16


やがて部活終了時間になり、見てるだけだった俺も片付けを手伝った。
部室を出て、廊下の手洗い場で墨のついた筆を洗っていたら、うしろから声を掛けられた。

「センパイ」
「ぅわっ!は、はいっ!?」

筆洗いに集中してたから驚いて声がひっくり返った。振り向くとそこに寒河江くんがいた。両手に硯を持って。
彼は俺の横に並んで蛇口をひねった。
隣に寒河江くんがいると思うと妙に落ち着かなかった。何か言おうかと思っても話題は出てこない。あまり彼と話をしたい気分でもなかったから余計に。
しばらくじゃぶじゃぶとお互い無言で筆と硯を洗っていたが、寒河江くんのほうから口を開いたのだった。

「センパイ、あの……」
「…………」
「……すいませんでした」

突然謝られて、寒河江くんを見やった。彼は硯を洗う手を止めて俺をじっと見つめている。

「色々、センパイに失礼なこと言ったりして、すいませんでした。怒ってますよね」
「お、怒ってる?」
「その……オレのせいですよね?部室来なくなったのって」

そのしゅんとした態度にまたまた驚いた。
俺が、寒河江くんのせいで怒ってるって?
部活に来なかったのはじいちゃんにしばらく書くなって言われたせいで――いや、そうだ、怒ってるんだ俺は。その原因である寒河江くんがいると思ったからこそ部室にも足が向かなかった。
なるほどそういうことだったんだと、自分のことながら言われて今更納得した。

「先週の金曜、急にセンパイが黙っちゃって、オレのこと無視したまますぐ帰っちゃったからスゲーびっくりして……」
「……そうだったっけ」
「そのときびっくりしたことに驚いたんです。オレ、センパイが怒って当然のこといっぱいしたし、そうなんないほうがおかしいのに、そこでようやくそのことに気付いたんですよ」

俺はそんなに冷たい態度をとってたのか。俺のほうこそびっくりだ。全然意識してなかった。ていうより周囲のことを気にしてなかった。

「センパイのこと、ほんとに誤解してました。今まで由井に付きまとったりしたのって、『自分は何もしてない、無害だ』ってヤツが一番厄介だったんです。自分が迷惑なことしてる意識がないっつーんですか。由井もそういうとこ鼻がきかないっていうか警戒心持たないでいるから、結果的に面倒なことになったりしてたんで……」

知らなかったけど、由井くんは思っていた以上にトラブル体質らしい。しかも誘引性の。

「ちょっと忠告したらめちゃくちゃキョドるし、こいつ危ない系だなってセンパイのこと決め付けちゃったんですよ。でも話してたら、そーゆーのとはなんか違うなって思いました」
「はぁ……」
「それでその、なんていうか……センパイと喋るの、オレ、だんだん楽しくなってたんですよ」
「…………」
「センパイはそうじゃなかったと思いますけど……」

楽しい……か。俺は楽しいとか楽しくないとか、そんな風に感じてはなかった。ただ、俺を嫌ってる後輩と話をしている、それだけ。
だけど寒河江くんに教えてもらうことはためになったし、自分を省みるきっかけにはなってた。
今はどうだろう――なんだか、思ったより寒河江くんと話すことが嫌じゃない。
彼が穏やかな調子で話してくれてるからだろうか。それともその内容が耳に優しいからかな。

「最初はメールで謝ろうとしたんですけど、それより月曜になったら顔見て直接言おうって思ってたんです。なのに今週全然来なかったから、正直めちゃくちゃ焦りました」
「そ、それはね……うん、別に……」
「センパイが怒ってんのはわかってますけど……部活、ちゃんと来てくれませんか。オレがいるのがムカつくんなら、オレ、書道部やめますし」
「えっ!それは駄目だよ!!」

大事な新入部員を逃すまいとした俺の部長魂がそう叫ばせた。俺の魂の叫びを受け止めた寒河江くんは一瞬目を丸くしてから、忙しなくそわそわと体を揺すった。

「やめられたら困る!俺が引退したあとの存続問題に関わるし!」
「……あ、そういうことね……」
「で、でも寒河江くんが部室にいると活気づいていいなーと思ってるのはほんとだよ。つーか寒河江くんすごい頑張ってたじゃん。俺、感動しちゃったよ」
「それは……や、感動とか大げさでしょ。つーか由井厳しすぎでツライ」
「あー……由井くん、手ぇ抜かないもんね。俺から見たら二人ともいいコンビだと思うけど」

こと書に関してはひたむきで自分にも他人にも厳しい由井くん。一方で丸っきり初心者の寒河江くんは、そんな由井くんのいい空気抜きになってるような気がする。
いいと思うんだけどなあと一人でぼんやり考えてたら、寒河江くんがずいっと俺の顔を覗きこんできた。

「センパイが教えてください」
「おっ俺!?えー……俺、人に教えんのとか上手くないんだけど……」
「センパイがいい」

寒河江くんが急に駄々をこねる口調になったから、俺の部長魂が歓声を上げた。「後輩に頼られてるぞ!ここで広い度量でもってドンと受け止められずにどうする!」――と。
心では威勢のいい部長の俺だけど、やけに体を寄せてくる寒河江くんの異様な迫力に押されて、後ずさりながら気弱な答えしかできなかった。

「あ……えっと、俺でよかったら……」
「絶対ですよ」
「う、うん」

別に俺じゃなくても副部長である小磯くんもいるのになぁ、という意見も潰されそうな勢いだ。
いつのまにか筆を洗うどころじゃなくなっていて、それでも最後の筆の墨が落ちてるのを確認してから水気を絞った。これで全部洗えたかな。
筆洗い用の容器から墨で汚れた水を捨てていたら、寒河江くんが落ち着かなそうにトントンと片足を踏み鳴らした。

「――それで、お詫びっていうのも変なんですけど……」
「え?」
「明後日の日曜、美容院予約してあるじゃないっすか」
「あー……あーうん、それね」
「もし、センパイがよかったらなんですけど、オレがそこに連れて行きましょうか?」

実はそれキャンセルするつもりで、と言う前に予想外の台詞が聞こえて口が半開きのまま止まった。
ふむ、寒河江くんが美容院に連れて行ってくれるって?俺一人が行ってオシャレ空間に気後れして店に入れず小一時間うろうろする時間を節約できるというのか。
だけどまだ彼に苦手意識みたいなものがある俺は、丁重な断り文句を口にした。

「い、いいよそんな。それくらい一人で行けるって」
「店に入れなくて外でうろうろするセンパイがなんとなく想像できるんですけど」
「なぜ分かった!まだ行ってもないのに!」

俺は自分のことだから分かるとして、寒河江くんにまで見抜かれているとはなんたる恥辱!しかし実際その通りだからぐうの音も出ない。
羞恥に身悶えていたら、寒河江くんが苦笑しながらうなじを掻いた。

「まあ、無理にとは言いませんけど……」
「すいません超お願いしたいです」

土下座する勢いで言っちゃったけど、これで美容院に行くことが本格化してしまった。
そうしたら寒河江くんは、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべた。
くっ……なんて眩しい笑顔なんだ。まさか俺の情けなさを笑ってるんじゃないだろうな。
だけど今はそう悪い気分でもなくて、強張っていた頬が解れた。


prev / next

←back


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -