天国か地獄


 12

「いきなり、知らない人たちに襲われて、刺されそうになって、必死に逃げてきましたけど、俺、やっぱり無理です……こんな……っ」

 語尾が強くなると共に自然と握り締める指先にも力が籠る。俺が言いたいことを察したのだろう。

「この血もそのときのか?」

 静かに、あくまでも感情を抑えて尋ねてくる会長にこくりと頷き返す。

「いきなり、目の前で……自分のお腹を……」

 縁の名前を出すことはできなかった。
 いずれにせよ会長にはバレてしまうような気がしたが、口にしようとしてもこびり付いて離れない肉の感触に吐き気が込み上がってきて、それ以上は言葉にならなかった。

「っ俺、どうしたらいいのか……もう、わかりません……っ」

 恐らく、また縁たちが俺の目の前に現れることはわかっていた。
 いくら阿賀松が退学に追い込まれたとしても、縁たちは違うのだ。
 その事実にただ、心臓が握り潰されるような不安感に襲われる。
 そのときだ。不意に背後に回された会長の手に、背中を擦られた。

「……大丈夫だ、ここにはそんなことをするやつはいない」

 暗示をかけるように耳もとで囁かれる。
 いつも、苦しいときに俺のことを助けてくれたその声の効力は絶大で、鼓膜に染みる声が、背中を擦る大きな手の感触が、会長の存在全てに酷く安堵する自分がいた。
 会長は、好きだ。優しいし、皆から頼られていて、尊敬する。その反面、ふと会長がひどく冷たく恐ろしく思う時がある。
 それでも、やっぱり俺の中で会長は頼りになる存在で。会長の一面を垣間見てしまった今でも、それは変わらなくて。

「それにしても、そんなことする馬鹿はどこのどいつだ。……いや、いたな。しそうなやつが」

 ぽつりと呟き、なにかを思い出したように会長の手が離れていく。
 先ほどまで流れ込んでいた会長の体温がなくなり、急に不安に駆られた俺は思わず離れていく会長にしがみついていた。 
「齋藤君」と、驚いたように目を丸くした会長は、腕を掴む俺を見下ろす。
 正直、自分でもこうして体をつかって会長を引き止めるとは思ってもいなくて、恥ずかしくて、困惑したがそれでも会長から離れることはできなくて。

「ごっ、ごめんなさい……もう少しだけ、一緒にいてもらっていいですか」

「俺、鬱陶しいこと言ってるのは、わかってます。……お願いします、少しだけでいいので……」顔から火が噴きそうなくらい恥ずかしかった。情けなさのあまり、声が震えたがそれでも俺はしがみつく腕に力を込めた。

「……」

 ああ、きっと引かれてるだろうな。もしかしたら嫌がられて追い出されるかもしれない。
 会長の無言が怖くて、なんだかもう半ばヤケクソになりながもぎゅっと目をきつく瞑ったとき、伸びてきた手にやんわりと体を引き剥がされた。
 やっぱり。そう、ゆっくりと目を開いたとき。全身を抱き締められた。

「か、会長……?」
「怖い目に遭わせて悪かった。……俺の配慮が足りなかったな」

 正面から抱き締められ、一瞬、心臓が止まったような気がした。
 自責の念を露わにする会長に、慌てて俺は首を横に振った。
 会長のせいではない。俺がもっと危機感を持っていれば、縁に付け込まれるようなことにならなかったはずだ。
 必死に否定すれば、会長は僅かに口元を緩め、そして、ゆっくりとした動作で俺の顔を覗き込んだ。
 至近距離。レンズ越しに目があって、どきりと心臓が弾む。

「……君は、本当にどこか怪我はないのか?強く打ったとかは……」
「あ……あの、ほんと、俺は大丈夫です」
「ならいいが……悪化してからじゃ遅いからな。痛むところがあれば遠慮なく言ってくれ。簡単な処置くらいなら、俺もできるから」
「そんな、……ありがとうございます。嬉しいです」

