天国か地獄


 07

 翌日。
 制服に着替えた俺はビクビクしながら教室へと向かった。
 その隣には眠たそうな顔をした阿佐美がむにゃむにゃ言いながらついてきている。
 それだけでも心が安らいだが、教室にいるであろうやつらのことを考えたらどうやっても憂鬱な気分は払拭できなかった。しかし、行かなかったら行かなかったであとからねちねち来られるのも嫌だ。
 というわけで俺は教室に入ろうとしたのだが、教室の中から聞こえてきた声に扉に伸ばした指先は固まる。

『へー、意外だな。君って得意そうな顔してるんだけど』
『それってどんな顔だよ。誰だって嫌いな人多いと思うけどな。志摩君だって、嫌だろ』
『まあ、そうだね。気持ち悪いし。鳥肌が立つ』

 扉越し。朝の教室から聞こえてきた聞きなれた二つの声に阿佐美も気づいたようだ。
 控えめにこちらにアイコンタクトを送ってくる阿佐美は小さく頷き、俺の前に立つなり扉を開く。
 すでに数人の生徒がいる教室の中。
 俺の席がある後列には壱畝遥香と志摩亮太が楽しげに談笑していた。
 そして、阿佐美の背後で固まる俺の視線に気づいたようだ。
 二人の視線が俺に向けられたと思えば、席に座っていた志摩は「ちょっとトイレ」と壱畝に告げ、そのまま立ち上がるなりこちらへ歩いてくる。一歩、また一歩とこちらへ向かってくる志摩に動けずにいると、目の前まで志摩がやってきた。

「…っ」

 真っ正面。お互い見詰め合うような形になってしまい、言葉を喉に詰まらせていたときだ。
 志摩がにこりと微笑んだ。

「邪魔なんだけど、退いてくれないかな」

 変わらない笑顔。柔らかい声。その裏側から覗くどす黒いそれを隠すわけでもなく話しかけてくる志摩に、驚いたことに俺は怒りを覚えていた。
 ショックもあった。あったが、それ以上にこんな子供みたいな拗ね方をする志摩に呆れ、そしてわざわざ壱畝と仲良く接するやつになにも言えなくなる。
 そんなに俺の気が引きたいのか。そう口に出しそうになるのをぐっと堪え、俺は道を開けた。
 そのまま脇を通り抜けていく志摩の後ろ姿を一瞥した俺は肺に溜まった息を吐き出すようにため息をついた。しかし、からだの緊張はほぐせなかった。
 先ほどのあからさまな志摩の態度に気がついたのは俺だけではなかった。
『なんなんだ、あいつは』人でも言いたげな阿佐美に目配せをした俺は自分の席へと向かう。
 後ろからついてくる阿佐美。もしこの場に阿佐美がいなければきっと俺は逃げ出していたに違いない。
 左隣の席。まだ登校してきたばかりのようだ。壱畝遥香は俺と目が合うなり僅かに唇の両端を持ち上げ、不気味な笑みを浮かべた。

「おはよ、ゆう君。珍しいね、こんな早くに来るなんて」
「……」
「ちょうどよかった。なんかさ、俺の教科書まだ届いてなくて。よかったら貸してくんない?お陰で昨日の課題、全然終わんなくてさ」

「昨日借りようかと思ったんだけどゆう君、いなかったから」な何気無く付け足す壱畝の言葉に俺は昨日壱畝に唇を塞がれたことを思い出す。
 指先が震え、背筋に悪寒が走る。いくら探しても言葉がでなかった。

「ゆう君、」

 さっきよりも強い口調で名前を呼ばれれば、緊張した体がビクリと跳ねた。
 慌てて教科書を引っ張り出そうと机のなかに手突っ込んだとき、うぞりと指先になにかが触れる。
 チクチクと小さな針のような感触には覚えがあった。
 伸ばした指先にゆっくり這い上がってくる机の中のそれは一匹だけではなく、目を見開き薄暗い机の中の目を向けた俺は咄嗟に手を引き抜く。慌てて手を振り払えば、ぼとりと床の上にそれは落ちた。
 青ざめ、下を見ようとせずに席から立ち上がろうとすれば、咄嗟に腕を掴まれた。楽しそうに笑う壱畝はさっさとしろ、とでも言うかのような鋭い視線に硬直したときだった。

「教科書なら、俺の貸すよ」

 と、同時に壱畝遥香の机の上にバサバサバサと大量の教科書と参考書が山積みになる。
 呆れたように目を丸くする壱畝遥香に、鞄を手にした阿佐美は笑う。

「帰国子女ならこれくらい読めるよね?」

 山積みになった書籍に日本語は見当たらず、最早どこの国の言葉かわからないような文字が並んだそれらに壱畝は引きつったような笑みを浮かべた。

「流石に、俺はそんなに色んな国回ってないよ」

 一冊一冊違う国の言葉で綴られた教科書をパラリと捲った壱畝は「ありがとう」と苦笑する。
 床の上では次々と机の中から溢れてきた毛虫がぞろぞろと這いずっていた。


「ゆうき君は毛虫嫌い?」

 教室の窓際。最後の一匹を木の枝に登らせた阿佐美はそう俺を振り返る。
 壱畝遥香は大人しくどっかの国の教科書を読んでいて、志摩は便所にいったまま帰ってこない。
 俺は突然の問いかけにどう答えればいいのか解らず、「え」と口ごもった。

「嫌いじゃないけど、好きでもないな」
「じゃあ、成虫は?蝶とか」
「普通、かな」

 この質問にはなんの意図があるのだろうか。俺の言葉に満足するわけでもなく阿佐美はなんとなく寂しそうな顔をして笑う。

「ゆうき君らしいね」
「あの、だめだった?」
「いや、特に深い意味はないから気にしないでいいよ」

「なんとなく毛虫だけこういうのに使われるのは可哀想だと思って」中身は同じなのに、と阿佐美は木の枝の先を眺めたまま呟く。
 その独り言にどう反応していいかわからなくて、それと同時になにかが胸に突っかかった。中身は同じ。その一言が脳内で反響する。

