忘れてしまった。

学校帰り。
負けず嫌いのおれは、他のクラスメイトよりたくさん勉強をしていた。友達も居るのかと言われたら、居ない、と言った方が近い。ただ、誰よりも強く逞しく生きなければいけないと幼い頃から教え込まれていた。何かあった時、信用出来るのは自分自身のみだ、と。ずっと、ずっと。だから、その戒めに似た教訓に従って生活していた。誰よりも強く。虐げられる人間に成らないように。上に立つ人間に成る。その為には、誰よりも知識を得なくては。
「…――水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム」
教科書片手に、帰路を歩む。
学年相応の教科書では既に物足りない。何年もすっ飛ばした内容の教科書を持ちながら、おれはあの日も貪欲に知識を詰め込んでいた。
はやく、この国を救う為に。
この国の、自由と平和の為に。
「ホウ素、炭素、窒素、えーっと…ああ、酸素だ」
慣れた道を、何時ものように。
そこを曲がれば、もう家に着く。
今日の夕飯当番はおれだったか。後で当番表を確認しなきゃな。
「フッ素、ネオン、ナトリウム、マグネシウム、アルミ――……」
開いた扉の向こうは、悲惨だった。


酷い、鉄の、匂い。


「…鉄、って…、Feだった、っけ、か…」

身体中が戦慄した。次に目の前に現れるであろう光景を予想したくなくて、口からは思わず間抜けな科白が出る。見たくない。見たくない。見たくない。
お願いだから。
誰か、これが、
嘘だと…。

「……っ、」
スルリ、と、指の力が抜ける。
ビチャッ、と、血溜まりに教科書が落ちた。


「………とう、さ……っ!」


綺麗なまでに、眉間に一発。


「…――父さああああああんッ!!!!!!!!!」


彼が、与えてくれた名前を、
もう、思い出せない。







…―――パキッ、
そんな音が、食堂に響いた。
珍しく皆が揃ってご飯を食べていた今日。全員の視線が音の出所に集まる。
「惺?」
思わず声をかけてしまった。その先には、箸を真っ二つにして固まっている惺の姿。
「…っ、くそ…」
小さくそんな声が聞こえた。何回か彼女と食事を共にしたが、こんな事は何度かあった。彼女が箸を折ったのはこれで四回目だ。
唇を噛み締めて、右手を睨み付けている。
「…大丈夫か…?」
静かな空間。気まずい空気を切り裂いて問い掛ける。惺は小さく震えた。左手を強く握り締め過ぎて真っ白になっている。
「こんなはずじゃなかった…」
ギリギリ、と力を込めて。
血が出そうな程に、握り締めて。
「お、おい…、止めなって…」
その左手に、自らの掌を重ねて制止する。惺は、その掌でやっと俺が近くに寄って来ていた事に気付いたようだった。
「…力が制御出来ない…。ノイズが走って苛々する…」
小さく呟かれたその科白。寡黙で無表情な彼女にしては珍しく、その声には確かに何かに対する憤りが含まれていた。折れた箸を更に握り締める。
「危ないって…。血が出るぞ…」
折れた箸を取り上げた。プラスチック製なのに、どうしてこんなに頻繁に折れてしまうのだろうか。彼女のその華奢な身体の何処に、そんな力があるのだろうか、と、頭の隅で考える。
惺は、ゆっくりと俺を見上げた。
「おれに関わるな…。どうせ痛みなんて感じない」
何て悲しい科白だろう、と思った。
「…いや、違うな」
惺は自嘲した。
「“感じない”じゃない。“慣れてる”だな。」
そう言って、立ち上がった。
目の前のトレイには、まだ半分以上残ったご飯とおかず。
「おい、惺…」
「ごちそうさま。」
伸ばした俺の腕を、擦り抜けるように、彼女は食堂から出て行った。







