ホットケーキ・ランドマーク


おねがい、私をおいていかないで。

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明晰夢、のようなものを見ている。見知らぬ女性が一人、協会ですすり泣いていた。ナマエはその様子を少し上から眺めている。どうやら自分の意思では移動できないようであった。

「辛いか?」

後ろから声を掛けられ女性が振り返ると、ナマエの視点も移動した。そこには確かにナマエが依頼したあの男がいた。

(依頼...?)

依頼、依頼。何だっただろうか。少なくとも私はこの男に何かを頼んだような。

(ああ、そうだった)

記憶を、消してもらった。カタクリとの記憶。ペロスペローを好きな気持ち。それと一緒に思い出も全て消えてしまったが。それに、私に術をかけたこの男はもう少し不健康そうな顔をしていた気がする。頬もこけておらず、会った時よりは若いようだ。となると、今見ているのは何なのだろうか。

「忘れたいか?」

私は動けなくなった。男が女性を通してじっとこちらを見ていた。その眼はまるで、鼠を襲う猫のよう。汗がつ、と滴るのを感じた。

「忘れたい」

答えたのは女性。立ち上がって、男の方を向く。

「早い話が、最愛の夫を亡くしたので今後生きるのが辛い。そういうことだろ?ならおれが記憶を消してやる」

報酬は高くつくがな、という悪い笑みもたたえながら男は手を差し出し、女性はその手を取った。

...あなたはそれでいいの?最愛の人だったんじゃないの?全部、宝物が消えてしまうのと一緒のことではないの?後悔はないの?

ナマエはその女性の記憶の全てを見ていた。優しくされた記憶、愛された記憶。彼女の記憶の中の夫の顔が、うすらぼんやりとだがカタクリと重なる。
優しいカタクリ。私が記憶を消したと知りながら、それでも大切にしてくれた、本当に優しい人。それはこの人の夫も同じはず。


ねえ、彼との記憶を本当に忘れたいの?忘れたかったの?


その問いかけは、誰に対するものなのか。

***

目が覚めた。隣には幸いにも誰もいなかった。カタクリは遠征に出ている。暫くの間、このキングサイズのベッドはナマエだけのもの。
気まずい以外の何物でもない二人きりの空間の象徴である寝室も、こうして一人でいる今は心地が良い。それにしてもさっきのは一体何だったのだろう。

「あれ」

そういえば、記憶が戻っていた。最初から、記憶を消すに至るまで全部。

「どうして...」

あの男が死んだ、そう考えるのが妥当だ。見計らったように枕元の電伝虫が鳴った。ペロスペロー様からだ。

「もしもし」
『あァ、ナマエか。丁度良かったぜペロリン♪お前はもう気付いている頃だと思うが...』
「...死んだんですね、あの男」

余命は僅かだと言われていた。だとすれば今頃は世界のどこかでメモメモの実が実っているのかもしれない。

『あァ。...記憶は完璧に戻ったのか?』
「はい。ご迷惑をおかけしました」

電話の向こうで、ため息が聞こえた。一方でそれは安堵のようにもとれる。

『カタクリにはまだ話していないのか?』
「はい...」

彼とは、いずれ話し合わなければならない。だが。ナマエは思い切った決心を眉に集めた。

「そのことですけれど、私の記憶が戻った事は、カタクリには伝えないでくれませんか」
『...ハァ!?お前まで何を言い出すんだ!』

突拍子も無い考えだというのは重々承知している。それでも譲る訳にはいかない。

「演じます。カタクリを愛している私を。...それが彼にとって幸せなら」
『...だがそれは、偽りの愛だろう?』
「そうかもしれません。でも...」

偽りの愛でも、それは真実の愛に成り得る。昔本で読んだ、ある哲学者が言っていた言葉だ。

「私はカタクリを愛してみたい」

私が見ていた記憶の中の女性のように、一途に真っ直ぐに、愛してみたい。

『分かった、好きにしろ。ハァ、揃いも揃って...』
「ありがとうございます」

そこで電話は切れた。つくづくペロスペロー様に迷惑をかけてばかりだと、自分を恥じる。

...私はペロスペロー様が好き、だった。

それは淡い初恋。いつまでも引きずっていては進めない。
ナマエは同じ哲学者が初恋は儚く散るものだ、とも言っていたのを思い出し、薄く笑った。
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