05
目に焼き付くような赤の色に軽い目眩を覚える。
逃げ出したくなるのをぐっと堪えた俺は、咄嗟に仮眠室内に足を踏み入れ栫井の元へ駆け寄ろうとし、灘に腕を掴まれ引き留められる。
「灘君っ」
そう『離して』だか『大変だ』だかなんだか口にしようと灘を振り返ろうとしたときだった。
「わざわざ施錠してまでくるから何事かと思えば、どういうつもりだ、灘」
「俺の指示無しに勝手に部外者を連れ込むなと言っていたはずだが」聞き慣れた、落ち着いた声。
いつもならその声を聞くだけで全身の緊張が解けていたが、今は違った。
いつもと変わらないはずなのに酷く冷めきったその声音に俺は背筋を伸ばし、恐る恐る声のする方へと目を向ける。
「芳川、会長……」
「おはよう、齋籐君。体の調子はどうだ?」
「え、あの……俺は大丈夫です、けど」
当たり前のように、いつものように涼しい顔をして佇む芳川会長に問い掛けられ、言い淀む俺は栫井に目を向ける。
こいつは大丈夫じゃない。そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
芳川会長の手には金属製のバットが握られていた。
「そうか、ならよかった。しかしまだ無理はしない方がいい。部屋でゆっくりと休んでこい」
青ざめる俺とは対照的に何事もなかったかのように続ける芳川会長はカランと音を立て軽くバットを引き摺り、一歩、栫井に近付いた。踞る栫井の肩がびくりと跳ね、しかし逃げるわけでもなくただ身を丸めるだけで。気付いたら、灘の手を振り払った俺は芳川会長と栫井の間に入っていた。
「っ、会長」
パキリ、と靴の裏で陶器の破片が折れる音がする。
「どうした、なにか用があるのか」
「会長は……なにを、してるんですか」
「なにを?そうだな、スウィングの練習だ」
「最近、体を動かしてなかったからな」と笑う芳川会長だがその目は笑っていない。
あまりにも当たり前のように答える芳川会長にぞっと寒気を覚えた。
その場凌ぎの冗談でも、本気でも、どちらにせよ会長がここで後輩に暴行しているのは確かな事実で。鉄バットで殴られたわけでもないのに俺は酷いショックを覚えた。
それと同時に、今まで芳川会長に確かに感じていた不安がしっかりとした違和感に変わるのがわかった。
「なに、言ってるんですか、会長……」
声が上擦り、震えた。目を見開き、呆れ果てた俺は目の前の会長を見据えた。
「ダメです、そんなの。なんで、栫井に、こんな」
いくら会長と栫井が揉めても、こんなやり方で始末つけるのはおかしい。
そう言いたかったのに、あまりにも平然とした芳川会長を前にした俺の方が取り乱しそうになり、言葉が上手く紡げない。
しどろもどろ言葉を探す俺は拒否するように首を横に振れば、会長は困ったように眉を下げた。
「君は優しいな。本当、優しい」
「会長……」
「優しくて甘い。そういう人間は嫌いではない」
いつもと変わらない態度。
いつもと変わらない笑み。
いつもと変わらない優しい声。
偽りでもなんでもない。だけど、だからこそ、なおさら気分が悪かった。逸そのこと全て演技だったらどれほどよかっただろうか。
「お人好しな君が言いたいことも大概想像つく。あながちそいつに手を出すなと言いたいのだろう。しかし残念ながらそれは出来ない」
「っ、なんで」
「そいつがなにをしたか君が一番よくわかっているだろう。この前の阿賀松のとこもそうだ、盗聴器についても。聞き入れのいい君には理解出来ないだろうがこいつは体に直接叩き込まなければわからない人間だ」
「しかしまあ、それでも理解出来ないようだけどな」俺を避けるように手にしたバットを軽く振り、赤く染まった栫井の腕に先端を叩き込む。
「ぁ゙ぐッ」と悲痛な声を漏らし、びくんと痙攣したみたいに肩を跳ねさせる栫井に焦った俺はバットの先端を掴み、引き離した。
「そこを退け、齋籐君」
「……いや、です」
「なら君がそいつの代わりにでもなるか」
そう何気なく出た会長の言葉に俺は顔を歪め、会長から視線を離した。
乾いた喉に固唾を飲み、再度顔を上げた俺は「わかりました」と掠れた声で呟く。
