天国か地獄


 11

 どれくらい走っただろうか。
 窓のない通路を選ぶ灘についていくこと暫く。
 俺達はエレベーター乗り場のそばにある非常階段までやってきていた。
 重厚な扉を開けばそこはコンクリート張りの空間が広がっており、普段ほとんどの生徒がエレベーターを利用する中、非常階段にはめったに人がこない分暖房もなければかなり冷えていた。
 そんな非常階段を涼しい顔して駆け上がっていく灘に遅れを取らないよう頑張っていた俺だが、どうやら限界が来てしまったようだ。

「ごめ、灘君……っ、ちょっと、きつ……っ」

 殴打された下半身に今更ガタが来て、よろめきながら手摺を掴んだ俺はその後ろ姿に声を掛ける。
 足を止めれば、つられるようにしてこちらを見下ろした灘と目があった。
 相変わらずなにを考えているのかわからない表情だが、やはり汗一つ掻いていない。
 どういう人体構造をしているのか気になって仕方ないが、足を止めるということは休めということだろうか。
 と、思った時。携帯電話を取り出した灘はどこかへと電話を始めた。

「齋藤君、無事確保しました。……はい、復旧は五分後でお願いします。今からそちらへ向かいます」

 誰と話しているのだろうか、と思った矢先、ものの数秒で通話を終え、携帯電話を仕舞った灘はいきなり上着を脱ぎ始める。
 そして、脱いだそれを俺に向かって差し出した。

「これを」
「……?」

 なんで、と思ったがそこでようやく俺は自分の服装を思い出した。
 制服をもぎ取られ、タンクトップ一枚という暑さで浮かれるにしても速すぎる時期の薄着の俺を気遣ってくれているようだ。

「あ、ありがと……」
「すみません、気が回らなくて」
「いや、別に、そんな……むしろ、俺の方こそ……」

 なんて、灘に調子狂わされながらも受け取った上着を有難く拝借していると、遠くからけたたましい足音が聞こえてくる。
 反射的に灘と顔を見合わせれば、灘も気付いていたようだ。

「そろそろ行きましょうか」

 そういって、灘は俺に手を差し伸べる。どうやら、手を掴めということのようだ。
 ついさっき、こうして同じように縁に差し伸べられた手を握り返したことを思い出し、俺は躊躇う。
 灘と縁が同じような人間だとは言わないが、人の好意をこうやすやすと受け入れていいものか躊躇せずにはいられないのだ。縁は『疑心』という余計な手土産までつけてくれた。

「……俺も、ついていっていいの?」
「齋藤君が構わなければ……と言いたいところですが、黙って付いてきてください。急いでますので」
「っ、わ……っ」

 言うなり、俺の返答を待たずに灘は俺の手のひらを掴み、そのまま階段を駆け上がっていく。
 そんな力強い手に引っ張られながら、俺は転ばないように慌てて段差を踏み込んだ。
 うじうじ考える暇はない、ということか。ここまできたんだ、どうにでもなれ。このまま素直に縁たちに捕まるよりましだ。思いながら、俺は灘の手を握り返す。
 暫くして照明がついた。先ほどの灘の電話が関係あるのはわかっていたが、灘の背後にもう一人いるということは間違いないらしくて。
 俺の脳裏には芳川会長が浮かんで、離れない。

 カードキーを使い、生徒会専用のエレベーターに乗り込む。
 行き先は学生寮、最上階。
 最上階は殆ど使われていないと聞いていたが、もしかしたら専用のエレベーター以外から侵入不可ということなのだろうか。とか考えている内に目的地に到着し、俺は灘とともに機内を出た。
 学生寮最上階には、校舎と繋がった渡り廊下が存在していた。
 前、十勝に連れて来られたことを思い出しながら俺は暗幕が張られた薄暗い渡り廊下を歩いていく。
 そして、外部からの光を遮断したそこには、一つの影があった。その姿を確認すると、灘は小さく会釈し、その人影に歩み寄る。

