天国か地獄


 08

 阿賀松は暫くして現れた。
 数人の教師に囲まれ、ピンク頭の喧しい護衛を引き連れ、特に狼狽えるわけでも怒りを露にするわけでもなく平然とした様子で。

「またあんたか!バカ芳川!伊織さんを呼び出してなんの用なんだよ!」

 連れてくる途中に暴れだしたのだろう。教師たちに捕獲されている安久は今にも噛み付きそうな勢いで芳川会長に食いかかった。
 そんな安久を止めるわけでもなく、阿賀松は芳川会長の正面に立つ。

「よぉ、わざわざデートのお誘いなんてやってくれんじゃねえの?」
「御託はいい。さっさと座れ」

 余裕のある阿賀松とは対照的に、芳川会長の態度は冷ややかなものだった。その分、隙もない。

「随分と貧相な椅子用意してくれたな」

 指導室の中央。ローテーブルとセットで並べられたパイプ椅子に目をくれた阿賀松は不服を露にしながらも渋々チャチなそれに腰を下ろした。
 革製のソファーに座る阿賀松ばかりを見ていたせいだろう。安物の椅子に座る阿賀松というのは酷く、不思議な光景だった。

「で、なんの用だ?つまんねーことだったらその眼鏡、叩き割ってやるよ」
「貴様に退学処分を申し付ける」
「あ?」
「罪状は下級生への暴行恐喝に校内設置物の器物破損、その他諸々。この学園の校風に相応しくない生徒はすみやかに立ち去ってもらわなければならない。仮にも理事長の孫である貴様ならそれくらい承知だろう」

 どうやら阿賀松はここに連れてこられた理由も聞かされていなかったようだ。浮かべた笑顔は歪む。

「待て、なんつった?今」
「阿賀松伊織。貴様は退学だ」

「バカでも退学の意味くらいはわかるだろ?」無表情のまま、芳川会長は優しく問い掛ける。
 しかし、阿賀松は退学という言葉ではなく、もっと別のとこに反応しているようだった。

「……俺がこの学園に相応しくないだって?」

 低く、地を這うような冷えた声音に背筋が凍り付く。
 やばい、これはやばい。芳川会長に言われ、教師たちの横に並ぶようにして壁際のパイプ椅子に座って中央での芳川会長たちのやり取りにまるで自分もその中にいるような錯覚を覚えた。
 実際、渦中にいるのには間違いないのだろうが。

「おいっ、そこの陰険メガネ!言ってる意味がわからないぞ!伊織さんがいつそんなことを……」
「証拠ならある」

 びしっと指を指し、指摘する安久に対し、待ってましたとでも言うかのように予め用意していた監視カメラのDVDをテーブルの上に叩き付けるように置き、そして。

「四月の齋藤君への暴行に今回の栫井のケガ。他にも意見箱に阿賀松の被害報告が複数寄せられているようだな」

 どこから取り出したのか、大きな茶封筒を阿賀松たちの目の前で傾ける。瞬間、バサバサバサっと音を立て、テーブルの上に大量の紙切れが舞った。

「っなに、これ」

 青褪める安久。
 ひらひらと舞う一枚のそれを手に取った阿賀松はそれを一瞥し、微笑む。そして、ぐしゃりと紙切れを握り潰した。

「よくもまぁ、こんな無駄に手の込んだ真似をしやがって」

 俺は青筋を浮かべながら笑う人間を初めて見た。
 不穏な空気。あくまで笑顔は崩さない阿賀松に対し、会長は頬を緩ませ教師達を振り返る。
 そして、肩をすくめた。

「前に『もう問題を起こさない』と教師たちと約束したようだったがな、どうやらこいつには反省の余地がないようです」

「それとも、自覚がないのだろうか。自分から諸悪の根源だという」次ぎから次へと畳み掛けるような罵詈に、阿賀松を尊敬し、慕っている安久は耐えられなくなったようだ。

「あんた、黙って聞いてりゃ……っ」

 ガタリと音を立て、勢い良く立ち上がると同時に座っていたパイプ椅子を掴む安久。
 殴りかかろうとした矢先、中央のテーブルを囲んでいた教師たちが慌てて安久を止める。
 羽交い締められ、パイプ椅子を取り上げられる安久に会長は笑った。