「俺が、俺がなんでもするんで、お願いだからこれ以上栫井を殴らないで下さい……っ」
唇が震え、全身の筋肉が緊張する。呆れたように顔を上げた栫井の視線が突き刺ささった。
大して覚悟もせず口に出したその場凌ぎの言葉に自分でも泣きそうになり、それでも俺は撤回しなかった。
ああ、やっぱ言わなければよかった。だけど、出任せでもいいから芳川会長を宥めたくて。
効果があったのかなかったのかはわからなかったが、俺の言葉に反応するかのように浮かべていた笑みを消した芳川会長は俺を見る。無表情。
「君は本当、単純だな。冗談に決まっているだろう、君を叩いたところでどうにもならない。それともなんだ、君はこいつに良心の呵責を望むのか」
「なかなか悪趣味だな」と冷ややかに笑う芳川会長の言葉になにも言い返せなくなる。
言い返すことはいくらでもあったのだろうが、ショックが大きかったのか頭が働かなかった。
「そういうつもりじゃ、」
ないんです。辛うじて否定を口にした俺に芳川会長は「わかっている」と頷いている。
「君のことだ。自分が身代わりになれば事が納まると考えたのだろう」
わかっている、ともう一度頷きいつも見せてくれていたあの柔らかい笑顔を浮かべる芳川会長は諦めたように息を吐き、鉄バットの先端を俺から離した。
もしかしたら殴られるのかもしれない。咄嗟に身構えるがその先端が人間に向けられることはなかった。
「栫井、よかったな。齋籐君が心が広い人間で」
カランと音を立て鉄バットは床の上を擦る。
「灘、そいつを連れていけ」
「わかりました」
そう会長の命令に対し即答する灘はそのまま俺の背後にいた栫井へと歩みより、怪我をしていない方の腕を引っ張り立たせた。
もしかしたら血が出ていないだけで他にも怪我をしているのかもしれない。
呻き声を押し殺し、よろよろと立ち上がった栫井は俺を見た。目が合う。
「栫井」
丁度そのとき、芳川会長は栫井を呼び止める。
俺に向けられていた目は一瞬泳ぎ、会長に向けられた。
「次やったらそこから下が無くなると思えよ」
静まり返った室内に響く、硝子の破片みたいに尖った鋭い声に俺の方が血の気が引いた。
青い顔をしたまま、汗を滲ませた栫井は「すみませんでした」と小さく呟き、そのまま灘に連れられる。
「あ……」
仮眠室を出ていく二人に慌ててついていこうとしたときだった。
「齋籐君」
先程と変わらない淡々とした声で呼び止められた。
慌てて足を止め、背後を振り返れば芳川会長は鉄バットを棚に立て掛ける。
「さっき君はなんでもすると言ったな」
「え、あ……はい」
「なら、少し時間をもらっていいだろうか」
「君に頼みたいことがある」そう続ける芳川会長に俺の心臓がバクバクと加速する。
不自然に凹んだ鉄バットのフォルムを一瞥し、俺は目の前の会長を見上げた。
「それとも、やはりさっきのは出任せか?」
裏表を感じさせない無感情な声に、俺は激しい後悔に襲われた。
じっとこちらを見据える目は俺を捉えて離さず、まるで蛇に睨まれた蛙みたいに硬直した俺はどうすればいいかわからず怯える。否、どうすればいいかわからないのではなくこの言葉を口にするのが恐ろしく不安だといった方が適切かもしれない。
「わかり……ました」
震える喉から絞り出す声は言葉というよりも呻きに近く、その俺の言葉を聞いた芳川会長は満足そうに微笑んだ。
着いてこいと言う芳川会長に連れ出されるように花瓶の破片が散乱した仮眠室を後にし、俺たちは校舎内を歩いていた。そして、いくつかの扉を潜り、やってきたのはセキュリティルームと書かれたプレートが下がった扉の前だった。制服の中からカードキーを取り出した芳川会長は扉を開錠する。
「会長、あの……」
「入れ」
ここってなんですか。そう不安になって尋ねようとすれば、背中を軽く押され促される。
そんな動作にさえビクッとした俺は「失礼します」と言われるがままセキュリティルームへと足を運んだ。
セキュリティルームには人がいなかった。比較的広めの室内にはあまりものは無く、壁際にパソコンが数台置いてあるだけで。
それだけなら俺もどうも思わなかった。
「……っ!!」