 ゆっくりと手が離れていく。
 それでも、先ほどみたいに不安に押し潰されるようなことはなかった。
 理由はなんとなくわかる。
 会長に抱き締められ、俺の脳味噌が会長でいっぱいになり、不安すらかき消されたからだろう。
 我ながら単純だ。しかし、会長の表情はやはりどこか暗いままで。

「別に、俺は礼を言われるようなことはなにもしていない」
「いえ、そんなことないです……会長には十分、お世話になってますから」

 否定されると、肯定したくなるというアマノジャクなわけではないが、実際に会長に色々してもらっているのも事実だ。
 阿賀松のことだって、栫井のことだって、会長の言動行動には全て自分が関わっているわけで。そう自惚れそうになるくらい、会長が俺を助けてくれるのも事実だ。

「君も、結構頑固だな」

 そう笑う会長に、内心俺はほっとした。
 先日からまともに会長の笑顔を見ていなかったからだろうか。自分のことを棚に上げて、いくらか和らぐ会長の雰囲気に安堵した。

「ちょっと待ってろ、飲み物用意してくる」

 そういって、会長は席を離れた。
 ソファーに腰を下ろした俺は、だだっぴろい生徒会室内にゆっくりと視線を向ける。

 会長が俺の味方をしてくれる。その事実は酷く心強い反面、自分がとうとう引き返すことの出来ない場所まで足を踏み入れたような気がしてならない。
 ……いや、いつだって俺は引き返すことの出来ない立場であるはずだ。
 余計それを強く思ってしまうのは、やはり縁とのことがあったからだろう。
 俺は、阿賀松たちを敵に回してしまった。その事実が、今更大きく俺に伸し掛かった。
 だけど、今俺は一人ではない。栫井と灘が後ろにいると思ったら、いつもに比べて心強くて。

 芳川会長を味方につける。自分は被害者であり続ける。
 必ずまた縁たちがアクションを起こしてくるだろうが、落ち着いて被害者を語る。
 自己防衛を語るのは、本当に立場が危うくなってから。そして、会長を利用し尽くす。

 無表情の灘と苦虫を噛み潰したような栫井が提案した内容はそれだった。
 二人曰く、俺の立場は特殊らしい。それがどういう意味かはわからなかったが、特別扱いされているのならそれを使わないことはない。ということを二人が言っていたのだが、やはり、人を動かすのは難しい。というか罪悪感に苛まれて神経が擦り切れていくのがわかった。

「すまんな、これしかなかった」

 暫くして、二人分のグラスが載せられたトレーとフルーツジュースの入ったボトルを手にした芳川会長が戻ってきた。
 申し訳なさそうな会長に、慌てて俺は「いえ、十分です。ありがとうございます」と頭を下げる。
「そうか」とどことなく安心した様子の会長はそれをテーブルの上に置き、それぞれのグラスに注ぎ、目の前に置いた。
 そこでようやく、会長は向かい側のソファーに腰を下ろす。微妙な空気が生徒会室内に広がった。
 言うなら、今だろう。落ち着いた様子の芳川会長をちらりと盗み見た俺は、膝上に置いた拳をぎゅっと握り締める。

「それで……その、お願いがあるんですけど」

「なんだ」と、促され、ごくりと固唾を飲み込んだ俺は恐る恐る向かい側に座る会長を見上げた。

「少しの間でいいので、俺を、ここに置かせてもらえませんか」
「ここって……生徒会室か?」
「無理なのはわかってます、けど、俺、部屋に帰るのが怖くて……わがまま言ってごめんなさい」
「……」

 やはり、無理か。頭を下げる俺に対し、押し黙る会長に俺はなんだか居た堪れなくなる。
 栫井たちは大丈夫だと言っていたが、やはり無茶な願い。会長が快く承けてくれるわけ無い。そう、一人凹んだときだ。

