天国か地獄


 06

 指先に力が入り、無意識に全身の筋肉が強張った。乱れる呼吸を抑え、ゆっくりと振り返ればそこには。

「し、ま」
「はは、なにその顔。すごいビビってるじゃん」

 くすくすと笑う志摩はぽんと俺の肩を掴み、そのままぐっと顔を近付けてきた。

「誰だと思った?」

 意地の悪い微笑みに言葉が詰まり、目を見開いたまま俺はなにも言えなくなる。

「会長、わざわざご苦労様ですね。すみませんけど、こいつ、ちょっと借りるんで」
「別にわざわざ俺の了承を得る必要はない」
「いえ、一応彼氏さんなのでこういうことは言っといた方がいいでしょう」

「自分の恋人がどこで誰になにされてるかわからないと不安になるでしょうし」そう硬直する俺の肩を抱き、笑顔のまま続ける志摩に僅かに芳川会長の目が細くなる。
 新しい部屋の前に現れた志摩に見事思考を掻き乱され混乱する俺だがただこの状況が芳しくないのだけは痛いほどわかって。

「君が余計な心配をする必要はない。俺はそこまで彼を束縛するつもりはないからな」

 薄く笑みを浮かべ、会長は俺の恋人としての言葉を口にする。
 先程までのやり取りのせいか会長の口から吐き出されるそれは酷く薄っぺらく、体温すら感じさせない冷めたもので。
 束縛どころか、監視の目も行き渡っていないくせに。と志摩が耳元で小さく吐き捨てる。
 聞こえてるのか聞こえてないのか、俺を見た会長は「じゃあ、また明日」とだけ残し、そのままその場を去った。

「相変わらずムカつくやつ」

 舌打ちをする志摩は言いながら俺から手を離す。
 どうやらその言葉は会長に向けられたもののようだ。わかってても、やっぱり反応してしまう。

「あの、志摩……」

 恐怖にも似た不安に震えながらそう恐る恐る振り返れば、こちらを見下ろす志摩は「し」と人差し指を自分の唇に宛がった。

「立ち話もなんだし、取り敢えず上がらせてよ」

「鍵、あるんでしょ?」そう柔らかく穏やかな口調で続ける志摩の顔に笑みはなかった。
 鍵を使わなくても、自室の扉は開いていた。志摩に言われるがまま扉を開けば、そこにはルームメイトの姿があった。

「……ゆうき君、お帰りなさい」

 そう俺を出迎えてくれた阿佐美の表情はどこか曇っていた。
 それは長い前髪のせいだけではないのだろう。
 一緒に入ってきた志摩に対しなにも言わない辺りからして、なんとなく予感はした。

「ただいま。……昨日は、ごめんね。勝手にいなくなっちゃって」
「そうじゃないでしょ、齋籐」

 肩に置かれた志摩の指先に力がこもり、びくりと震えた俺は横に立つ志摩を見上げた。
 至近距離で視線がぶつかりあう。

「他にももっと俺たちに言うことがあるんじゃない?」

 薄い笑みを浮かべ、志摩は問い掛けてくる。
 心当たりはあった。志摩の忠告に構わず阿佐美に泣き付いたこと、阿佐美に対して志摩のことは心配しなくてもいいなんて法螺吹いたことを言っているのだろう、二人は。
 どうせ、すぐにバレるだろうとは思っていた。思っていたが、こうして志摩と阿佐美が並ぶとは思ってもいなくて。
 目を泳がせ、言葉に詰まる俺を思ったのか「取り敢えず、座ったら」と阿佐美が声を掛けてくる。
 それでも背後の志摩の存在のせいか足がすくんでしまい、志摩が「座りなよ」と促してくるまで俺はその場から動けずにいた。
 自分の取った行動は全て返ってくる、というのは本当のようだ。

 自室内。
 見ないうちにまた散らかり始めていたリビングの中、俺は並んで座る阿佐美と志摩の向かい側で縮こまっていた。二人の顔が見れなくて、自然と項垂れるような形になってしまう。

「取り敢えず、まあ、賢い齋籐なら大体わかってるだろうけど」

「なんでわざわざ俺が齋籐に会いに来たのか」とやけに回りくどい口振りで勿体つける志摩の笑みは冷ややかなもので。
 その隣、志摩と距離を空けてソファーに座る阿佐美は不安そうな顔をして俺を見ている。

「ねえ、なんでだと思う?」

 阿佐美を見ていたのが気に入らなかったらしく、机の上に載せていた手を掴まれ無理矢理正面を向かされた。目があって、志摩は薄く笑う。

「俺が、志摩の言うこと聞かなかったから……だよね」
「うん、そうだよ。大正解。流石齋籐」

 恐る恐る告げる俺に志摩はわざとらしく手を叩いて見せた。
 重苦しい空気の中、軽々しい志摩の動作は酷く浮いている。

「俺は齋籐のことを思って必死になって齋籐にとって最善の方法を考えて行動していたのに齋籐ったら保身のためだけに俺の作戦を全て潰しちゃうんだもん、酷いよね。齋籐の部屋行ったら裳抜けの殻だしまあ大体想像ついたから阿佐美の部屋張ってたら案の定だし、ムカついたから壱畝にこの部屋のこと言っちゃった」

 あくまで笑顔のまま饒舌に続ける志摩の口から語られるその事実の数々に全身から血の気が引いていく。
 数時間前、壱畝がこの部屋に現れたことを思い出す。
 なぜだとは思ったけど、志摩がそんなことするとは思わなくて。ショックが顔に出ていたのだろう。志摩は笑みを消した。