セキュリティルームへと足を踏み入れ、まず目についたのは壁だった。
壁一面に大小様々なディスプレイが埋め込まれており、どのディスプレイにも違う映像が流れている。
その映像は俺にとって見覚えのあるものばかりだった。
ざっと見て一年から三年までの教室に廊下、各特別教室など校内をいろんな角度から映すディスプレイに俺は校内の至るところに設置されている監視カメラを思い出す。
「ここではこの学園敷地内に設置された監視カメラの映像をリアルタイムで見ることが出来るんだ」
そう淡々とした口調で続ける芳川会長はディスプレイの前に立ち、その下段に取り付けられた大きな引き出しから数枚のディスクを取り出した。
そしてそれをこちらに差し出してくる。そのケースには『4/13』など日付のようなものがかかれていた。
「……これは?」
「見ての通り四月十三日の学生寮三階に設置された監視カメラの記録だ。この日、君はなにがあったのか覚えているか?」
まさかそんなこと聞かれるなんて思ってもなくて、俺は慌てて記憶を掘り返す。
四月上旬と言えば俺がこの学園にやってきて間もなくだ。今思えば初日からろくなことなかったな。訳もわからず阿賀松に絡まれ、安久に殴られて……。そこまで思い出して、俺はハッとする。
四月十三日、学生寮内。阿賀松の約束をすっぽかした俺は、阿賀松の部屋へ引っ張られ長い間をそこで過ごしていた。日付までは覚えていないが、確か、この日だろう。
ハッとする俺の表情からなにか感じたのだろう。芳川会長は静かに笑む。
「このディスクには君が阿賀松に部屋に連れ込まれている様子から数時間後傷だらけになって出てくる様子までハッキリと保存されている。ああ、ハッキリとな。誰が見てもなにかがあったのは一目瞭然な映像が」
静かなセキュリティルーム内。
俺の鼓動だけがやけに煩くて、ディスプレイの明かりに照らされた芳川会長の顔が怪しく歪む。
「君に頼みたいことはただ一つだ。証言をしてほしい。『阿賀松伊織に暴行された』と」
一瞬、会長がなにを言っているのかわからなかった。
「なに、難しいことではないだろう」
ディスクが入ったケースを撫で、芳川会長は低く囁く。
「ただ、先生たちの前で告げるだけでいい」
ほら、簡単だろ?
そう微笑む芳川会長の言葉に背筋が凍り付く。
芳川会長がなにをしでかそうとしているかはすぐにわかった。阿賀松伊織を陥れるつもりなのだろう。
俺を、つかって。
「なんで、そんなこと……」
「何故?愚問だな、君だってわかっているだろう。俺は、平和に暮らしたいだけだ。あいつがいたらそれは叶わない」
「それは君も同じだろう、齋籐君」表情から笑みを消し、淡々と続ける芳川会長だがその声には確かに感情がこもっていて。
俺の知る限り、阿賀松に対したら会長も被害者と呼ばれる立場だろう。
今まで阿賀松の芳川会長に対する言動行動を考えたら会長が怒るのも無理がないし、寧ろ逆に今まで会長から仕向けるような真似をしなかった方がすごいと思う。
だけど、だからこそ、このタイミングでそんなことを言い出す芳川会長に嫌な予感がしてならなかった。
「……」
「どうした、齋籐君。まさかあいつに情が伝染つったと言いさないだろうな」
「え、や、違います、違います……けど……」
歯切れが悪い俺を訝しげに思ったらしく、怖い顔をする芳川会長に俺は慌てて俯く。
その言葉に芳川会長は「ならいい」と呟いた。
「君にとっては思い出したくもないことだろうし、それを人前で自分の口で説明するのはキツいだろうが君の証言さえあれば齋籐君はもうあいつの言いなりにならずに済む」
そう相変わらず冷静に続ける芳川会長はこちらに目を向け「利害は一致しているはずだ」と微笑む。
俺と芳川会長の利害。それは平和な学園生活を送ること。
ずっとずっと夢を見ていた。楽しい学園生活に憧れて、普通の友達をつくることを目指していた。
しかし、その夢は阿賀松によって見事潰されてしまった。
だから、阿賀松がいなくなればきっと俺は再びやり直すことができるはずだ。
頭では理解出来ていた。理解出来ていたし阿賀松を庇うつもりなんて毛頭もなかったが、四月十三日のあの日、阿賀松は直接的には俺に手を出していない。
