パート・ド・ペトリコール
お前は誰だ。
ニコニコと、自分に笑いかけるナマエ。さらりと自分への愛情を言ってのけるナマエ。そのいずれも、久しく見ていなかったナマエ。ではあるが。
「ねえ覚えてる?ウォーターセブンに旅行に行った時のこと。とっても綺麗だったよね、またあなたと行きたいな」
「...」
おれは、ウォーターセブンには行った事がない。
「今度お金をためてもう一度行こうよ」
「ああ...」
ナマエは誰かの記憶を見ているようだ。
「私、今とっても幸せ」
うふふ、と声を上げて笑いながらナマエはおれの肩にもたれ掛かった。顔は輝いていて、本当に幸せそうだった。ナマエの確かな温もり、重み。結婚してからというもの、情事以外のこういった軽いスキンシップは殆ど無かった、なのにどうして。
「ナマエ...お前は本当にナマエか...?」
「え?何言ってるの、当たり前でしょ?もう。酔っ払ってるの?お酒は飲みすぎないでって言ってるのに」
いよいよ意味がわからない。誰かが乗り移ったような口振り。やはり、何者かに操られているのか。
「あ、電伝虫が鳴ってる」
ペロス兄からだ。恐らく、事の顛末を知っている。
「すまない、少し席を外してくれないか」
「分かった」
「...ペロス兄か?」
『ああカタクリ、もうそっちにナマエは着いた頃合いだろうな』
「ああ。しかし...、一体どういうことか説明してくれないか」
そこでカタクリはすべてを聞いた。メモメモの実の能力のこと。ナマエが、その男に何らかの依頼をしたこと。そのせいで今ナマエは他人の記憶を生きている、ということを。
「ナマエは...」
全てを忘れたかったんだ。おれとの結婚、何から何まで。おれにとって幸せなものであるそれは、ナマエにとっては忘れたかった代物だったというのか。
『明日辺りにでもキャンディ島に来い。そうすればナマエの記憶を元に戻せる』
「...」
『どうした、カタクリ?』
ナマエが自分の意志で記憶を消したというのなら。
「...その必要はない」
『ハァ!?お前は何を言い出すんだ!』
「記憶を戻せば、ナマエはこの辛い生活に戻ることになる」
『...だが、それ以上に辛いのはお前だろう...?』
漠々とした当てのない苦痛がカタクリの胸に跋扈する。それでも、ナマエが今までに味わってきた苦痛とは比べ物にならない。
「当然の報いだ。...ナマエをそこまで追い込んだのは他ならぬおれ自身だからだ」
『お前というやつは...』
聡い兄は、こういうところでおれが頑固だと分かっているはずだ。電話越しにわざとらしいため息をついたのが聞こえた。
『分かった、好きにしろ。その代わりナマエの仕事に支障をきたすようだったら、すぐにでも記憶を戻すからな』
「分かっている。すまない、ペロス兄」
電話が終わって、控えめに扉が開いた。
「入っていいぞ」
「あ、うん。あとメリエンダの準備が出来たよ」
「そうか」
メリエンダ、という単語も知っている。他人の記憶を都合よく書き換えられるらしい。つくづく恐ろしい能力だ、と思った。
「もしかして、私の話?」
「、ああ。実に出来た妻だとペロス兄に自慢しておいた」
「やめてよ、照れるなあ」
__本当のナマエは、おれのことを好きではない。そう考えてしまうと、胸が潰れそうになる。それでも、例え見せる笑顔が偽りだったとしても、ナマエが幸せそうにしてくれていることが、カタクリは存外嬉しかったのだ。