「……詩織」

 今のは、どういう意味だ。そう尋ねようとしたときだった。
 再度、教室の扉が勢いよく開く。

「佑樹」

 不意に教室に大きな声が響き渡った。名前を呼ばれ、咄嗟に扉に目を向ければそこには担任がいた。
 いつもと違う、真面目で、困惑が混じった顔。

「ちょっと、来てくれ。話がある」

 ああ、もしかしなくてもこれは、あのことだろう。芳川会長が行動を始めたということだろう。もう少し、待ってくれてもいいだろうに。
 結構、せっかちな人かのかもしれない。

 教科書とにらめっこしていた壱畝の目がこちらを向いた。それを無視し、俺は「わかりました」と立ち上がる。
 阿佐美に目配せをする。「一人で大丈夫だよ」と。
 そうだ。こんな面倒な役を引き受けるのは俺一人だけでいい。
 担任に連れてこられたのは、生徒指導室と書かれたプレートがぶら下がった無機質な部屋だった。
 そこにはすでに数人の教師と見覚えのある顔が並んでいた。そして、気難しい顔をした芳川会長の隣に座るその生徒を見た俺は絶句する。

「……っ、栫井」

 夏服の制服に着替え、腕に包帯を巻いた栫井はこちらを見ようともしなかった。
 なにを考えているのかわからない無表情。
 てっきりこれは俺と芳川会長と阿賀松の問題だと思っていただけに、栫井がこの指導室に呼ばれていることに驚いた。

「すまない、齊籐君。わざわざ来てもらって」

 君には聞きたいことがあるんだ、と学年主任そっちのけでしきり出す芳川会長は申し訳なさそうに俺に近づいてくる。もう、演技は始まっているらしい。

「聞きたいこと、ですか」
「四月のことだ」

「君は、阿賀松伊織に暴行を受けたようだな」周りの教師たちの目付きが変わり、心臓が爆発しそうになった。まさかこんなに外野が多いとは思わなくて、あまりの緊張に汗が出た。

「っ、え、あの」
「思い出したくない記憶だと言うのはわかっている。ゆっくりでいい、ゆっくり、君の覚えていることだけを話してくれ」

 近付いてくる芳川会長に正面から肩を掴まれ、優しく宥めるような手つきで背中を撫でられればさらに緊張して。
 人前で普通にスキンシップをしてくる芳川会長に今度こそ頭が真っ白になりそうになったが、こちらを見ている栫井に気付く。
 そうだ、俺は栫井の代わりに芳川会長と交渉したんだ。
 そのことを再確認した俺は芳川会長の腕を掴み、やんわりと離しながら「はい」と頷いた。

「あの、でも、あやふやなので自信はないですけど」
「それでいい」

「君は、君が言えることだけを口にしてくれればいい」あとは俺がなんとかしてやる。
 そう、教師たちに背を向けた芳川会長の唇は確かに動いた。
 本当に大丈夫なのだろうかと未だに半信半疑だったが、ここまできて引き返すことはできなかった。
 予め芳川会長に言われていたように俺は発言する。阿賀松に殴られたのは間違いないと。
 教師たちには予め芳川会長に監視カメラの映像を見せられていたらしく、まり詳しく話さなくてもよかったのは助かった。ただ、自分が言葉を口にすればするほど教師たちの顔は強張っていくのは怖かった。
 一頻り話し終え、「もう、いいですか?」と恐る恐る顔をあげれば相変わらず難しい顔をした芳川会長は「ああ、ご苦労」と応える。
 まるで一仕事終えた人間にかけるような義務的なその言葉がおかしくて、俺はなんとも言えない気分になる。

「なんでそのことをはやく知らせなかったんだ。監視カメラを管理していたのだろう、お前は」

 不意に、一人の教師が芳川会長にいぶかしむような視線を向ける。
 学年主任だ。

「ええ、そうです。何度も何度も齊籐君には話をするよう声をかけたのですが、彼は彼なりに考えがありますからね。いくら俺が先生たちにいったところでなにがあったかまではわかりませんから齊籐君の口から事情を話してくれるときを待っていたのですがようやく今日、こうして齊籐君が自ら話してくれました」

「阿賀松に痛め付けられた友達を守るため、頑張ってくれたんです」そう、反論を与える隙もなく芳川会長はつらつらと言葉を並べた。
 会長がなんのことをいっているのかわからなくて、一瞬思考が停止する。

「これでわかったでしょう。このまま阿賀松伊織を野放しにしておくのは構内の秩序の乱れに繋がります」

 狭くはない殺風景な室内。ホワイトボードの前に立つ芳川会長は指導室内にいる教師を見渡した。

「俺の後輩が二人も被害にあっているのに見過ごせません」
「芳川、一先ず落ち着け」
「俺は落ち着いてますよ、先生。ただ、笑顔で見守るつもりもない」

 笑顔は一切浮かべず、冷めた目をした芳川会長は戸惑いの色を隠せない教師たちに鋭い視線を向けた。

「阿賀松伊織をここに呼んでください。抵抗しても構いません」

「なんせ、彼にはこの学園の生徒である資格はないのですから」我慢できず、薄く笑う芳川会長のその一言にはいつもの優しい綺麗事よりも遥かに生々しく、恐らくそれが芳川会長の本音なのだとわかった。
 その目が笑っていないことが確かな証拠なのだろう。誰も、それ以上芳川会長になにも言わなかった。

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