「齋藤君、連れてきました」

 つられるようにして、恐る恐る俺は視線を人影に向けた。
 薄暗い通路内。
 俺は、そこにいた人物の姿に目を丸くする。

「か、栫井……?」

 先ほど、生徒指導室で別れた時と変わらない姿の栫井平佑は相変わらず精気のない目で俺を見下ろせばゆっくりと唇を開いた。

「お前、馬鹿だろ」

 遠慮のない、気だる気な声。
 しかし、その声には確かに呆れが含まれていて。

「ほいほいほいほい付いていくのは良いけど、相手くらい選べよ。尻軽」
「し……っ」

 尻軽。出会ってそうそうぐさぐさと突き刺さる言葉の暴力にダメージを受ける俺。
 確かに、確かに信じた俺の自業自得ではあるが、やはり傷つく。
 というかなんで俺は栫井に罵倒されてるのだろうか。

「栫井君、さっき言っていたことと違いますよ」

 そんな俺を見兼ねたのか、相変わらずの無表情のまま灘が栫井に声をかける。
 その言葉に、今度は栫井が押し黙る番だった。

「あ、あの……」

 やはり、どうやら灘と協力していたのは栫井で間違いなさそうだ。
 それ以外、ここには人の気配がない。
 でも、栫井が自分を助けるのに加担してるという事実はにわか信じ難くて。
 取り敢えず、お礼を言ったほうがいいのだろうか。と、迷っていたときだった。

「ご……」

 小さく、なにか言い掛ける栫井に俺は「え?」と聞き返す。
 睨むように俺を見た栫井は、眉間を寄せ、そっぽ向いた。
 そして、

「ごっ、……ごめん」
「え?」

 一瞬、栫井がなにを言ったのかわからなかった。
 脳が思考を止め、凍りつく。

「頼んでもないのに庇ってくれるとは思わなかったから。その……ごめん」
「栫井が、あや、謝……っえ?」

 これはなにかの間違いだろうか。
 あの偉そうで口が悪くて冷たい栫井が、俺に頭を下げるなんて。
 つい夢かとほっぺたを抓ってみたが痛い。夢じゃない。だとしたら目の前のこいつは偽物だろうか。
 なんて、あまりの出来事に困惑し、こんがらがっているとつられて灘も頭を下げた。

「俺からも謝ります。こちらの問題に巻き込むような真似をしてしまいすみません」
「別に、そんな……」
「そして、無鉄砲で頭でっかちな栫井君を庇っていただきありがとうございます」

「感謝します」と続ける灘に、栫井は「おい、灘……」と不愉快そうに顔を引き攣らせた。

 どうやら二人とも、からかっているわけではないらしくて。
 そこでようやく、素直に二人の言葉を飲み込むことができた俺は目の前が明るくなったような錯覚を覚えた。そして、今度はお腹の奥から暖かいものが広がり、目頭が熱くなる。

「……ぅ、あ……ありがとう」

 人から感謝された、しかもあの栫井に。
 その事実は夢のようでまだどこかにカメラがあるんじゃないだろうかと思わずにはいられなかったが、それでも、俺は張り詰めていた神経が緩むのがわかった
 既に潤んでいた涙腺にはすぐにぶわっと涙が溢れ、ぼろぼろと零れ落ちる。
 慌てて目元を拭う俺に、栫井はぎょっとした。

「ぅ……うぅ……っ」
「おい、なんでここで泣くわけ。あんた頭沸いてんの?」
「ご、ごめ……っ、なんか、ちょっと吃驚して……」

 引き気味の栫井は「意味わかんない」と吐き捨て、それでもいつもの刺刺しさはなくて、それがまた嬉しくて泣いた。

「それで、助けてくれたの?」

 そう尋ねれば、そっぽ向いたまま栫井は答える。

「別にあんた助けてないから。自惚れんなよ」
「縁方人と歩いているのを見掛けて、後を付けました。状況が状況なので、齋藤君の身が気になったので」
「大体、なんであの変態なんだよ。お前ドMかよ。自分からノコノコ相手の思うツボに入りやがって」

 めんどくせぇ、と唸る栫井。
 無言ではあるが灘の視線にはどこか俺を咎めるようなものがあって。

「で……でも、先輩は親身になってくれて……」
「マワされそうになってたのは誰だよ」
「う……っ」

 別に縁を庇うわけではないが、あのときは確かに嘘をついているようには思えなかった。
 俺よりも縁の方が上手なのか、否か。どちらにせよ、騙されていたのは事実なわけで。
 あの時、俺がラウンジへ戻らなければ俺の中の縁は縁のままだっただろう。
 だからといって、やはりあのまま嬲られるわけにもいかないし。

 それを言われてしまえば、俺はなにも言えなくなってしまう。しゅんと萎む俺に、栫井は面倒臭そうに舌打ちをした。
 気を遣う気すらないようだ。仕方のないことなのだろうが。

