天国か地獄


 02

 ずっと、志摩と一緒に居たからだろう。余計一人という事実が酷く心細く感じたが、それを振り払うため、俺は深く息を吐く。

「……よし!」

 学園敷地、校舎内。
 変装がいつバレるかと生きた心地がしなかったが、まだ授業中だということで幸い生徒たちの姿はあまりない。
 ただ、通常に比べ制服姿の生徒を見かけるのも確かで。
 そして、見掛けた生徒たちの右腕には何れも『風紀』と刺繍された腕章がぶら下がっていた。

 どうして風紀委員がこんな時間帯に彷徨いているのか分からなかったが、さっき俺たちを追い掛けてきた連中のことを思い出す限り、どうしても芳川会長からの呼び出しを思い出してしまう。
 でも、会長は志摩に体育館倉庫に閉じ込められているわけで。
 もしかして、会長がいなくなったことに不審に思った風紀委員が探し回っているというのか。
 だとしたら、益々早くしなければならない。
 人目を避けるようにして向かった空き教室前。幸い、そこに人気はない。
 扉の前に立った俺ばそのドアノブに指を掛け、扉をスライドさせた。鍵はかかっていないようだ。
 あっさりと開く扉から空き教室の中へと足を踏み入れれば、薄暗く静まりかえった空間がそこには広がっていた。散乱する書類。荒れた室内は前に俺が来た時と変わらなくて。

「……」

 ここにくると、どうしても先程の会長とのやり取りを思い出してしまう。
 倒れている志摩がいないか確かめてしまう自分に内心苦笑しつつ、俺は空き教室内を探索した。
 結論だけを言えば、人の気配はなかった。ただ、一点。部屋の奥に取り付けられた扉を除いて。正確に言えば、その扉は内側から鍵が掛かっているようで中を確認することが出来なかった。
 もしかしたら、栫井が隠れてるのかもしれない。

「……栫井……」

 ひんやりとしたドアノブを掴む。相変わらず硬い手応えはあるが、ドアノブは動かない。
 そもそも本当にここに栫井がいるのか。それを確認することが出来ればまた違うのだろうが、あれこれ試行錯誤するような時間、生憎俺には残されていない。
 まだ痛みの残った拳をぎゅっと握り締め、俺ば目の前の扉を見上げた。そして、思いっきりその扉を叩いた。

「……栫井、俺だよ、齋藤だよ!その、助けに来たんだ、だからお願い、出てきてくれ……!」

 もしここにいるのが栫井じゃなかったとしたら。
 もし外にまで声が聞こえてしまって俺の変装がバレてしまったら。
 なんて、考えたりはしたがこんなところでぐずぐず燻っている暇はない。

「栫井っ」

 これでも出てこないなら、それでもいい。だけどもし俺の声が届いて、信じてくれて、姿を現してくれるのなら。
 ダン、と強く扉を叩く。しかし、扉の内側からはなんの反応もない。扉が開かれる気配も、ない。
 他のどこにもいないからここにいるものだと思っていたが、やはり、俺では駄目だったということか。
 そもそもあの栫井がこんな状況下で俺の呼び掛けに応じてくれるかどうかも怪しい。
 元々低い可能性に賭けた賭けだったので然程ショックではなかった。
 ……どちらにせよ、用は済んだわけだ。
 せめて、怪我をしているのなら手当だけでもと思っていたがこうなった今手も足も出ない。
 そう、志摩に連絡しようと携帯を取り出したときだった。がらりと音を立て、窓が開かれた。

「……えっ?」

 その音に驚いて振り返った俺だったが、その光景に更に目を見開くことになる。

「栫井?」

 窓の外、俺同様驚きの表情を浮かべた栫井がそこには立っていた。

「あれ、なんで、窓から……って、え?」
「あんたが呼んだんだろ。……つか、なにそのだせえ格好」

 まさか窓の外から、とは思ってもいなくて。
 指摘され、ようやく自分の格好を思い出した俺は栫井の冷めた眼差しに今更恥ずかしくなって急激に居た堪れなくなる。

「あっ、こ、これは……その、見つからないようにっていうか……」

 栫井と出会えたことへの嬉しさと見たところ元気そうな本人への安堵と、いざ本人を前にするとなにから話したらいいのかわからない戸惑いで頭がこんがらがってきた。
 聞きたいことは沢山あったが、如何せんありすぎる。

