天国か地獄


 10

 学生寮、一階。
 ラウンジの扉を開いた縁は中を覗き込み、嬉しそうに目を細める。

「おー空いとる空いとる」

 言いながら、一歩ラウンジへと足を踏み入れたときだった。なにかに気付いたのか、「ん?」と縁は足を止める。

「どうしたんですか?」

 なんとなく気になって、縁の肩越しにラウンジ内を覗き込んだ時だった。 背後で、影が動いた。

「っ、齋藤君!」

 不意にこちらを振り返った縁に名前を呼ばれ、「え?」とつられるように背後に目を向けた時。
 縁に腕を引っ張られ、そのまま庇うように抱き締められた。顔を覆う腕の隙間、棒状のものを手にした生徒の姿が見え、背筋が凍りつく。

「ん……っ!」

 次の瞬間、鈍い音がし、縁の全身が強張った。
 自分を庇ったせいで、縁が殴られた。その事実に全身から血の気が引き、慌てて俺は縁の腕を掴んだ。

「先輩……っ!」

 言葉が出なくて、泣きそうになりながらも取り敢えず慌てて縁の腕から抜け出そうとすれば、頭上で「はっ」と縁は吐き捨てるように笑った。

「っか弱い俺に手を出すとは、いい度胸だなぁ!」

 そして、片腕で俺を庇ったまま、棒状のそれを勢いよく振り払った縁はそのまま壁際に置かれた大きなゴミ箱を掴み、そのまま薙ぎ払うようにそれを振り回した。
 大きく蹌踉めき、そのまま尻餅をつく生徒の頭部をもう一度殴打した縁は、そのまま倒れ込む生徒に馬乗りになる。

「……へへー、いい眺め」

 そして、呻く生徒の頭の上からゴミ箱をすっぽりと被せ、無邪気に笑う縁。
 嵐が去ったかのように静けさが戻る周囲。
 もう、終わったのだろうか。思いながら、あたりを見渡した時。物陰から男が現れる。

「あ……っ」

 その男を止めるよりも先に、男は近くの椅子を掴み、そのままそれを縁の後頭部目掛けて振り下ろす方が早かった。

「っぐぁッ!」

 縁の悲痛な呻き声。一度二度では止まらず、男は何度も椅子を振り下ろした。
 やばい。そう判断するよりも先に、体の方が先に動いた。

「っ、なにしてんだよ!やめろ!」

 目の前で行われる過度の暴行に青褪めた俺は慌てて止めに入ろうと駆け寄ろうとして、肩を掴まれる。
 誰だよ、こんなときに。つられるように振り返ったとき。俺は凍りついた。
 どこに潜んでいたのか、いつの間にかに現れた複数の生徒は俺を囲むように立っていて。
 その手には、それぞれバットや竹刀など、『使い勝手のいい凶器』が握られていて。全員の目が、俺に向けられていた。

「……なに、これ」

 絞り出した声は掠れ、今にも消え入りそうだった。酷い既視感に、背筋が震える。
 もしかしたら殴られたのかもしれない。囲まれていたのを最後に記憶が途切れ、気付いたら埃っぽい個室に連れ込まれていた。
 数人の生徒に体を押さえ付けられていることに気付き、慌てて振り払おうとするがどうやら飛んでる間に殴られたらしい。腹部が痛み、四肢に力が入らない。

「誰かっ、助け……っんん!」

 せめて、助けだけでも。そう声を上げるが、思いっきり鳩尾を殴られ言葉はかき消される。
 目の前が白ばみ、吐き気がこみ上げた。

「っは、ぁ……っうぇ……っ」

 涙が滲む。噎せ、えずいたとき、もう一発腹を殴られて、あまりの痛みに意識が掠れてきた。肉体的痛みと精神的混乱のせいで頭が働かない。
 ただ、これ以上殴られるとまずいというのは直感で感じた。