「恐らく、尾行していた俺を誘き出そうとしたんでしょうね。あんな派手な真似して」

 そんな中、灘はぽつりと呟いた。
「灘君を?」と目を丸くしたら、栫井は同調するように頷く。

「見せびらかすように校舎内わざわざ歩き回ってんだからわかるだろ、ふつー。ハメようとしたんだよ、お前を餌に」
「俺一人なら、齋藤君を助けられませんでした」
「お前弱いしな」
「怪我人は安静にお願いします」

 仲がいいのか悪いのか、こんなに饒舌な灘は初めて見たかもしれない。
 暫く睨み合っていた二人だけど、やがて諦めたように栫井が視線を逸らした。
 その様子がなんだかおかしくて、つい、俺は頬を緩める。

「……ありがとう。灘君、栫井」

 ふん、と鼻を鳴らす栫井だが、悪い気はしていないようだ。いや、わからないけど、そうだったら嬉しい。
 しかし、灘はいつもと表情は変わらなくて。それどころか僅かに周囲の雰囲気が硬くなるのを感じた。

「齋藤君、まだ安心するのは早いのでは」

 まっすぐとこちらを見る灘の言葉に、俺は「え?」と目を向け、そしてハッとする。
 縁の怪我、阿賀松の対処、阿佐美との生活。
 問題は何一つ解決されていないどころか、増えていくばかりで。
 最悪とも言うべき自分の置かれた立場を再確認した。

「これから、どうするんですか」

 相変わらずの無表情のまま、灘は尋ねてくる。
 シンプルな質問だが、俺は言葉に詰まった。

「どうするって……その……部屋に戻るよ。阿佐美と顔合わせるのは怖いけど、ちゃんと話してみる。それでも無理だったら、それまでだけど……」

 そうするしかない。それが最善だ。いくら阿佐美と阿賀松の血が繋がっていようが、阿佐美は話せばわかるやつだし阿賀松たちのように暴力で訴えかけてこない。
 だからこそ余計会いにくいのだが、背に腹は代えられない。

「あんた、本気でいってんの?」

 しかし、そんな俺の勇気を振り絞った提案も栫井にばっさり切り捨てられる。

「阿佐美詩織が阿賀松伊織の関係者って知ってんだろ、あんたも。部屋に戻った瞬間アウトだ」
「でも、阿佐美はいいやつだから、話したらきっと分かってくれるかもしれないし……」
「根拠がない」

 投げやりな口調だが、栫井は痛いところを適確に突いてくる。
 だからだろう。そんな栫井の言葉に詰まりたくなくて、なにがなんでも俺は言い返したかった。

「根拠はなくても……ちゃんと知ってるよ、阿佐美は話せばわかるやつだし、俺、ちょっとだけだけど一緒に生活してたんだから」

 しどろもどろと反論すれば、細められた栫井の目から鋭い視線を向けられた。

「たかが数ヶ月で知ったような口聞くなよ」

 その一言に、全身の筋肉がぎくりと緊張した。

「あんたがいくら信じたところで阿佐美詩織は阿賀松伊織の味方をするに決まってる」

 だって、と栫井が畳み掛けるように言いかけた時だった。
「取り敢えず」と、灘は俺達の間に立ち、パンパンと手を叩く。
 その音に驚いて灘を見れば、目があった。相変わらずその目に感情はない。

「今夜のこともそうですが、俺が言っているのはこれからのことです」

 もっと広い視野で見てください。言いはしないが、灘の纏う空気がそう言っているように聞こえた。

「会長に言われたとはいえ、阿賀松伊織を敵に回してしまった今、齋藤君のいる場所は非常に危険な立ち位置になってしまいました。今後の学園の生活での支障が出るのは目に見えてます」
「……うん、わかってる」
「俺は、なんとしてでもそれを避けたいと思います」

 冗談も言わなければ軽口も叩かない。
 無駄のない灘のストレートな言葉は、直接心に染みていく。

「灘君……」
「取り敢えずそういうことだから。……俺も、他人に借り作りっぱなしにすんのやだし」
「あ……ありがとう……」

 そう、感謝の思いを声に出した時。ぶわわっと目から涙が溢れた。
 蛇口が壊れた水道のように号泣する俺に、顔を引き攣らせた栫井は呆れたように呟く。

「……何回泣くんだよ」
「そう言う風に言われるの、慣れてなくて……」
「めんどくせぇ」

 自分でもわかっているのだが、やはり駄目だ。
 優しくされることに慣れてない分、感動してしまう。
 これだから縁にも騙されるのだろうとは理解しているが、こればかりはどうしようもない。俺は取り出したハンカチで目頭を抑えた。