「御手洗、お前も処分を受けたいのか?」
「っ、てめぇ」

 ぎゅ、と拳を握りしめた安久が教師の腕を思いっきり振り払った時だった。

「安久」

 椅子に座ったままの状態で、阿賀松は後輩を呼んだ。
 ようやく口を開いた阿賀松に、安久は縋るように声を上げる。

「伊織さんっ、こいつ伊織さんのことハメる気ですよ!伊織さんはなんもしてない!そこのやつを殴ったのだって、伊織さんじゃないから!全部、僕がっ」
「安久」

 もう一度、阿賀松は安久を呼んだ。
 駄々を捏ねる子供を宥めるような、柔らかい声だった。

「お前は黙ってろ」

 そして、もう一度。黙り込む安久に、阿賀松は諭す。
 阿賀松に言われたら何も言えないのだろう。なんで、というかのように唇をきつく噛み締める安久は心底不服そうに見えた。
 大人しくなった安久から目線を外した阿賀松は正面の会長を捉える。そして、目を細めた。

「お前がなにを企んでるかはよぉーくわかった。俺を退学させたいなら好きにすりゃいい」

「出来るもんならな」相変わらず、軽薄でどことなく冷めた声。
 だけど、その声は何か別の意思を孕んでいるようで。

「よく吠える口だな」
「お前を潰したがってんのが俺だけだと思うなよ」

 そう言うなり、パイプ椅子から腰を上げる阿賀松はそのまま指導室の出口へと歩き出す。
 やつを見張っていた教師たちが、当たり前のように出ていこうとする阿賀松に戸惑った。

「おい、阿賀松……っ」
「どうしたんですか、先生。処分決定までの猶予は三日あるはずですよ。それまで、俺の好きにしたっていいでしょう?」

 その言葉に、他の教師たちは口を噤んだ。ということは、まだ本決定したわけではないということなのか。
 確かに、今回は唐突に会長が言い出したことなのだからある程度混乱はするだろうが、こんなに証拠が揃ってるんだ。
 猶予なんて必要ないはずだ。崩れない阿賀松の余裕に不安が込み上げてくる。
 てっきり即退学と思っていただけに、まだ阿賀松がいるという事実に、俺は足元から地面が崩れ落ちていくような、そんな気分だった。

 出口側。
 阿賀松が目の前をよぎった時、一瞬だけ目があった。そして、蒼白の俺を見た阿賀松は笑う。

「針千本飲む覚悟はできてんだろうな」

 確かにそう、阿賀松の唇は動いた。心臓が跳ね上がり、目の前が真っ暗になる。
 触れられてもないのに、その押し潰されるようなプレッシャーに首が締められたような錯覚に陥った。

「あっ、伊織さん!待ってください!」

 何事もなかったかのように指導室を後にする阿賀松と、その後を追いかけていく安久。
 二人がいなくなったのにも関わらず、指導室内には不穏なもので満ち溢れていた。
 阿賀松と安久が部屋を出てからも、暫く俺は動けなかった。去り際の阿賀松の言葉が脳内で反響する。改めてその言葉の意味を認識した時、全身から血の気が引いた。

「大丈夫か、齋藤君」

 そんな時、不意に掛けられた声に更に心臓が跳ね上がる。

「……会長」
「酷い顔色だな。……すまない、無理をさせてしまった」
「いえ、俺は、大丈夫です」

 そう答える自分の声は動揺で震えていて、何だかおかしかった。
 聡い会長は俺の心境を汲み取ったのだろう。心配そうな顔をしてこちらをじっと見つめ、そして微笑んだ。

「君はもう戻って大丈夫だ。あとは、先生たちに任せておこう」

「教室まで送るぞ」そう気を遣ってくる会長。
 芳川会長のあの一面を見てしまった今、こうして会長に気を使わせる自分が何者かがわからなくなって、俺は恐縮する。

「ありがとうございます。……でも、今はちょっと一人になりたいので、すみません」
「なら仕方がないな。また、なにかあいつが言い寄ってくるようなことがあればすぐに知らせてくれ」

