土と泥の匂いがする。
私の名前を誰かが呼んでいる。
私を捨てた人間がつけた名前を、
誰かが遠くで呼んでいる。

『わたし、そんなもの、いらない。』

シスターの腕をすり抜けて、教会を逃げ出した。

独りで、駆けて、
独りで、生き抜いて、
暗闇の中を、ただ、ひたすらに、

いつしか、仲間に出会って、
仲間と共に、闇を生きて、

貪欲に、汚らしく、生き抜いて――…




『―――ヴォルフ

『お前、巷でそう呼ばれているそうじゃないか。』

『……。』

『このスラム街の孤児達のリーダーだな?』

『……。』

『成る程、通り名が“狼”な訳だ』

『……。』

『決して人に懐かず、暗闇を駆け、泥の上を這う。群の為ならば何でもする。孤高の狼』

『……。』

『……。』

『他の奴らがつけた名前だし。そんなの知らないし、興味も無い』

『本当の名前は?』

『……。』

『……。』

『……。』

『成る程な。…大人が嫌いか?』

『……。』

『…奇遇だな。私も嫌いなんだ』

『…大人の癖に。』

『ははは!確かにな!』

『……。』

『…そうだなぁ…。』

『……。』

『“シン”、なんてどうだ?』

『は…?』

『名前だ。ヴォルフなんかよりずっと可愛いだろう?』

『ちょっと、意味がわからな…』

『―――シン、』

『……、っ』

『お前は今日からシンだ!』

『……っ、』

『また来るぞ!シン!』

『ねえ、ちょっと、待――……』




「…………。」

カーテンの隙間から差し込んだ眩い光で目を覚ます。
隣にはガエリオの安らかな寝顔。
その綺麗で手入れの行き届いた髪の毛を優しく梳いた。
今日は珍しく私が先に起きてしまったらしい。時計を確認すると、まだ朝の五時にすらなっていない。
私は小さく息を吐いた。
この愛しい寝顔の為に、幾度もタイムリープを繰り返していたせいで、私の記憶と人生は彼一色と言っても過言ではなかった。だからだろうか、彼を救う事ができ、不安なものが少なくなった今、こうして、懐かしい夢を見るようになったのは。
(本当に、懐かしい、夢だった)
ガエリオと出逢う、ずっとずっと前。
もう、長い時を巡って来た私にはぼんやりとしか思い出せない遠い記憶。

「誰、だったかな…、あの人は…。」

まあ、別に思い出せなくても良いけどね。

「二度寝、しよ…」

気付かれないように、愛しい寝顔にそっと唇を落とす。
逞しい彼の胸の中で、私は静かに目を閉じた。



■■■



入院生活も数日がたち、随分とこの病院にも慣れた気がする。
シンは相変わらず傷の治りが遅いが、順調に回復してきてはいる。俺の傷も、もう少ししたら治りそうだ。
「はぁ…」
深く息を吐く。
今まで戦いの中に身を置いていたからか、この平和な時間が妙にムズムズする。しかし同時に心地良いとも感じていた。

「ねぇー、ガエリオ、私、下着持って行ったよねぇ?」
「あぁ〜?下着ィ?」
ちょうど、入浴を終えたシンが病室に戻って来る。余談だが、現在、この病院に居るのは俺達だけで、通常ならば時間が決められているはずの入浴についても、俺達の好きに使って良いと院長に許可を貰った。
だからだろうな。病院と言う感じがあまりしなくて、普通にシンと同棲しているような感覚に陥る。先程考えていた“妙な心地良さ”も、これのせいだろうな、とは思う。
「さっき持って行かなかったか?」
「う〜ん、おかしいなぁ。脱衣所に無かったんだよねぇ…」
まぁ、いっか、と告げたシン。
俺は「シンが良いなら構わないが…」と返す。しかし刹那、シンを見てふと声を漏らす。
「おい、じゃあ、お前、今」
「下着つけてない」
「おい!!バカか!!さっさとつけて来い!!」
俺が襲ってしまう前に。
シンは、俺の内なる狂気に気付く事もなく、「分かってますってば〜」と呑気に別の下着を持って再び脱衣所に行ってしまった(白だった)。
「…ったく、スキがありすぎる…」
特殊工作員として鍛えられて普通よりずっと強いのは分かる。だけど、どうしたって俺は男でシンは女だ。いざとなったら俺の方が強いに決まっている。幼馴染み同士で、俺に心を開き、信用してくれてるのは物凄く嬉しいが、ちょっとは警戒して欲しい、と思う。

この生活が始まってから、変な方向に神経を使うようになった。
「はぁ、」と溜息。

刹那、ドアの向こうに、数人のナースが見える。
「……。」
気付かれないように、目を細める。
聞き耳を立てると、「あの人が…」とか「恋人が居たなんて聞いてないわ…」とか、そう言う会話が聞こえた。
(またか…)
これもまた然り。

ギャラルホルンにいた時もこのような経験はたくさんあった。
女達に囲まれ、チヤホヤされる。
(俺にシンと言う恋人が居る事に衝撃を受けているらしい)
今は遠巻きに眺めている程度だが、いつしかその恨みや妬みの感情が、シンに向きはしないかと不安になる。
「…はぁ、」
幾度溜息を吐いただろう。俺は、視線を窓の外に移動させた。

「何も無ければ良いがな。」

数分後、「ただいま〜」と無邪気な顔で帰って来たシンに、俺は安心するのだった。




2016.10.16

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