「それより、えっと、怪我は……」

 当たり前のようにひょいと教室へと降りる栫井。
 やはりギプスで固定された右腕は避けていたが、それ以外不調は見られない。

「あんたに心配されるほどヤワじゃないからな」
「あ、そっか、ならよかった……」

 やっぱり一言一言が冷たいが、それでも、もしかしたら自分のせいで怪我が悪化しているんじゃないかと心配で生きた心地がしなかった俺にとってその言葉だけでも安堵対象で。

「……本当、よかった。無事で」
「……」

 緊張が緩み、その場に腰が抜けそうになるのを堪え、壁に凭れた。
 そのままずるずると座り込む俺の視界。不意に影が掛かり、顔を上げればそこには栫井が立っていた。

「……どうしてここに戻ってきたんだよ」
「え?」
「あの人に連れて行かれたんじゃないのか」

 不愉快そうに細められたその目に、理解できないとでも言うようなその冷たい声に、ぎくりと全身が緊張する。
 あの人、というのは、恐らく会長のことだろう。
 さっき、縁たちを追いかける為にやってきたあの時。待ち伏せていた芳川会長が出迎えてくれた映像が鮮明に蘇る。
 何よりも、そのことが栫井の口から出たことに、息が詰まった。

「……見て……たのか?」
「ああ」
「どうして……」

 出てきてくれなかったのか。言いかけて、すぐに出てこれるわけないということに気付く。
 栫井は会長に逆らえない。俺だって、隠れているはずだ。そう考えると、今こうして俺の目の前に現れてくれたことが余計、嬉しかった。

「……栫井と灘が見つからないって聞いて、こっそり探しに来たんだ」

 会長の話題にはなるべく触れない方がいいだろう。
 そう思って、俺ば言葉を選んで答えた。嘘ではないはずだ。だけど、栫井の強張った表情が和らぐことはなかった。

「……灘は。……あいつは気にしなくていい」
「でも」
「死んではないだろ」

 なんだそれは。むちゃくちゃなことを口にする栫井だが、二人のことだ。もしかして連絡を取り合っているのかもしれない。
 そう思うと、幾分肩の荷が降りたようだった。

「つーかそんなくだらないことであの人から逃げて、バレたらどうするつもりなんだよ。……言っただろ、あの人の側にいたら大丈夫だって。大人しくすることも出来ないのかよ」
「……ごめ……」

 呆れ果てた栫井の言葉にそう、慌てて謝ろうとして、寸でのところで俺はその謝罪の言葉を飲み込んだ。
 違う、そうじゃない。

「……俺は、もう、見て見ぬふりはしたくない」

 口にしてみると、不思議と突っかからなかった。
「何言ってんだ、お前」と醒めた栫井の視線が向けられる。
 それでも、真っ向から受け止めてみると、案外相手の目を見つめ返すことが出来るもので。

「確かに、会長は優しいしよくしてもらってると思う。……けど、わからないんだ。このまま会長を信じていいのか」
「信じればいいだろ。あの人はあんたには甘い」
「俺に甘くても、君には冷たいじゃないか」
「別に俺は関係ないだろ」
「関係あるよ」

 そう返した言葉の語気は強くなってしまう。
 そうだ、少なからず俺は栫井に対する会長の態度に疑念を抱いたのは事実だ。もし、振り翳されたバットの先に居るのが栫井ではなく俺だったら。
 ないとは言い切れない一抹の可能性が浮かび上がったのだから。

「お願い……教えてよ、会長が良い人なのか悪い人なのか」
「知らねーよ、そんなの」
「じゃあ、ここに来る前のことでもいい」
「……は?」

 俺の問い掛けに、僅かに栫井の顔が引き攣った。
 それは確かに動揺の色を帯びていて、その隙を狙って俺は更に畳み掛ける。

「昔から知り合いだったんだよね、会長と」
「…………」
「頼む、……教えてくれ。……じゃないと俺は、どうしたらいいのかわからない」

 会長を助けるべきなのか、否か。
 志摩を信じると言った今でも、会長を完全に見限ることは出来なかった。
 俺を見捨てれば逃げられたはずなのに、俺をわざわざ庇って志摩の言うことを聞いた会長を見限ることなんて。

「……」

 部屋の中に沈黙が流れる。僅かに開いた窓から流れ込んでくる外気が酷く冷たく感じた。
 そんな中、重い口を開いたのは栫井の方だった。

「……あんたにとって、あの人は善人に見えるか?」

 突然の問い掛けに、つい俺は「え?」と顔を上げる。
 その質問の意図がわからなかった。それでも、尋ねられているのなら応えるしかない。栫井から何か聞き出せるのなら、余計。

