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慌てて抜け出そうとしたが、僕が座っている席は個室の入り口から遠く、両側を囲まれていた。僕に話しかける清楚な彼女と、逆側には司狼が座っている。
司狼の隣には今時の華やかな美貌の女性が腰を据えていた。
透からのコールが切れてしまうのが嫌で仕方なくその場で応答した。なるべく場の妨げにならないように、小声で。
「もしもし?」
『あ、紘人さん?』
「どうした?すまないがかけ直す――」
『ん、いやー……ちゃんと食ってるかなーって思って?』
僕は呆れた。彼の方も背後からがやがやと賑わっている気配が伝わってくるのに、まさかそんなことで連絡してくるなんて。
「僕のことは気にするなと言っただろう」
『あれ、お取り込み中だった?』
「今ちょっと抜けられないんだ。他に用事がないなら、あとで家で聞く――」
そう言いかけたところで司狼に腕を掴まれた。耳から強制的にスマホが離されて、紘人さん、という透の声が遠ざかる。
ディスプレイを覗き込んだ司狼が舌打ちをする。僕はつい焦って通話終了ボタンを押してしまった。
「し、司狼?」
「……帰るぞ紘人」
司狼の異様な雰囲気を悟って場がしんとする。隣に座った彼女も、友人達も。
「木崎」
「お、おう」
「――次はねぇぞ」
また不意打ちで同じことをやらかしたら覚悟しろ、と言葉にはせずに司狼が一睨みする。木崎は青い顔で肩を落としていた。
司狼は全員分の代金らしい紙幣を木崎のスーツのポケットにねじ込み、僕は彼に腕を取られたまま居酒屋を出た。
正直に言えば助かった。ああいう場は苦手だ。人付き合いが下手な僕は見知らぬ人間がいる所に上手く溶け込めない。むしろ白けさせてしまう。
「司狼……」
無言で夜の街を進んでいく司狼に声をかけるが、僕の腕を掴んだまま離してくれる気配はない。
タクシー乗り場に到着し、まだ時間が早めだったこともあり待っているとすぐに順番が来た。
司狼に押されて一緒にタクシーに乗り込む形になる。彼は自宅住所を告げた。
「司狼、僕は帰る」
「いいからちょっと付き合え」
有無を言わせぬ強い口調。僕は嫌な予感がした。
タクシーが司狼の自宅前に着くと、また腕を掴まれて下ろされる。
玄関の前で僕は司狼の腕を振りほどいて後退すると彼の片眉が跳ね上がった。
「司狼嫌だ、帰る」
帰りたい、透のいる家に。
「……お前、最近おかしいぞ」
「おかしい?」
大きな溜息を吐く司狼のその言葉に少しショックを受けた。僕のどこがおかしいというのだろう。
「恋人でもできたか?」
「そ、そんなわけない!」
何故か透の顔が浮かんだ。それを振り払うように首を強く横に振る。
司狼が疑うような嫌な視線を投げかけてきた。
「だってお前、さっきの電話は何だ?誰かと住んでるのか?」
「ち……違う……」
完全に一緒に住んでるわけじゃないが、共にいる時間は長いので否定する言葉が弱くなる。
どう説明したらいいかわからず、かと言って今の状況を知られたくない。そう、誰にも知られたくなかった。僕と透の居心地のいい空間を誰にも邪魔されたくない。
こんなのはおかしい。司狼の言う通りだ。友情の粋を超えすぎている。
違う、違う――僕は。
「違う……」
俯いてぽつりと言うと、司狼が不意に僕を抱きしめた。温い吐息が耳元にかかってぞわりと鳥肌立つ。頭の奥でぐわんと蝉の鳴き声が聞こえた気がした。
渾身の力で司狼の肉厚の胸板を跳ね返し、僕はその場を走り去った。
そのあとはどう帰ったのか覚えていない。ただがむしゃらに走って、走って、気がついたら玄関の前だった。
透はまだ帰宅していなかった。
洗面所の鏡を見ると僕は知らないうちに泣いていて、涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「透……とお、る……」
その場にうずくまりながら透の名を呼び続けた。
けれどその日、透は帰って来なかった――。
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