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ゆっくり息を吐いたメレンヤさんは、天井を仰いでズズッと鼻をすすった。

「この世界に来たときは驚きもしたがその豊かさがありがたくてなぁ。きっと神様か仏様が、死んだわしを哀れんで、あの世に行く前に束の間の夢を見せてくれているのかと思っとった」

しかしその夢は続いている。現実として。
続けて、「戦争はどうなった?」と聞かれた。空襲の数ヵ月後に敗戦したことを告げると、メレンヤさんはなんとも複雑な表情をした。そのあと平和で豊かな国になりましたよと言えば、不思議そうな顔で「そうか」と頷いた。戦時中の記憶しかない彼には想像ができないのかもしれない。
……いや、ちょっと待てよ。終戦からすでに七十年は経ってる。だけど異世界時差を考えると、メレンヤさんって今何歳なんだろう。

「あのー……つかぬことを聞きますけど、メレンヤさん、年はおいくつですか?」
「ううむ、実を言うとな、百を越えたあたりから数えるのをやめた」

長生きだな!しかも現役だし!
肉体年齢は向こうの世界とリンクするのかな?それにしたってピンピンしすぎだけど。

「長寿の秘密を教えてくれ!とは、ここを訪れる客によく聞かれるんだがな――おっと、ミデルシャが来たか」

そこでいったん話が途切れた。
階段の上からゴトゴトと音がして、薄暗い中からミデルシャさんの姿が幽霊みたいにあらわれた。鼻と口を覆うように布を巻き、椀とカップを乗せた盆を持っている。

「ちょうどいいタイミングだ。ありがとうよ、ミーディ」
「ああ嫌だ、この匂いといったら!もうこれきりにしてくださいよ」
「おうおう、これからはいつもどおり自分で用意するから許しておくれ」
「さあ、あなた方。ここは冷えるでしょう。お口直しにお茶も淹れてきましたからね」

親切なミデルシャさんが俺と誠二の前に椀を置き、それから三人分のセデルー茶も並べてくれた。
彼女は『命の露』とやらがよっぽど嫌いらしくて、そそくさと階段をのぼって行ってしまった。
そこまで毛嫌いしてるものだと思うと逆に興味が湧いてきて、椀の中を覗き込んだ。
これ、メレンヤさんが食事のシメに飲んでたスープ?
ふわふわと湯気がたつ椀には、ホットミルクに似た白色の液体が入っている。それはどこか懐かしい匂いがした。

「わしがこれほど健康でいられるのは、それのおかげだと思っとる。ホレ、遠慮せず飲みなさい」
「はぁ……いただきます」

誠二が椀を持ち上げたから、俺もおそるおそる口につけてみた。
スープをちびりと飲み込み、喉を下っていくと同時に鼻に抜けた香りにめちゃくちゃ驚いた。これ、これって――。

「味噌汁……!」

俺と誠二の声が揃った。
『まずい汁』なんてとんでもない!色はクリームシチューだけど、味はれっきとした味噌汁だ!
ちょっとしょっぱめだけどお世辞抜きで美味い。こっちの世界に来てからすっかり忘れていたこの風味。日本人の魂ここにありといった、五臓六腑に染み渡る滋味だ。
誠二の顔を見ると、向こうも俺をびっくり顔で見ていた。顔を戻すとメレンヤさんの満面の笑みが目に入った。

「美味い……。オレ、まさかこんなところで味噌汁が飲めるなんて思わなかった」
「俺も!お、おいしいです!ほんとに!すげえ、どうしてですか!?」
「そうだろう、ウマいだろう!作ったのさ、わしがな。試行錯誤を重ねてな、こうしてまともに食えるようになるのに二十年もかかったわい」

作った!?マジすげえ!!
一気にごくごく飲み干した俺に対し、誠二は戸惑い気味にメレンヤさんに尋ねた。

「ですが、元となる食材はともかく、味噌は麹がないとできないものなのでは……」
「ここをどこだと思ってる?トゥリンツァだぞ」

『手に入らないものはない』――まさか味噌づくりに必要な麹まで!?
とはいえ、他所の土地からこの都に流れてきた味噌に似た発酵食品を参考にして、日本の味噌に近づけられないかと試作を繰り返した結果がこれだという。
豆の味噌だそうだが、どうやっても色が白くなってしまうのが今のところの悩みなんだとか。

「わしも味噌づくりのちゃんとした知識があったわけじゃあない。けれど、どうしても食べたくなってな」
「そこまでして……一体、どうして」

誠二が聞くと、メレンヤさんは何故か俺のほうを見た。さっき俺の名前をつぶやいたときと同じ、優しい表情で。それから、うっすら涙ぐんで。

「国民学校に通っていた頃、わしには章弘君という友がおった。竹馬の友というやつでな、よく二人で悪さしたもんだ」

ある日、章弘君は壽光さんのところに白米の握り飯ひとつと味噌を持ってきたそうだ。配給制の当時、米も味噌も少なく、病気のときくらいしか食べられなかったんだという。
章弘君は仮病を使ったといって笑ったが、痩せ細った壽光さんのために、病床から這い出てわざわざ分けに来てくれたというのが明白だったそうだ。

「握り飯を章弘君と半分に分けて、塩っ辛い味噌をつけて食べたあのときの味――あれがどうしても忘れられなくてなあ」
「そうだったんですか……」

元の世界のことを忘れてしまうのが常のはずなのに、そこには半端ない執念を感じた。
そしてその章弘君は壽光さんより先に縁故疎開したそうで、それきり一度も会わなかったのだという。
だから俺の名前を聞いて、当時の懐かしい気持ちを久々に思い出したとメレンヤさんが付け足した。なんか照れる。

「味覚っちゅうのは幼少からの積み重ねだと思っておる。食べ慣れない味はどうしても受け付けられん。ゆえにこの独特の味は、こっちの人間には相当奇妙に感じるそうでな。美味いと言ってくれたのはお前さんらが初めてだ」
「それで『まずい汁』か」

マルヴィアスもミデルシャさんも、こっちの住人には受け入れられない味ってことか。
ちなみに出汁は旨味と香りの強い干し魚とキノコからとってるそうだ。いろいろ試した末にこの味に落ち着いたらしい。
斑竜にのめり込む様といい『まずい汁』といい、たしかにメレンヤさんはこっちの人にしたら変人に見えるかもしれない。
けれども俺にとってはどれも十分理解できる。年代に差はあるものの、同郷だというだけでこうも意識が違う。
俺に続いてホワイト味噌汁を美味そうに飲み干した誠二を、メレンヤさんは訝しげに見やった。

「やはり、誠二君はフィノアルド様ではないのだな」
「はい。……嘘の名を騙り、申し訳ありませんでした」
「そんなに縮こまらんでもいいぞ、誠二君。実を言うと、今日お前さんと顔を合わせたときからそうじゃあないかと疑っとったからな。おっと、別人という意味でな。まさかわしと同じ国の生まれとは思わんかったが」

え?どういうこと?
メレンヤさんは上着のポケットからハンカチを取り出すと、ブシュッと鼻をかんだ。

「ついこの前のような気がするが……わしはな、フィノアルド様――フィニー坊やと会ったことがある」
「えぇぇ!?」

つい大声で叫んでしまった。慌てて口を手で押さえる。
だ、大丈夫だよな?地下室は声が外に漏れないって言ってたし。それと俺ほどじゃないけど誠二も声を上げて驚いていた。心なしか顔が青い気がする。

「そんなこと、日記にはどこにも」
「なんだあの坊主、ちまちまと日記なんぞつけておったのか。まあ、わしとのことは坊やも思うところがあったんだろうなぁ」
「どういうことか……聞いてもいいですか」
「うむ」

メレンヤさんによると、生前のフィノアルドに会ったのはほんの数回。しかも彼が十歳くらいの子供の頃だ。
その頃からフィノアルドは聡明で礼儀正しく、温和な人柄だったという。ただし、斑竜のことを除いては。

「わしの噂を聞きつけたそうでな、坊やは家族や友人に内緒でこっそりこの家を訪ねて来た」
「どうしてですか?」
「マダラリュウが好きなのにどうしても飼育がうまくいかない、それどころか嫌われるんだと言ってな。だいぶ必死で、当人にとっては相当な悩みだったんだろうよ」

リーリンドたち領主兄弟が上手に飼っているのを見て羨ましくなったのか、そんな相談を持ちかけること自体が恥ずかしかったのか。
斑竜は子供が当然のように飼えるものなのに、それが出来ないことをコンプレックスに感じてたとか?
そのあたりの気持ちは彼本人にしかわからないけれど、とにかく身近な人にも知られたくない思いがあったんだろう。
大好きな斑竜に好かれたい、そうなるにはどうすればいいのかと、フィノアルド少年はメレンヤさんにその方法を聞きに来た。
ところがメレンヤさんの家の斑竜にも嫌われる始末。これは何故か。

「そういうことってあるんですか?ていうか斑竜は子供が好きで、年寄りには懐かないって俺は聞きましたけど」

俺がずっと気になってた疑問をぶつけると、急にメレンヤさんの口が鈍った。唇を閉じ、背中を丸めて両手をテーブルの上で組む。そうすると一気に老け込んだように見えた。
しばらくして痺れを切らしたのか、誠二がテーブルに身を乗り出した。

「メレンヤさん」
「あ、ああ……。それもマダラリュウの習性に関係しておる。あまり、他では言わないようにしているがな」
「その理由、ぜひ教えてください。フィノアルドの――オレの兄さんのことだから聞きたいんです」
「誠二……」

兄と呼ぶその言葉に熱がこもっている。
日本人の誠二とブラムマールのフィノアルドが兄弟なんて、メレンヤさんにしてみたら混乱する言い方だろう。しかし誠二にも事情があることを察してくれたのか、彼はそのまま続けた。

「マダラリュウは、この大陸で孵化していつか竜郷に帰る。このことは知ってるか?」
「はい」
「だがな、それまでの間、体も小さいし捕食もままならん。なのに親竜は傍にいない。そうすると他の生物に保護を求めるわけだ。つまり、人間だな」

何故人間なのか、というところまではメレンヤさんも研究中なのだそうだ。ただ、彼らにとって都合がいい生き物がヒトなのは間違いない。
つぶらな瞳も美しいマダラ模様も、人懐っこい仕草さえ、庇護を得ようとする本能から来るものだというのがメレンヤさんの考えだ。

ちなみに親竜は、今くらいの時期になると遥か上空から卵をこの地に産み落として、そのあとすぐ郷に戻ってしまうんだとか。
柔らかい雪の上に落とされるため、卵は雪深くに埋まり、しばらくそこに留まる。だから斑竜の子供は雪の中で孵化して、雪に埋まってる状態で発見されるってことらしい。


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