の空き教室までお願いします」
「できれば、早急に」そう続ける灘。
受話器の向こう側に誰が居るのかなんて分からなかったけど、ただ、なんとなく恐れていたことが起きているというのは理解できて。
志摩に向けられた明確な敵意が、それを嫌と言うほど物語っていた。
このままでは、まずい。直感が、そう叫ぶ。
「……ッ」
だから、俺は考えるよりも先に志摩の腕を掴んだ。
「えっ、ちょ……さいと……」
「逃げるよっ!」
何事かと目を丸くする志摩を引っ張り、俺は灘と正反対の扉に向かって走り出した。
土地勘もなにもない。
それでも、この場を離れなければならない。そう、本能が叫んでいたから。
だけど、もちろんそんな簡単に上手く行くはずがなくて。
目指していたその扉は、俺が触れるよりも先に開く。そして、その向こうには風紀の腕章。
「……ッ」
慌てて方向転換しようとしたら、もう一つの扉も開く。
どうやらすでにこの教室の外の通路には風紀委員が待ち構えているようで。
完全に、囲まれた。
「……齋藤」
背後の志摩が、ぽつりと俺の名前を口にする。
伊藤と呼ぶといったのは自分のくせに、すっかり忘れてるじゃないか。そう、普段なら軽口叩けるのかもしれないが、今の状況、喋ることすらままならなくて。
真正面。立ち塞がる灘を、恐る恐る見上げた。
「灘君……」
「……なる程。見ない顔だと思ったら、貴方だったんですか。齋藤君」
「……」
「そこを退いて頂けませんか。今ならまだ、間に合いますよ」
「会長がここへ駆け付けるまでには」と、付け足す灘に、ああ、やっぱりかと、俺はぎゅっと目を瞑った。
恐らく、灘は知ってしまったのだろう。志摩が会長を脅迫したことを。
そして、会長はあの場から逃れることが出来た。
それらが事実だというなら、俺が取るべき行動はひとつしかないのだろう。
「っ、悪いけど……それは出来ない」
志摩を背に庇い、俺は宣言する。ざわつく風紀委員。これで、後戻りは出来ない。
今後の学園生活において今の自分の行動が明らかに負になるとわかっていたが、それでも、逃げ道を立ってしまえば酷く清々しい気分だった。
もうなにも、気にしなくてもいいんだ、と。
宣戦布告、したつもりはない。けれど結果的にそう受け取られるのなら、仕方がないとも思う。
どうしよう。正面突破を諦め、背後に意識を向ける。窓。そこから逃げることが出来れば――。
そう、思考を巡らせた矢先だった。
「ごちゃごちゃと……」
背後の栫井から舌打ちが聞こえてくる。
そして、
「全員今すぐここから立ち去れ。……誰の許可を得て授業時間に歩き回ってんだ」
前に出た栫井は声を上げる。
形だけとはいえ、副会長である栫井の言葉に周りに集まっていた風紀委員たちは言い淀む。
「あ、あの、ですが……」
「栫井君、彼らは会長の命令でここに来ています。許可ならば会長の……」
「命令ってなんだよ」
「志摩亮太の捕獲と齋藤佑樹の確保」
「ならそれは俺がやる」
何を言い出すかと思えば、予想していなかった栫井の言葉に俺も周りも目を丸くした。
それは、栫井の前に立っていた灘和真も例外ではなくて。
「……はい?」
灘が驚いた顔を見たのは初めてだった。
理解できないとでも言うかのように、灘は僅かに眉間を寄せた。
「はい、これでいいんだろ。さっさと戻れ。全て片付いた」
「……栫井君」
「話はこいつらから聞く。……それでいいだろ」
相変わらず温度を感じさせないその目だが、それでも有無を言わせない迫力があった。
おずおずと散っていく風紀委員たち。そんな中、押し黙っていた灘だったが決してその場から動くことはしなくて。
「……栫井……っ」
これでは、栫井まで俺たちの味方をされたと勘違いされるのではなだろうか。
ただでさえ会長からの印象が悪い栫井に、ただならぬ不安を覚え始めたときだった。
ちょんちょんと、志摩に肩を突かれる。
なんだ、こんなときに。振り返れば、志摩は目だけを動かし窓を指す。
そこは、先ほど灘たちが入ってきて開いたままになっていた窓があって。
『出よう』そう、志摩の唇が動く。
一瞬、正気か疑った。せっかく栫井が庇ってくれたのに、いや、まだ庇ってくれたかどうかわからないのにそんな栫井に何も言わずに立ち去るなんて。
小さく首を横に振り、それはできないと拒否したときだった。
ふいに、志摩の影が動く。そして、
「ぅわあっ!」
腰を掴まれたと思えば、急に足元が浮いた。
自分が志摩の肩に担がれたと理解するのにさほど時間は要しなかった。
「っちょっと、志摩……ッ?!」
「……はいはい、文句なら後から聞いてあげるからさ……ちょっと大人しくしててね」