「……そうだな、元はといえば俺が撒いた種だ」

 ふと、口を開いた芳川会長にあわてて俺は顔を上げた。
 目があって、会長はふっと微笑む。

「君さえよければ仮眠室を使えばいい。大抵のものは揃っているから不便なことはないと思うが、一人でいるのは心細いだろう。君がここにいる間、俺もここにいよう」

 一瞬会長の言葉を理解できなくて、「え」と目を丸くした。
 つまり、それって、いいってことか?
 予想していなかった会長の返答に、俺はつい自分の耳を疑わずにはいられなくて。

「い……いいんですか……?」
「君の方から頼んできたんだろう。本来ならば校舎とはいえ無断外泊、教室を寝床にするなんて以ての外だが……状況が状況だ。君の安全が最優先だろう」

 自分に言い聞かせるように頷く会長は嫌々といった風でもなく、寧ろ快く受け入れてくれて。
 てっきり断られるとばかりに思っていた俺は素直に驚き、そして、安堵した。

「……ありがとうございます、ほんと、助かります」

 本来の目的である身の安全の確保という目的を達成し、ようやく全身の緊張が解けたようだ。
 脱力し、緩んだ頬の筋肉が自然と安堵の笑みを浮かべた。それに釣られるようにして、会長は柔らかく微笑む。

「君は本当……いや、律儀なところが君のいいところでもあるしな」

「気にしなくてもいい。取り敢えず、仮眠室の鍵を渡しておこう」そういって、ごそごそと制服のポケットを探った会長は鍵を取り出し、それを俺に手渡した。
 小さなそれを受け取りながら、俺はふと疑問を浮かべる。

「あの、会長は……」
「ああ、俺はその辺で構わない。疲れているだろう」
「いえ、そんな、悪いです」
「いいと言っているだろう。素直に甘えろ」

 あまりにも俺が渋るものだから、会長も会長で業を煮やしたようだ。
 強い口調で強要され、ピリついていた神経は反射的にびくりと跳ね上がった。

「す、みません……」

 怒鳴り声に過敏になっていた神経は会長の声に思ったよりも大きなショックを受けていて、会長に怒られたという事実に俺自身も震え上がる。
 慌てて俯く俺に、会長はハッとした。そして、すぐばつが悪そうに視線を逸らす。

「いや、俺の方こそ悪かった。……取り敢えず、俺はまだ眠くないんだ。先に休んでいてくれて構わないから」
「……はい」

 ここまで言われたら、従うしかなくなってしまう。
 まだどきどきと煩い心臓を必死に落ち着かせながら、俺は逃げるようにして仮眠室へと向かった。
 会長に怒られた。でも、会長は俺のことを気遣ってくれていたわけだし。そう考えるとなんだかもうどうしようもなくて、今はただできるだけ会長の負担にならないようにしたかった。
 不思議なものだ。あれだけ怖がっていた会長のことをこんなに思うなんて。
 いや、だからかもしれない。いつ、どこで会長の機嫌を損ね、それこそ栫井の二の舞になるかと思えば会長に全神経を集中させなければならなくなるのは必然的で。

 ◆ ◆ ◆

 仮眠室。
 今は片付けられ、小綺麗な状態だがやはりここにくるとあのときのことを嫌でも思い出してしまう。
 散乱した花瓶の破片に、カーペットに染みた赤い無数の点。痛みに顔を歪めた栫井と、冷たい目をした会長。
 会長は、どんな気持ちで俺にここの鍵を渡したのだろうか。思いながら、俺は置いてあるベッドにそっと腰を下ろした。一人用にしては大きすぎるそれは、当たり前だが冷たくて。
 鬱鬱とした気分を紛らすため、俺は仮眠室を探索することにした。
 すると、どうやらシャワー室に繋がっているようで、この気を紛らわすために俺はシャワーを浴びることにする。
 ……というか、生徒会専用の仮眠室にシャワー室ってどこまで優遇されてるんだ。
 羨ましい反面、それが必要になるという環境がどんなものか想像つかない。
 まあ、元からこの学園の金の使い方は俺の想像の斜め上をいっているのだから最初から理解すること自体が難しいのだろうが。
 シャワーを浴び、言われるがままベッドに潜ったはいいが、寝れない。
 何度も寝返りを打ち、枕の位置を変えたりと試行錯誤してみたが、どれだけ目を閉じていても俺が眠りに堕ちることはなかった。それどころか、変に冴えた頭は昼間の出来事を鮮明に蘇らせるばかりで。