 珍しく、芳川会長の引きが早い。
 しかし、俺にとっては好都合だった。わかりました、と頷き返した俺は他の教師たちに頭を下げ、指導室をあとにした。
 一人は心細いが、芳川会長と一緒にいるのも不安だった。
 さっき会長に言ったのも事実だ。今はただ、頭を整理したい。
 自分の選択肢が正しいのかどうかを。
 正直、まさか栫井の怪我まで阿賀松のせいにするとは思ってもいなかった。
 確かに阿賀松は素行がいいとは言えないような人間かもしれないが、濡れ衣を着せようとする芳川会長には薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
 指導室をでても、息の詰まるような圧迫感は消えなかった。
 ふと、扉の近くにある人影に気付き、顔を上げる。そこには灘が立っていた。

「ご苦労さまでした」

 目が合うなりそう告げてくる灘につられて、軽く会釈する。
 神出鬼没な彼にはそろそろ慣れてきた。……と、思っていたが、やはりタイミングがタイミングなだけに心臓がうるさくなる。

「ずっと……ここにいたの?」
「はい。栫井君の傷が気になったので」

 栫井か、あいつも芳川会長の濡れ衣のために証言したのだろうか。
 指導室に一緒にいたものの、一度も目を合わせずじまいだった。
 聞きたいことも色々あったが、やはり会長の手前、下手なことは出来なかった。
 元気そうには見えなかったが、大丈夫なのだろうか。
 なんて、思案した時だった。指導室の扉が開く。栫井だ。

「……」

 こちらを見ようともせず、すたすたと廊下を歩いていく栫井。
 声を掛けるタイミングを失い、迷っていると「では、失礼します」と灘は栫井の後を追いかけ、歩き出した。

「あ……」

 別れを口にする暇もなかった。
 あっという間にその場をあとにした二人に、一人取り残された俺は何とも言えないもの寂しさを覚えた。
 会長にはああいっていたが、やはり、一人はこわかった。
 灘たちのことも気になったが、わざわざ追いかけるのも可笑しく感じて、渋々俺はその場を移動することにする。
 阿賀松も壱畝も来ないような場所と云われたら、あそこぐらいだろうか。そんなことを、考えながら。

 ◆ ◆ ◆

 人気のない特別教室棟。
 その上階に佇む学園附属の図書館へと俺はやってきた。
 授業中ということもあってか、使用者は見当たらない。ホッと安心し、図書館へ足を踏み入れたときだった。奥の本棚から、ひょっこりと人影が覗いた。

「や、齋藤君。奇遇だね」

 聞き覚えのある毒のない声。
 艶のある藍髪を流したその生徒……もとい縁方人はニコニコと笑いながらこちらへと歩いてくる。自然と、全身に力が入った。

「先輩」
「齋藤君もサボり?いいよね、ここ。いっつも司書いないからさ、静かでいい」

 一人、納得するようにうんうんと頷く縁だったがすぐに人良さそうな笑みを浮かべる。

「こっちおいでよ、サボりなんでしょ?」

 あまりにも、いつもと変わらない態度。もしかしたら、俺が阿賀松を売ったということをまだ知らないのだろうか。
 どちらかと言えば阿賀松と近い人物とは一緒にいるのは避けたかった。しかし、縁はそんな俺の気を知ってるのかしらないのか手を取り、強引に誘ってくる。

「いや、あの、俺は」
「でも、ちょーどよかった。伊織も仁科も連絡つかないしさ、もー暇で暇で」

 結局近くのテーブルまで引っ張られ、無理やり椅子に座らされたとき。
 縁の口から出た阿賀松の名前に全身からどっと嫌な汗が滲んだ。
 敢えて阿賀松の名前を出して俺の反応を見ているのかもしれない。そんな可能性を考えてみたが、やはりあまり続けたい話題ではなくて。
 咄嗟に俺は縁の手元に目を向けた。抱かれた厚めの本は古典のようだ。