「取り敢えず、しばらくの間生徒会室に身を置くのはどうでしょうか。会長も君のためなら力を貸してくれるはずです」

 そんな中、咳払いを一つした灘はそう提案する。
 灘の口から出た『会長』という単語に、心なしか栫井の顔色が悪くなるのを俺は見逃さなかった。

「でも、いいの?」
「状況が状況なので会長も無視することは出来ないはずです。五味先輩も十勝君も、君のことは気に入っているようでしたから大丈夫でしょう。ただ」
「……ただ?」
「あくまでも自己判断で頼ってきたということで、会長に持ちかけて下さい。決して、自分達の名前は出さないように」

 達、ということはその中にも栫井が含まれているのだろう。
 ここまで考えてくれている二人の気遣いは会長たちも知っておくべきではないだろうか。
 会長のことはびっくりしたけど、今までのことを考えたらただの解らず屋ではないはずだ。
 話し合えば、きっと仲違いも解消するだろう。そう思っていただけに、灘の言葉に俺は戸惑わずにはいられなかった。

「そんな、どうして……」

 純粋に悲しくて、灘を見上げた。
 真っ直ぐにこちらを捉える灘の目は逸らされることはなく、吸い込まれるような黒い瞳をそのまま見詰め返す。一瞬だけ、僅かに灘の口元が緩んだような気がした。

「裏切り者と思われたくないでしょう」

 今の俺が判断力が低落しているのは確かで、栫井たちの方がより冷静なのは明らかだった。
 二人に促されるがまま会長に連絡を取った俺は、すぐに生徒会室前で会長と落ち合う約束をした。

 そして、生徒会室前。
 二人と別れ、生徒会室前までやってきた俺が扉の前で入ろうか迷っていると、「齋藤君」と声を掛けられた。

「会長……」
「すまない、遅くなった。……怪我は?」
「俺は、大丈夫です……けど……」

 走ってきたのだろうか。息を切らせた会長に問い掛けられ、先ほど、縁の腹部に突き刺さったナイフの感触が鮮明に蘇る。
 瞼裏に浮かぶ強烈な赤の色に一瞬目の前が眩み、無意識に声が震えた。
 栫井たちには『とにかく会長の前ではか弱い被害者であり続けろ』と言われていたが、わざわざ演じる必要はなさそうだ。
 間接的でありながらも人を指してピンピンしてられるほど、俺の神経は丈夫にできていない。よほど酷い顔をしていたのか、俺を見下ろす会長は僅かに眉根を寄せ、そして生徒会室の扉を開いた。

「……取り敢えず、中に入れ」
「すみません……失礼します」

 ぺこりと頭を下げ、誘われるがままに生徒会室へと足を踏み入れた。
 夕日に染まる生徒会室には既に人気はない。それもそうだ。先程、灘に聞いた話では本来ならば今日は活動日ではないという。
 それなのに、わざわざ会長は俺のために来てくれた。その事実に、やはり会長の優しさというものを感じずにはいられなかった。
 例え、その手が、その口が、俺ではない人を傷つけていたとしても。

 ◆ ◆ ◆

「……それは、どうしたんだ」

 生徒会室内。
 部屋に明かりを点けた会長は、改めて俺の姿を目の当たりにし、唸るように尋ねてきた。
 そこで、俺は自分の身なりに目を向ける。
 先程ラウンジで揉み合いになったときだろう、制服はぐちゃぐちゃで、白いシャツには赤黒い染みが付着していた。
 会長を待っている間、誰とも会わずにすんでよかった。そう思うくらい酷いことになっていた。
 ……だが、問題は会長だ。
 縁を刺したというわけには言わない。なにか上手いことかわせないだろうか。

「え、あ……これは、その、ただの返り血で……」
「返り血?」

 まずい。オブラートに包んだつもりが墓穴を掘ってしまったらしい。
 徐に硬直する会長の顔面に、どきりと俺は冷や汗を滲ませた。
 ……しかし、会長はそれ以上血のことに触れて来なくて。