「誰だよ、こいつすげー大人しいとか言ったやつ」
「面倒くせえから縛れよ」

 交わされる会話はもはや耳に届かない。
 せめて、せめて縁を助けなければ。あの乱暴な動作で打ち所が悪かったときのことを考えたら生きた心地がしない。

「せんぱ、縁先輩……っ!」

 目を動かし、あたりを探る。簡易な棚と段ボールがやけに目立つここは倉庫か物置だろう。
 見知らぬ生徒が数人いるだけで、肝心の縁の姿は見当たらない。
 もしかしたら、ラウンジに残したままなのだろうか。
 嫌な汗がだくだくと溢れ、気が遠くなりそうになったとき。顔のすぐ横を、なにかが過ぎった。

「お前、自分の状況わかってる?先輩の心配してる場合じゃねーだろ」

 鋭く尖った銀色のそれは床の板に突き刺さり、俺の横顔を映し出す。携帯用のナイフだ。

「っ、……ッ」

 全身が冷水をかけられたように凍りついた。
 そのナイフが自分に突き立てられている映像が脳裏に浮かび上がり、腹部の痛みもぶっ飛びそうになる。

「嫌だ、誰か……っ」

 ただの脅しだと思いたい。思いたいけど、無理だ。
 小さく首を横に振り、ナイフから逃げるように顔を仰け反らせば、しゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた連中はおかしそうに笑う。

「誰かって?誰のこと?」
「ほら、会長様々だろ。あのいけすかねーメガネ」

「あーなるほど」「そういや付き合ってんのってマジ?」と好き勝手口々にする連中。
 芳川会長の名前が出た時の連中から隠そうともしない嫌悪感を感じ、俺は直感する。どうやらアンチのやつらのようだ。

「ああ、なら無理だな。あいつは助けに来ねえよ、絶対」
「そーそー、君も、大人しくしといた方がいいよ。怪我したくないっしょ?」

 なんで俺がアンチのやつらに襲われなければならないのか。
 なんで仮にも阿賀松の側近である縁先輩まで巻き込まれているのか。
 なんで、なんで。考えた結果、すぐに答えは出てきた。
 この連中のバックには阿賀松伊織の指揮がある。

『針千本、飲む覚悟は出来てんだろうな』

 あの時、耳打ちされた言葉が鮮明に蘇る。この場にいない赤髪の男が瞼裏に現れ、俺は目を見開いた。
 なにか、なにか身を守れるようなものはないだろうか。そう、辺りを探ってみれば、すぐに目的のものを見つけることが出来た。
 未だ迷う自分を叱咤し、俺は下卑な内容で談笑する連中の隙を伺う。
 そして一瞬、自分から視線が逸れた時。

「……っ」

 床に刺さっていたナイフの柄を男子生徒から奪い取り、そのまま引き抜くようにしてそれを振り回した。
 一瞬、俺の行動に気付くのに遅れたそいつの頬を刃先が掠める。

「っ、ぐ!」

 目を見開いた男子生徒が怯んだその瞬間、俺は男子生徒のネクタイを引っ張りその首元にナイフを突きつける。

「てめぇ……っ!」
「あの、近付かないで下さい……っ、お願いします」

「じゃないと、手が滑っちゃいそうで」言いながら、男子生徒のネクタイを引っ張ったまま俺は扉へと向かって一歩、また一歩と進んでいく。
 まさか、人質を取られるとは思っていなかったのだろう。俺も、思わなかった。だけど、腕力と人数で勝つためにはこれしか方法がないのだ。
 青褪めた生徒たちは、じりじりと俺たちから離れる。
 良かった、ここには友達のためを思って自分を犠牲にしてまでも飛び掛ってくるような無鉄砲はいないらしい。

「……いいですか、動かないでくださいよ、お願いします」

 腹に力が入らないけど、それを悟られないように足に体重をかけしっかりと床を踏みドアノブを掴む。
 腕の中の人質の生徒をどこで捨てるか考えたが、今はここを出るのが先だ。
 部屋の中の生徒たちに背中を向けないよう気をつけながら、俺はそのまま扉を開き、人質諸共倉庫から飛び出した。
 取り敢えず、ここを離れよう。思いながら、乱暴に扉を閉めたときだった。

「……齋藤君?」

 背後から声を掛けられ、俺は慌てて振り返る。そして、そこに広がる光景に凍りついた。
 場所は、ラウンジ内にあるとある扉の前。
 テーブル席をいくつも占拠し、屯していた生徒たちの輪の中。満身創痍の縁方人がいた。