「……」

 少し、喉が乾いた。
 シャワーの水を飲むわけにもいかないし、取り敢えず、生徒会室に戻ってみることにした。
 なるべく音を立てないよう扉を開けば、明るい光が扉の隙間から差し込む。
 会長、起きているのだろうか。
 なんて想いながら生徒会室内に足を踏み入れた時、会長机の前。ソファー椅子の背もたれに深く凭れかかって眠る芳川会長がいた。
 テーブルの上には点きっぱなしのパソコンの画面からするに、どうやらなにか作業をしていたようだ。
 こんなところで寝るなんて、やっぱり会長、疲れているのかな。
 当たらないようにとテーブルの上に置かれた眼鏡を会長から離した俺は一旦仮眠室へと戻り、軽いタオルケットを持って生徒会室へと戻ってくる。
 先ほどの状態のまま会長は眠っていて、俺はなるべく起こさないようにゆっくりとその体にタオルケットを掛けた。

「ん……齋藤君?」

 すると、ゆっくりと会長が目を開けた。
 俺の顔がまだ認識できないようで、寝ぼけ眼のままじっと見つめてくる会長に内心ぎくりとしながら、慌てて俺はタオルケットから手を離す。そして、おずおずと頭を下げた。

「あ、すみません、起こしましたか?」
「いや、大丈夫だ。……そうか、俺は寝てたのか」
「会長、あの、疲れているようですしそろそろベッドで横になった方が……」

「いや、大丈夫だ」と短く答えた会長は手探りで眼鏡を探し、そしてそれを装着した。
 そこで膝にかかったタオルケットに気付いたようだ。それを手に取りながら、会長は俺を見上げる。

「……君が、掛けてくれたのか?ありがとう」
「いえ、これくらい別に……」

 大したことはしていない。それでも、嬉しそうにする会長が嬉しくて、釣られるようにして俺は頬を綻ばせた。
 こうしてると、本当何もなかったみたいだ。寧ろ、全て夢なんじゃないのかと思う。
 会長と栫井のことも、阿賀松のことも、壱畝のことも、全部、悪い夢なんじゃないかって。でも、全ては事実だとところどころアザの残っている俺の体は確かに物語っていて。

「……眠れないのか?」
「……すみません、ちょっと、まだ緊張してて」

 隠していたところでバレてしまうだろうので、俺は素直に自分の心境を告げる。
 すると、会長は渋い顔をした。

「ああ、そうだな。無理もない。……すまない、君への配慮が足りなかった」
「いえ、そんな」
「……そうだ。少し、外の空気を吸わないか」
「え?……今から、ですか?」
「無理にとは言わない。……少しくらいは気分転換になるだろう」

 もしかしたら会長なりに気を使ってくれているのかもしれない。
 言いながら椅子から立ち上がる会長に俺は狼狽えたが、ありがたくその気遣いに甘えることにした。

「そうですね。……ありがとうございます」

 会長を頼って生徒会室にやってきてからずっと屋内に引っ込んでいたせいか、酷く外の空気が恋しくなっていた。
 もしかしたら外に阿賀松たちが待ち構えてるかもしれない、なんてことも考えたが今の時間からしてその可能性は低いだろう。
 それに、元々は深夜の校舎は一般生徒は立ち入りが出来ないようになっている。
 一般生徒ではない、阿賀松を除けば。
 それでもこんな状況だ、阿賀松が自由に行動できるとは思わなかった。

「気にしなくてもいい。……ただ、俺も気分転換をしたくなっただけだ」

 畏まる俺に、会長はただ苦笑を浮かべた。

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