「取り敢えず、脱いだらどうだ。気持ちが悪いだろう」

 くるりと俺に背を向けた会長は、生徒会室においてある棚から服一式を取り出した。

「替え、俺のでいいか?」
「あっ、すみません……」

 迂闊だった。せめて、着替えは用意すべきだった。
 差し出される会長の私服を受け取り、なんだかもう頭が上がらなくなる。
 どうして栫井たちは服について何も言わなかったのだろうか。こんな目立つ汚れならば、きっと二人も気づいていたはずだろうに。
 なんとなく気になったが、二人のことだ。もしかしたらこれも被害者であるための要素ということだろうか。だとしたら、やはり先ほどの返り血という言葉は悪かったのかもしれない。
 自分の軽はずみな言葉を酷く後悔しつつ、会長に背中を向けた俺はそのまま制服を着替えた。

「すみません、お借りします」

 そういって、会長の服に着替えた俺は頭を下げる。
 先程からずっと頭を下げっぱなしだ。それほど不甲斐ない立場なのだから仕方ないといえば仕方ないのだろうが。

「少し、……大きかったみたいだな。悪い。気持ち悪いだろうがまたあとで君の体にあったものを用意するから少しの間我慢してくれ」
「いえ、全然俺、気にしないんで!……寧ろ、申し訳ないです、俺のためなんかに」
「それこそ無用な心配だ。君のためなら構わない。……もちろん、君さえ嫌じゃなければだが」
「い、嫌じゃないです。その、会長の匂いがして……落ち着きます」
「そ……そうか……?」

 なんとかフォローしようとしたのだが、寧ろ余計なことを言ってしまったみたいで。
 僅かに赤くなる会長に、自分の変態じみた発言にはっとした俺は慌てて俯いた。顔が酷く熱い。

「すみません、変なこと言って」

 できることならこのまま燃えカスになって風に吹かれて自然消滅したいくらいの羞恥に死にそうになったが、明らかにドン引いている会長は慌てて「いや、嬉しいよ」と付け足した。
 会長にまで変な気を使わせてしまって余計顔が上げられなくなる。

「そうだ、それ、洗うからこっちに渡せ」

 ふと、思い出したように手を差し伸ばしてくる会長。
 どうやら俺が先程まで着ていた制服のことを言っているようだ。
 どうみても訳ありなそれを会長に手渡すのは抵抗があったが、このまま持っていても仕方がないのも事実で。少し迷って、俺は会長にそれを渡した。受け取った会長は制服に視線を落とし、僅かに表情を曇らせる。

「……酷いな」

 ぽつり、と漏れたその言葉に、ぎくりと心臓が音を立てて緊張した。
 会長の長い指は、白いシャツに染み付いた乾いた血をなぞる。そして、ゆっくりと視線がこちらを向いた。

「そろそろなにがあったのか聞かせてもらってもいいか」
「……っ」

「齋藤君」と、また、名前を呼ばれる。
 聞き慣れた優しい声はゆっくりと身に染み、逆立った神経を和らいでいくのを感じた。だからだろう。つい、気が緩んだ。
 俺は、自分の腕を掴み、そのまま強く肩を抱き締めた。こうでもしなければ、震えを抑えることができなかったのだ。

「すっ、……すみません……っ俺、もう、どうしたらいいのかわからなくて……」

 声が震え、視点が定まらない。
 さっき、握り締めていた柄から肉を突き破る刃の感触がどれだけ経っても拭えなくて、急激に喉が乾いていく。汗が、止まらない。
 ぎゅっと自分の腕をキツく握り締めたとき、その手の甲に会長の手が重ねられた。
 縁の温かい手の感触と会長の手のひらの熱が重なり、一瞬錯覚を起こしてしまいそうになったが、目の前の会長にすぐに平静を取り戻した。

「……ゆっくりでいいから話してみろ」

 優しく、囁き掛けられ、乱れていた脈が僅かに落ち着いていくのがわかった。
 まるで子供をあやすかのように手の甲から腕にかけてのラインをなぞるように撫でられ、宥められる。
 この手が栫井を傷付けていた。その事実を疑いたくなるくらい、会長の手は優しくて、暖かくて。
 気付いたら、全身の筋肉は解れていた。
 条件反射、というわけではないだろうが、きっと会長は俺の窘め方が上手いのだろう。
 綺麗な人間ではないと理解しているつもりでも、会長というひとがわからなくなってくる。それでも今は、目の前の優しさに甘えたかった。
 縋りたかった。

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