「流石に重いな」と呟く志摩。そりゃそうだろう、というか寧ろこの年になって誰かに担がれたという事態衝撃的なのに。
いや、そんなことに感心してる場合ではない。
「悪いけど、俺たち君らと遊んでるほど暇じゃないからさ」
「失礼するよ」と笑うや否や、呆れ果てて呆然とする二人を他所に一気に走り出す志摩。
勿論、そんな全力疾走なんてされたら担がれたこちらにも衝撃が来るわけで。
「志摩っ、待って、志摩ッ」
必死に声を上げ止めようとするが、じたばたしようとした矢先ケツを思いっきり鷲掴みされる。
「……それ以上騒ぐならケツ丸出しで担ぐことになるけど構わないよね?」
そう薄く笑う志摩の目は笑っていない。
慌てて口を噤んだ俺は大人しく志摩に担がれることになったのだが、勿論ただで逃げられるはずがなくて。
空き教室外、廊下。
先ほどの風紀委員たちとすれ違う度に驚いた声が飛んでくる。無理もない。この俺が驚いてるのだ。周りからしてみればなんかもうとんでもないに違いない。客観視すらもしたくなかった。
「っ、おい、止まれッ!」
不意に、背後から聞こえてきた声に頭だけ動かし、振り返る。
珍しく慌てた栫井が追い掛けて来てて、勿論志摩が栫井の言うことなど聞くはずがなくて。
「齋藤が手乗りサイズだったら良かったんだけどな……」
なんて、妙な現実逃避をしている志摩は人を避けるように適当な空き教室に飛び込む。
そして、
「うぐぁッ!」
思いっきり投げ落とされ、咄嗟に受け身取ったお陰でなんとか顔面着地を避けられたものの背中を強打してしまう。
「いたた」と呻きながら起き上がれば、丁度志摩が空き教室の扉に鍵を掛けているところで。
閉められた扉の外、『開けろ』と若干キレ気味の栫井が扉を叩いてくる。それを無視し、志摩は俺を振り返った。
「し、志摩……どういうつもり……?」
「どういうつもりって、なにが?」
「せっかく栫井が庇ってくれたのに、こんなこと……」
「庇ってくれた?」
俺の言葉に、ぴくりとその眉が反応する。
「随分と栫井が気に入ってるみたいだね、齋藤」
「べ、つにそういうわけじゃ……。でも、こんなことしたら余計志摩が……」
「今更俺のこと心配しなくてもいいよ」
「汚れ役には慣れてるからね」と冷ややかに笑う志摩は言いながら窓へ歩み寄る。
慣れた手つきでそこを開けば、吹き込んでくる風に前髪が揺れた。
「どうしたの?齋藤。俺に付き合ってくれるんじゃなかったの?」
「もしかして、もう愛想尽かしちゃった?」開かれた窓の縁。
そこに手をかけ、今にも飛び降りようとする志摩に「そうじゃない」と咄嗟に反論する。
「そうじゃないけど……っ」
「ならよかった」
伸びてきた手に腕を掴まれる。
「え?」と気付いた時には既に遅し。
「……わっ、ちょ、志摩っ!」
強引に体を引っ張られ、そのまま窓の外へ引き摺り出されそうになって。
「し、志摩っ!危ない、危ないってば!」
「大丈夫、落ちるときは俺も一緒だから」
何が大丈夫なのか。安心させるのならせめて『俺が支えてあげる』とか言ってくれればいいものの、余計不安を煽るようなことを口にする志摩になんだかもう気が気ではなくて。
それよりも。
「ここって……」
窓の外、一人漸く通れるくらいのコンクリートの縁。
決して下を見ないようにしていた俺だったが、ふいに頭数個分上の辺り。
校舎と学生寮を繋ぐ、通路。
通常ならば特別なエレベーターを使わなければ通ることの出来ないはずのそこだが、ある一箇所、閉め切られたはずの暗幕が風に吹かれ揺れていた。
――窓が開いている。
「あれ、もしかして齋藤も知ってるの?」
「……え?」
「ここ。学生寮と校舎の近道になってるの。普段は使えないんだけどね」
「……うん、前に十勝君から教えてもらって……」
頷き返せば、志摩は「ふうん」と興味なそうに呟くだけで。
「なら、話は早いね。齋藤、あれくらいの高さならよじ登れるでしょ」
「多分、行けると思うけど」
「よし、じゃあ早く上って。誰かに見つかって閉められたら面倒だしね」
その口振りだと、まるで志摩が予め通路を用意していたみたいで。
詳しく聞こうかと思ったけど、背中を押され、それどころではない。慌てて壁に手を掛け、言われるがままよじ登る。
本当、志摩と一緒になってから壁をよじ登ったり窓から落ちそうになったり投げ飛ばされたりとやたら肉体を酷使しているような気がしてならないが今はひと目から逃れることだけを考えることにする。
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