「先輩……っ?!」
「手に持ってんのって……あー、なるほどね。そう来たか」
「怪我、え、ってか、なんで……っ」

 明らかに、様子が可笑しい。俺の手の中のナイフに目を向け、笑う縁はいつもと変わらない調子で。
 囲まれて痛め付けられるどころかその場に馴染んでいる縁に呆気取られたとき、腕の中の人質に肘鉄を食らわされられ、持っていたナイフを落としそうになる。握り直した隙に、人質代わりの生徒が俺から逃げ出した。そして、慌てて縁に駆け寄る。

「すみません、方人さん、こいつが勝手に……っ!」

 そう、青くなった人質が言い訳を口にした時。
 ソファーから立ち上がった縁は笑顔で人質の肩を掴み、そしてそのまま下半身を蹴り上げる。
 人間のものとは思えない断末魔を上げながら床に崩れ落ちる人質だった生徒の尻を蹴り上げる。
「使えねえ奴」一瞬、表情から笑を消した縁はまるでボールでも蹴るかのように避け、そして俺に歩み寄ってきた。

「全く、齋藤君見直しちゃったよ。君って結構大胆なんだね」

 当たり前のように目の前で行われた暴行に、一瞬反応が遅れた。
 ただ、目の前の縁の笑顔がただただ薄気味悪く、気が付いたら汗ばむ手のひらでナイフをきつく握った俺はそれを縁に向けていた。ナイフに反応した体格のいい連中が動こうとしたが、縁はそれを制する。

「先輩っ、なんで」
「なんで?むしろ俺がなんでなんだけど?なんで大人しくしてないの?ダメじゃん、そんなもの人に向けちゃ。せっかくの可愛い顔に傷が付いたら大変だろ」
「茶化さないで下さいっ!」

 ナイフで威嚇すれば、縁は肩を竦める。しかし、歩み寄ってくるその足は止まらない。
 周囲の目があるせいか、後戻りができない状況まで自ら落ちて行っているのがよくわかった。
 落ち着きを取り戻すには頭を整理する時間が足りない。
 ただわかったのは、この騒動を裏で操っていたのは縁だということ。
 縁の影にはやはり、阿賀松の存在があるということだ。

「なんで、こんな……俺のこと、守ってくれるって……っ」

 優しかった縁を信じたかった。
 信じたかったし、さっき庇ってくれたとき、本気で動揺した。
 自作自演で心を掻き乱されたことが、ただただ悲しい。それ以上に、懲りずに騙された自分が情けなくてたまらない。
 視界がぐにゃりと歪み、ぽろぽろと涙が溢れた。目の前までやってきた縁は、俺の手に握られたナイフに構わず俺の頬に手を伸ばし、涙を拭う。

「あーあ、もう、泣かないで。可愛いなぁ」

 そう、額と額を擦れ合わせた縁は目尻を下げ、わしわしと俺の後頭部を撫で回す。
 刃先のすぐそばに縁の生白い首筋がある。それでも狼狽えずに触れてくる縁に、逆にこちらが怯えてしまいそうになった。
 凍り付き、動けなくなる俺の目を真っ直ぐに見詰める縁は小さく笑みを浮かべる。