「あの、本とか読むんですか?」
「あ、意外?俺、アイツらと違って勉強好きっ子だからさー。結構読むよ、暇なときはね」

 得意気に話す縁は頬を綻ばせる。
 アイツらという言葉に阿賀松の顔が浮かび、ギクリとした。

「齋藤君は、勉強嫌いそうだね」
「苦手、かもしれません」
「だよね。っぽいもん。ほら」

 不意に、縁の白い手が伸びて俺の手を掴んだ。逃げる暇すらなかった。

「何も持たない手」

 その指先が、掌を合わせるように指に絡み付いてくる。
 すり、と皮膚をくすぐられ、全身が緊張した。

「っ」
「そんは緊張しなくてもいいよ。別に取って食ったりしないから」

「どうせ食べるなら、美味しいものを最高の状態で食べたいし」と笑う縁は言いながら俺から手を離す。
 明らかに他意を含んだその物言いに、釣られるようにして俺は縁の目をのぞき込んだ。

「……」
「浮かない顔、どうしたの?」
「俺、そんな顔」
「してるよ」

 言い切る縁に、また、心臓がざわつく。
 今度は顔へ伸びてきた指先が頬に触れる。感触を確かめるように優しく撫でられ、目のやり場に困った。逃げられたはずなのに、俺の体は動かなかった。

「相談くらいなら乗るよ。俺のこと疑ってんなら安心していいよ。別に、誰かにチクろうとかしないから」
「……っ」

 見透かされていた。隠していたつもりなのに、よほど俺がわかりやすいのか、或いは。

「齋藤君?」

 一見阿賀松側に見えるが、なんだかんだ縁は阿賀松たちに加担していない。
 確かに多少特殊な性癖は持っているが、それでも、触れてくる優しい手を信じたかった。
 愚かだろうか。疑うことに疲れて、自分から信じようとする。今はただ、相手が誰だろうと差し出される好意を素直に受け入れたかった。縋りたかった。いつもの自分なら、愚かだと呆れた顔をするかもしれない。
 不安は、人を積極的にする。血迷いだろうと、今の俺は縋る場所が必要だった。

「先輩は」

 喉奥から絞り出す声は思ったよりも強い語気になってしまう。
 それでも構わず、俺は続けた。

「……先輩は、阿賀松先輩とどういう関係ですか」
「いきなり直球だねぇ」

 少しだけ間をあけて、縁は困ったように笑った。

「そうだなー、それって体とかそういうのも含めて?」
「……」

 ヘラヘラと、あくまでいつもと変わらない調子で茶化してくる縁に無言で返せば、バツが悪そうに咳払いをする。そして、「前も言わなかったっけ」と再度口を開いた。

「あいつはただの腐れ縁だよ。だからといって味方でもなければ、あいつの敵でもない」

 初めて見る、真面目な顔をした縁。それも束の間。言い終わるなり「ねえ、これでいい?」と、確認してくる縁は先程までの調子に戻っていて。
 しかし、聞いた言葉はたしかに嘘はなく。
 この人なら、信用できるかもしれない。そう直感した。そして、俺は忘れていた。自分の直感ほど当てにならないものはないということを。

「……すみません、変なこと聞いてしまって」
「いいよいいよ、気にしなくても。伊織のことで悩んでるの?」

 俺の質問から内容を察したらしい。
「よかったら教えてくれないかな」絶対に、他言しないから。そう、唇だけを動かし小声で念を押してくる。
 疑いたくない。人を信じたい。誰でもいいから。騙されてもいいから、信じたい。今はただ、無償で与えられる優しさに甘えたかった。
 無償のものなんてないとわかっていても。

「……実は」

 だから、俺は、縁方人に助けを求めた。

 home 
bookmark
←back