「……確かに、優しいし真面目な人とは思っていたけど、栫井には厳しいし……俺にはわからない、どれが本当の会長なのか」
「……どれも本当のあの人で間違いない」

 静かに返されたその言葉に、今度は俺が目を丸くした番だった。
 栫井の口から出た言葉は俺が心の奥底で感じていた違和感の理由そのもので。

「あの人は、相手と状況によって自分を変えることができる。どう対応したら自分にとって最善なのか、それを理解して使い分けているんだよ」

 その言葉に、ああ、だからか、と納得する反面、今まで辛うじて形を保っていた俺の中のなにかが音を立てて崩れていくのを確かに聞いた。

「あんたに良くするのも、理事長からそう頼まれてるからだ。だから、理事長との約束がある今あの人はあんたに絶対手を出さない」

 理事長からの信頼に応えること、つまり俺に優しくするのは自分のためだから。栫井はそう言った。

「……」

 裏を返せば、目的のためならなんでもする。
 その言葉を聞いて、俺は納得した。今まで会長に対して感じていた頼もしさ、その裏、そんな会長が自分の敵に回ったとしたらという可能性から芽生えてくる、得体の知れない不安感。
 納得したと同時に、考える。
 だとしたら、何故、理事長がそこまで気遣ってくれるのか。
 転校生だから?だとしたら、同じ季節外れの転校生という立場である壱畝遥香もその対象に含まれる可能性がある。
 そう考え始めれば次々と込み上げてくる不安要素に埒が明かなくなり、それらを振り払うように俺は目の前の栫井を見上げた。

「……栫井は」

 静かに向けられる、視線。
 ずっと、冷たく感じてその視線に僅かながら同情に近いものを感じたのは俺が同情を望んでいるからか。

「どうして、この学園に入ったんだ」

 わざわざ、前の学校を辞めてこっちへ転校して会長の後を追い掛けた、と五味は言っていた。
 ずっと気になっていたことを、この際聞いてみようと試みるが少し調子に乗りすぎたようだ。
 あからさまに顔をしかめる栫井はどっからどう見ても不機嫌で。

「それがなんの関係があるんだよ」
「いや、別にないけど……でも」
「なら余計なこと聞くな」

 まあ、本来ならこうだよな。
 さっきまで俺の言葉に応えてくれたことの方が貴重だったんだ。
 睨んでくる栫井の眼差しから逃げるように「ごめん」と慌てて頭を下げれば、舌打ちが飛んでくる。

「……っ、やめろ、その顔……腹立つんだよっ」
「えっ、ご、ごめ……」
「……あの人は、俺の従兄弟だ」
「そうなん……えっ?!」
「……」

 あまりにも栫井の口から出てきた言葉が衝撃的すぎて、素で絶句する俺に栫井はだから言いたくなかったんだって顔をした。
 いや、だってそうだろう。誰が芳川会長と栫井が血縁関係なんて予想するんだ。少なからず俺はしなかった。

 あまり家の人たちと仲良くなかった会長は中学を卒業してすぐ全寮制へ入学するという名目で家族と縁を切った。
 それでも、会長の家族からしてみれば心配なところがあるのだろう。だから、中学卒業を控えていた栫井を転校させたという。

「だから、監視されているみたいで面白くないんだろ。……俺がいると」

 そう口にする栫井が嘘を吐いているようには見えない。だけど、なんとなく腑に落ちない。
 家族とは特別仲が良いわけではないが、それでも縁を切ろうだとは思ったことなんてなかった。
 人それぞれということなのだろうが、まだなにかあるような気がしてならないのだ。考え込む俺の視線が気になったのか、栫井は面白くなさそうに目を細めた。

「まだ何かあるのかよ」
「えっ、いや、あの……似て……ないね」
「あ?」
「ごめん、なんでもない」

 咄嗟に口にした言葉が悪かった。慌てて謝ったが、栫井にはしっかり聞こえていたようで。

「……そりゃそうだろうな」

 そう僅かに口元を引き攣らせ、冷笑する栫井に胸の奥がざわついた。
 栫井の口から告げられた事実は俺にとって衝撃的なもので、まだ栫井と会長の血が繋がっていることを信じられずにはいられなかったが、それ以上に、ここまで話してくれた栫井に戸惑わずにはいられない。
 自分から聞いておいてあれだが、どういうつもりなのだろうか。
 俺のことを少しでも信用してくれている証拠なのか、嬉しい反面、反応に困ってしまうわけで。
 暫く、妙に重い沈黙が続いた。それを途絶えさせたのは、志摩からの着信だった。

 home 
bookmark
←back