「全部、齋藤君のためだよ」

 そして、縁は楽しそうに目を細めた。

「俺の……?」

 一瞬、縁の言葉が理解できなかった。相手にするだけバカを見ると身を持って知っていたが、それでも、尋ねずにはいられない。

「そ、齋藤君のため。可愛い可愛い齋藤君が悪い奴に騙されないようにテストしてるんだ」

 対する縁はいつもと何ら変わりない様子で微笑んだ。
 細められた視線が、ねっとりと絡み付いてくる。思わず後ずさったが、背後の壁が俺の後退を阻んだ。

「残念。齋藤君は不合格」

 唇に縁の吐息を感じるくらいの至近距離。笑う縁は、ナイフを握り締めた俺の手首を強く掴む。

「っ」
「でも、俺のこと信じてくれたからおまけで優しくしてあげるよ。だからそんな顔すんなって」

「な?」とあくまでも優しい口調で念を押してくる縁だが、掴まれた手首は捻り潰すほどの強い力を加えられ、軋む。
 少しでも気を許したらナイフを取り上げられてしまいそうで、必死に振払おうとするが力の差があまりにもありすぎた。
 それでも、このまま流されてしまったらそれこそ、どうなるかは分からない。
 せめて、誰かに助けを求めることが出来れば。しかし、周りの野次馬は全員縁側の人間らしく、必死に抵抗する俺を見て同情するどころか見世物として楽しんでる気配すらある。
 ここにいる人間に助けを求めたところで、鼻で嘲笑われるのは目に見えていた。

「こんな、人とは思いませんでした……っ!」
「齋藤君の中で俺はどんな人物なのか興味あるけど、そんなこと言うなよ」

「俺の気遣いを理解した時、間違いなく齋藤君は俺に惚れ直すんだから」どこからそんな自信が出てくるのか、ここまでくると清々しい。
 冗談か本気かわからないが、縁の言葉を真に受けたところで更にこんがらがるだけだ。
 こんな無駄な会話を交わしたところで、助けがくるかどうかもわからない。それなら、自分でなんとかするしかないだろう。でも、どうやって。
 多勢に無勢、とは正にこのことかもしれない。これ以上の抵抗は、自分の寿命を縮めるだけだろう。
 だけど、このまま流されても確実に俺の寿命が縮むのは目に見えている。
 どうしたらいい。目の前の縁をじっと見上げたまま、俺は考え込む。時間稼ぎも、これ以上は無理だ。
 隙を見て携帯から誰かに連絡を入れることができれば、どうにか。でも誰に?
 ここで阿賀松に連絡を入れたら間違いなく自殺行為だし、志摩も「都合の良いときばかり」と突っかかって来るだろう。
 ……なら、芳川会長は?
 そこまで考えたときだった。
 手首を握り締めていた縁の手が急に離れ、力んでいたナイフを握り締める手が勢い良く振り回される。

「あっ」

 次の瞬間、ずぶりと。手のひら越し、柄から肉に埋まるような嫌な感触が伝わってきて、全身からどっと汗が吹き出した。
 眉間を寄せた縁は俯き、自分の腹部に視線を下ろす。口元には、笑み。

「……あーあ、やっちゃったねえ。齋藤君」

 慌てて縁の横腹に刺さったナイフを引き抜こうとしたら、手首を掴まれ更に深く捩じ込む縁。
 一瞬、意味がわからなかった。凍りついた思考回路。あんぐりと口を開いた俺は、動けなくなる。

「え、あ……なにして……っ」
「午後2時43分。齋藤佑樹君を現行犯タイホしまーす」

 顔を顰め、苦痛で歪む顔面に無理やり笑顔を浮かべた縁は「証人は、ここにいる皆さんってことで」とナイフを引き抜き、それを俺の手に握らせたまま公衆に振り返らせた。真っ赤に濡れた刃先からぽたりと赤い雫が落ちた。

「あーあ、やっちゃったなー」
「ナイフ振り回して狂乱していたのを止めようとしていただけの方人さんを刺すなんて」
「こりゃ終わったな」

 誰一人、ことを重大視しているものはいない。
 囁かれる声、隠そうとしない笑い声、飛んでくる野次。
 携帯を手にした生徒はフラッシュを炊く。すぐに、状況は理解できた。

「――ッ!」

 これは、やばい。脳裏に犯罪者として新聞に載る自分を想像してしまい、全身から血の気が引いていく。
 縁がなにを企んでいるか、理解できた。出来ただけに、どうしたらいいのかわからない。それでも、ナイフを捨てることができなくて。

「ぁあ……どうしよう、齋藤君。血が止まんないよ、どくどく溢れてくる。俺、死んじゃうかもしれない」

 肩を抱き寄せ、耳元に唇を寄せた縁は甘い声で囁いてくる。
 吹き掛けられる生暖かい吐息。縁の白いシャツは赤く染まり、直視できない。

「……っそのために、薬局に行ったんですよね。止血して、早く、先生を呼んで下さい」
「いいの?齋藤君、捕まっちゃうかもよ?」
「最初からそのつもりだったんじゃないんですか」

 無意識に語気が荒くなる。縁は毛頭から俺をハメるつもりだったんだ。
 薬局に寄って傷薬や包帯を買い溜めていた縁を思い出し、腸が煮え繰り返るというよりも呆れてなにも言えない。そこまでして、俺を陥れなければならないのか。

「だから、なにをいきり立ってんのって」

 こっちを向いて、と顎を掴まされ、強引に振り替えさせられる。
 目の前に縁の顔があって、まさか、と全身を強ばらせたと同時に唇を塞がれた。

「……っんん!」

 人前で、しかも腹から血を流しながらもキスしてくる縁に逆にこっちの方が狼狽えてしまう。
 噤んだ唇を抉じ開けられ、舌を捩じ込まれる。慌てて顔を離そうとするが、口角変えて深く口付けられれば逃げられない。引っ込めた舌を絡み取られ、音を立てて吸われれば全身から力が抜けそうになった。

「……っふ、むっ……っ」

 その場に崩れ落ちそうになるのを腰を抱かれ、更に密着する。
 腹部同士が辺り、濡れた感触がして慌てて身を捩らせるが縁は離れない。
 人が見ている前で、しかも大怪我をしているにも関わらずことに及ぼうとする縁の行動力には脱帽せずにはいられない。濃厚な血の匂いが辺りに充満し、頭がクラクラしてきた。
 息苦しくなり、体の動きが鈍る。大人しくなる俺を見計らって、縁は舌を引き抜いた。

「齋藤君、俺の心配よりしなきゃなんないことがあるだろ」
「……っ、は……」

 ちゅっ、ちゅっ、と音を立て顔にキスをしてくる縁は最後に俺の目元に唇を押し当て、にこりと微笑んだ。
 痛みを感じさせないような、爽やかな笑顔だった。

「口封じ」

「ほら、頑張って」そう笑う縁は、放心する俺の背中を押し、ラウンジの中央へと引っ張り出す。
 向けられた無数の視線。
 それに怯える余裕なんてなくて、なにも考えられなくなる俺の背中にそっと触れた縁は笑みを深くした。

「ほら、齋藤君が俺の怪我の分まで身を呈して償ってくれるんだって」

「せっかくだから、好意に甘えてやれよ」そう微笑む縁は楽しそうで、なにがそんなに楽しいのか理解できない俺はただその場から動く事もできず顔を引き攣らせた。
 縁がなにを考えているのか、なにを目的にしているのか。俺を犯罪者としてでっち上げたいのならすぐに教師なりなんなりを呼べばいいはずだ。
 ならば、なぜこんな大人数の前で脅迫するのか。
 口封じ、と縁はいった。ただ単に嬲られている俺を肴にしたいのか。
 清々しいくらい自分の欲望に対しドストレート縁ならばそんな回りくどいやり方をしないはずだ。だとしたら、他に目的があるということになる。
 人の痴態を大勢に見せつける?なんのため?単なる性的倒錯?分からない。

「っいやだ、やめて下さい……っ!」

 服を剥ぎ取ろうと伸びてくる手を振り払い、俺は縁たちから逃げようとする。
 しかし、縁に足を払われる方が早かった。

「っよっと、」
「っ、わ!」

 ずしゃっとバランスを崩し、転倒する俺。
 慌てて起き上がろうとするが、そのまま頭を床に押し付けられ、四つん這いのまま動けなくなる。
 最悪だ。これほどまでにピカピカに磨き上げられた石の床を恨んだことはない。

「そんなに照れなくていいのに。どうせ初めてじゃないくせに。まあ、そこが齋藤君の魅力なんだろうけど」

 くすくすと笑う縁の声。四方から伸びてきた手に制服を引き剥がされ、俺は縮こまるように丸まった。
「逃げんなよ」と前髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。顔を上げれば、見知らぬ生徒がいて。