気絶させられ目を覚ましたとき、笑う阿賀松の顔が蘇る。無意識に今はない額の傷があった箇所に指が触れた。そして、阿賀松は怪我の手当てをしてくれた。
阿賀松にとっては意味のない気まぐれなのかも知れないが、実質的に危害を加えてきたわけではない阿賀松を訴えるということに確かに俺は迷いを覚えていた。俺は自分がわからなくなった。
「齋籐君」
不意に、名前を呼ばれる。
顔を上げれば真っ直ぐとこちらを見る会長がいた。
「出来ないのか」
静かにセキュリティルームに反響する声は酷く冷めて聞こえ、無意識に身がすくんだ。
レンズ越しにこちらを見据える黒い眼はどこまでも深く、吸い込まれるような錯覚を覚えた俺は咄嗟に目を逸らす。心臓が破裂しそうだ。
「齋籐君」
「大丈夫です」
名前を呼ぶ会長の声を遮るように俺は大きな声で返事をした。
バクバク鳴る鼓動を必死に押さえ付けながら、俺はゆっくりと会長を見上げる。
「……大丈夫です」
そして、自身に言い聞かせるように再度呟いた。
ほんとはなに一つ大丈夫じゃなかった。もっと考える時間がほしかったけど、下手にごねたら会長が栫井になにをしでかすかわからない。
だから俺は現時点で最善の選択肢を選んだ。
僅かな時間、沈黙が流れる。俺の目をじっと見据え、真意を探るようにこちらを見ていた芳川会長はその口許に笑みを浮かべた。
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
それはいつもと変わらない朗らかな笑顔だった。
「明日だ。明日、君は指導室に呼ばれることになるだろうが安心してくれ。先程も言ったように阿賀松に殴られたと言えばいい。そうだな、他にもあいつにされたことがあるならそれも言え。大丈夫だ、君にはなに一つ不利はない。あいつが君になにかしてくるようなことがあれば俺が君を守る。大丈夫、君はただ事実を口にするだけだ。詳しい事情は俺の方から説明しておく。君が後ろめたく思う必要はまったくない」
暴力にも似た優しい言葉を口にする芳川会長に『作戦』の流れを聞いた俺は会長とともにセキュリティルームを後にした。
大まかにまとめれば、会長が阿賀松の起こした暴力問題を公にし阿賀松を退学させるというのが会長の企みだった。
今までも何回か阿賀松を告発しようとしたようだが、やはり被害者側が口を閉じ全てあやふやにさせられてきたらしい。それも仕方がない。相手は問題児は問題児でもこの学園の経営者の愛孫だ。必然的に裏で色々なものが絡んでくるのだろう。
そして、俺はその絡んでくる全てを断ち切るための決定的な証言者の役割を担うことになっていた。
「悪かったな、疲れているところを無理させて」
学生寮三階、廊下。
学生寮まで送るという会長の善意に甘え(というか気圧され)、並んでやってきた俺と会長。そんな会長の言葉に「気にしないでください」と慌てて首を横に振った。しかし、会長の顔はやはり曇ったままで。
「……本当、君には申し訳ないと思ってるよ」
そう悲しそうに呟く会長の言葉に、俺はどう答えればいいのかわからず息を飲んだ。嫌な汗が滲む。
いつもなら罪悪感を抱いてしまうような芳川会長の表情だったが、あの花瓶の破片が散らばった仮眠室での出来事を目の当たりにした後だからだろうか。
会長がなにを企んでいるのかがわからず、不安になる。
「……会長」
「確か、君の部屋はここだったな」
足を止めた芳川会長は、そう言って俺を見た。
その言葉につられ、目の前の扉を見上げればそこには阿佐美との相部屋の扉があった。
なぜ会長が先日変わったばかりの新しい部屋を知っているのかわからなかったが、俺は考えるのを止め「ありがとうございました」と頭を下げる。
そのときだった。背後から伸びてきた手にトントンと肩を叩かれる。
誰だろうか、と背後を振り返ろうとしたときだった。
「ゆう君」
すぐ耳元で聞こえてきたその声に俺は冷や水をぶっかけられたみたいに肩を跳ねさせた。
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