悪い癖だ。

精神が不安定になると、右手の義手の力加減さえ分からなくなる。
最近は無くなったと思ったのに、“あの日”から今日までで四回も箸を折ってしまった。割り箸なら未だしも、プラスチック製の箸を四回。クルーの皆が訝しげにおれを見詰めていたのが脳裏から離れない。「今日で四回も…」と言いたげなあの反応。皆の視線に「おれは普通じゃない」と、そう、突き付けられた気がしてならない。
好きでこうなった訳じゃないと云うのに。こんなはずじゃなかったのに。
(…しんどい……)
逃げ込んだ展望室で溜め息を洩らす。そもそも、どうしておれがここまで苦しまなければいけないのか理由が分からない。いきなり自分の本名すら思い出せなくなった。虫に喰われた葉のように、記憶が曖昧で霞み掛かっている。思い出せない苛々が身体に蓄積する。思い通りに動けない。
まさか、あの事故が原因で記憶が錯乱しているのか。そんな事があるのだろうか。
前髪を掻き上げながら考える。しかし、地雷を踏んで爆ぜた時でさえ、そんな事は無かったのだ。今更、何故、自分の本名と、過去の一部が欠損してしまったのだろうか。
「…意味不明。」
もう、お手上げだ。
無理に思い出そうとすれば、ノイズが走る。鼓膜の奥に、ジリジリザーザーと。

「…惺、」
ああ、またこいつか。
振り向かなくても声だけで分かる。
ロックオン・ストラトス。突き放しても突き放してもおれに関わってくるおかしな人間。
「…………。」
ゆっくりと振り向く。どうせ今追い返しても彼は素直に帰りはしない。もう諦めよう。彼は心配そうな表情でおれに近付くと、横に並んだ。
「大丈夫かよ…、お前、最近様子がおかしいぞ…?」
上から覗き込む彼。おれの瞳を見据えて、眉間に皺を寄せる。
「おれに関わるなと…何度言ったら分かるんだ…」
思わず、はっきりと告げてしまった。彼は、その言葉に目を丸くしたが、直ぐに笑った。穏やかな、何か安心するような、そんな笑みで。

「…お前に関わらないなんて…、もう、無理だよ…」

戦慄が、走った。
その笑みと言葉は、確実におれの心を駄目にするものだった。非情に、無情に、と、ずっと生きてきたおれの心を、貫く毒だった。
「………っ、」
これ以上聞いたらいけないと、分かってるのに。理性では、分かってるのに。枯渇した心の底で、彼の温もりに触れたいと思っている自分がいる。あんなに酷い思いをしてきたのに、まだ、おれはその浅ましい願いを捨てきれていないんだ。誰かを信じたい、独りに成りたくない、と言う、浅ましい願いを。
「惺、俺は…、お前が心の底から笑うのが見たいんだ」
彼は、何れ程、おれを追い詰めれば気が済むのだ。おれは、もう、全てを捨てたんだ。一番大切な人、家族、仲間、あとは、この自分だけ。この、完全に殺し切れていない弱い心を捨てるだけなのに。上手くいかない。ロックオンが目の前に立ち塞がっている。有り得ない。おれが、笑うのを見たいだなんて。まるで、“あいつ”みたいな事、言うな。
おれを、狂わせるな。
非情で、無情で、無感情な、おれでいたいのに。
「分かってる。お前はこの世界を壊したがっている事。独りで全てを片付けようとしてる事。強がってる事も、分かってる。知ってるんだ。…お前は、本当は…弱い女だって」
(……っ、!)


「…俺は、お前が嫌がったとしても、お前が強がったとしても、お前が拒んだとしても、何度でも手を伸ばす。お前を、絶対、独りにしない。」


「どう、して…」
乾いた声しか出ない。
この男は、厄介な奴だ。
ロックオンは笑った。まるで、おれの動揺さえ見抜いているかのように。
「…っ、ふざけんなよ…、」
遣る瀬無い思いが胸の内から溢れ出す。情けない。深層心理を言い当てられた敗北感。弱みを握られた敗北感。色んなものがぐちゃぐちゃになる。

「…惺…」

ロックオンの優しい声が響き渡る。

泣いたら、負けだ。




2012.04.15
2013.05.07修正


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