「っふ、んん……ッ!」

 当たり前のように唇を塞がれ、一瞬、頭の中が真っ白になる。
 次に、視界に色が戻った時にはベルトを掴まれ、ズボンを脱がされそうになっていた。
 どうして、よくも知らない同性相手にキスが出来るのだろうか。一生掛ってもきっと俺には理解出来ないだろう。
 手足を抑えられているお陰で体が思うように動かず、固まったように俺は受け入れる事しかできなくて。

「……っ、は、んん……」

 抵抗さえしなければ、なんとか、やり過ごすことが出来るかもしれない。
 でも、それは俺にとってはあまり使いたくない手だった。他に、他になにか。なんて、ぐるぐると回る頭の中で自問自答を繰り返している時。
 ずるりとズボンを脱がされ、俺は現実に引き戻される。

「っぁ、……ッ!」

 唇が離れ、咄嗟に俯いた俺は慌てて下着を掴もうとしたが、そのまま誰かもわからない手に手首を掴まれた。その場にいた全員の視線が下腹部に向けられ、顔から火が噴きそうになる。

「うわ、なにこれ。すっげぇ」
「こんなところにまでついてるし」

 腿を掴まれ、足を開かされた。
 一瞬、なんのことを言っているのかわからなかったが恐らく、キスマークだろう。

「っ、も、ゃ、やめて下さい……っ!」

 恥ずかしさと恐怖でいっぱいになって、頭がおかしくなりそうだった。
 触れてくる指先に思考は掻き乱され、考えがまとまらない。

「今更恥ずかしがってんじゃねえよ。いらねえだろ、こんなの」
「っ、い、やだ……っ」

 頭上から堕ちてくる複数の嘲笑う声に泣きそうになる。
 ウエストが伸びそうなくらい下着を引っ張られ、それでも必死になって脱げないように抑えていると、指を掴まれ、思いっきり曲げられた。
 ひん曲がるような痛みに目を見開き、思わず下着から手を話してしまったときだった。
 下着がずり下ろされ、下半身に寒気か走ると同時に視界が真っ暗になる。
 停電だ。昼間だが、窓がないラウンジの明かりは照明だけが頼りで。
 何が起こったのかわからず、動揺でそのまま固まっていたのは俺だけではないようだ。

「っおい……うわっ!」
「てめえ、なに……っぐっ!」

 ざわめきとともにどこからともなく呻く声が聞こえてくる。
 なにが起こったんだ。どうやら照明が落ちたのはここだけではなくて、
 暗闇の中、目を拵えるように辺りを探った時だ。

「おいっ、なにしてんだよっ!」

 すぐ側で怒鳴り声が聞こえたと思えば、壁に何かがぶつかるような音ともに急に体を押さえつけていたものがなくなり、軽くなる。そして次の瞬間、腕を引っ張られ、そのまま乱暴に抱き上げられた。

「うわ……っ」

 誰だ。腕を掴んでくる相手の顔を見るが、如何せん視界が悪い。
 その代わり、柑橘系の爽やかな香りが鼻腔を刺激する。勿論、それでその人物を判断することはできるわけなくて。

「ちょ、な……っ待って……っ!」

 戸惑う俺を他所に、そいつは俺の腕を引っ張るように歩き出した。
 しっかりとした足取りはここの出口を知っているようだ。
 集団の手から逃れることができたという安堵とともに、なにがなんだかわからないという漠然とした不安感に自ずと俺の足は竦む。そんな俺を気遣うように、肩に手が伸びてきた。

「話は後で聞きますので、今は逃げさせていただきます」

 そして、ふいに耳元で囁かれる聞き覚えのある平坦な声に俺は目を見開く。
 紛れもなく、その声は灘のものだった。
 側にいるのが見知った人間であるということにひどく安心したが、それでもやはり、なぜ灘がここにいるのかわからなかった。さっきラウンジではいなかったはずだ。
 と、そこまで考えたとき。

「おい!誰か明かりつけろ!早く!」

 背後から乱暴な声が聞こえ、びくっと全身が跳ね上がる。
 色々灘に聞きたいことはあったが、もたもたしている暇はなさそうだ。
 脱げかけのズボンで足が縺れそうになるのを堪えながら、慌てて履き直す俺は暗闇の中、灘に引っ張られるようにひたすら光を目指して駆けていく。

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