「まあ、このまま知らんぷりしようと思ったんだけど齋籐だけが暢気に過ごしていくと思ったら癪だったから今日は阿佐美とお話したんだよね、色々」
「……色々って」
「色々だよ、色々」

 はぐらかす志摩に不安になって阿佐美にアイコンタクトを送るが、阿佐美は無言で顔を逸らす。
 いまはなにも言いたくないということだろうか。あからさまな拒否反応に全身から血の気が引いた。

「うん、取り敢えずこれくらいかな」

 一頻り話を終え、志摩は立ち上がった。つられて顔を上げれば冷めた目をした志摩と目があう。

「今度こそ齋籐の力になろうと思ったけど、無理そうだわ。ごめんね?」

「俺、齋籐みたいにお人好しじゃないからさ、何度も何度も騙されたらクるんだよね」そう、一瞬だけ志摩の顔に引きつったような苦笑が浮かぶ。
 いつもと変わらない皮肉混じりの軽薄な言葉。それなのに、どんな暴言よりも深く胸に突き刺さった。

「っ、志摩」

 背を向け、そのまま玄関へと向かう志摩の背後に声をかける。しかし、志摩は振り返ろうとせず。
 つい、焦った俺は慌てて志摩を追い掛けようと立ち上がって、そこで「ゆうき君」と名前を呼ばれた。
 座ったまま、こちらを見上げる阿佐美は小さく首を横に振った。構わない方がいい、という無言のコンタクト。
 どうしたらいいのかわからず足を止めたとき、玄関の方から扉が閉まる音が聞こえてくる。志摩が出ていったのだろう。
 結局俺は最後まで志摩を追い掛けることもやつのご機嫌取りをすることもできなかった。志摩が立ち去ったいま、この選択肢が正しいかどうかはわからない。

「あんまり気にしなくていいから」

 志摩が立ち去った後の室内。控えめに阿佐美は声をかけてくる。

「事情は聞いたよ。……ごめんね、俺、そういうの疎いから全然気づかなかった」

 苦虫を噛み締めるように顔を歪める阿佐美。志摩からなにを聞いたのかわからなかったが、わざわざぼかすような言い方をする辺りアザミなりに気を遣ってくれてるのかもしれない。
 心が痛み、息苦しくなる。

「こっちの方こそ、ごめん。ほんとは、志摩に了承なんて……」
「いいよ、無理して言わなくても」

 全部、知ってるから。そう、阿佐美が言ったような気がした。

「とりあえず、ゆっくり休んできなよ。…色々あって疲れただろうし」

 余程疲れた顔をしてるのだろうか、俺は。
 ぎこちなく笑いかけてくる阿佐美にこれ以上気を遣わせるのも申し訳なくて、「じゃあ、シャワー借りるね」と俺はリビングを後にした。
 阿佐美が普段通りに言葉を交わしてくれるのが酷く身に染みた。
 それは恐らく先程の志摩の冷めた態度があったから余計そう感じてしまうのだろう。
 無理に踏み込んでこないその距離感が心地よく感じると同時に、芳川会長との約束を思い出せば気分は憂鬱になる。

 阿賀松伊織を退学処分にする。
 あの暴君を具現化したような阿賀松から解放されるのはかなり嬉しい。
 嬉しいが、阿賀松と阿佐美はいくら似てなくても兄弟だということを思い出すとこれから阿佐美にどういう顔をしたらいいのかわからなくなる。

 シャワーだけ浴びて、全身の汗を流した俺は予め用意していた部屋着に着替えた。
 脱いだ制服を洗濯機に突っ込もうとして、不意にこの制服を用意してくれた灘のことを思い出した。
 そういえば、どうやって取りに来たのだろうか。阿佐美が対応したのだろうか。
 脱衣室を後にし、リビングに戻ろうとしたとき。ふとリビングの方からいい香りがした。
 そのまま扉を開けば、まず目に入ったのはテーブルに並べられた料理の数々だった。

「あ、ゆうき君」
「どうしたの、これ」
「ゆうき君がお腹減ってるだろうと思って、頼んじゃった」

 恥ずかしそうにして笑う阿佐美。
 この量、どう考えても二人分どころの量ではないが、もしかしなくても阿佐美の方がお腹減っているのかもしれない。見てるだけで空腹が一気に満たされたが、確かにまあなにか腹にいれたいところだった。

「ありがとう。じゃあ、食べようか」

 そう阿佐美に笑い返せば、嬉しそうに破顔した阿佐美は慌てて飲み物の用意をする。
 そんな阿佐美を目で追いながらも、俺の脳裏には会長の顔が浮かんで離れなかった。
 栫井は、大丈夫だろうか。考えたところでどうしようもないとはわかっていたが、考えずにはいられなかった。
 自分になにかできることはないのだろうか。阿賀松に絡まれようとるべく平穏に生きていこうと努めていた俺にとって芳川会長の策は一斉一代の大ギャンブルのようにしか思えなかった。
 相手はあの阿賀松だ。普通の生徒なら芳川会長の言う通りにしたらどうにかなっただろうが、今回は正直勝つことができるのかただただ不安だった。
 本当はやりたくない。阿賀松に逆らってまで平穏に固執したくない。
 しかし、自分の背後にはどこに刃物を持っているかもわからない芳川会長がいる。どちらに味方したところで、自分には不利なのだ。
 食事を済ませ、結局阿佐美に相談することも出来ず後片付けをした。
 もし、俺のせいで阿賀松が処分を受けたとしたら阿佐美はどんな顔をしてくれるだろうか。考えただけで背筋に寒気が走った。
 なんとか、芳川会長の気が変わったりなんかして考え直してくれないだろうか。そう、一晩中祈り続けたが、結局その願いは叶わなかった。

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