掌中の珠とす

──嘗て、黒社会に於いて名を馳せた”黒欄の君”も”氷の女王”も今や存在しない。冷徹な仮面と彼女を覆い尽くしていたハリボテだけが、既に伝説として一部の者に口伝されていくのみである。
横浜という街は今日も夜が来れば眠り、朝が来て目を覚ます日々が繰り返される。何事もなかったかのように、銃声や人々の歓声も全てをこの街は受け入れ、抱擁し些細で慎ましやかな明日へと人々を連れて行くのだ


一連の長崎で起こった抗争は、屋敷に出入りしていた半グレ集団による火の不始末が原因であると結論付けられた。火が回る前に18人もの青少年が死亡していた事や、鉄の塊──違法性が疑われる銃らしき物も多数発見されたが、それ等が公になる事はなかった。
何らかの大きな力が情報隠蔽に動いたのは明らかであったが、死亡した者達が何れも無法者や後暗い経歴を持っていた為に声を挙げる者は居ない。頓て時の経過と共に総て忘れ去られていくのだろう

あの夜──国木田が燃え盛る屋敷から薫子を抱えて出て来た時。既に薫子の意識はなかった
太宰が与謝野女医を派遣し、その到着が僅かでも遅れていたらと思うと今でも国木田の肝は冷え、あの時の恐怖が蘇ってくるようである
しかし与謝野女医の異能力を以てしても薫子の意識が戻る事はなく、薫子が目を覚ましたのは横浜に連れ帰ってから五日後の事であった




長い眠りから覚めて最初に視界に入ってきたのは二つの頭だった。体勢を整え、朗らかな日差しを浴びながらここ数日の記憶を手繰り寄せる。そして更に自分が横たわっていた寝台に二人が突っ伏す状態を鑑みて薫子は暫し状況確認に励む

一番最後に残ってる記憶は長崎での事だ
国木田さんが火の手が迫る中、助けに来てくれた
…そうだ、そうであった。と一人微動だにせず記憶と思考を繋ぎ合わせる作業に没頭していると、頓てこの白い部屋へ続く扉が開かれる。
入ってきたのは探偵社員の女性である。肩の上で切り揃えられた黒髪がさらりと揺れ、薫子と目が合うと驚いたように双眸が見開かれた

…この人は与謝野晶子女医だ
世界でも珍しい治癒能力の異能者
そうであれば薫子が助かったのも道理である
薫子が何を云うべきか思案していると与謝野は優しげに微笑んだ

「アンタ、手遅れだったと思ったんだがねェ」
「…手遅れ?」
言葉の真意が見えず聞き返すと与謝野は遠くを見るように、その意味を教えてくれた
「…昔にちょっとね、
体の傷は妾の能力で治せても、心の方は死んじまった奴がいたのさ。何せアンタもギリギリの所で、あと一寸遅ければ今頃は土の下だったよ」
「…そう、だったのですね」
「国木田とアンタの兄貴には感謝しときな」
「…ええ、ありがとうございます」

にこやかに、けれど少し後ろめたさを滲ませる薫子に与謝野は釈然としない様子でふう、と息を吐くと寝台に突っ伏す二人を指差す
「国木田とアンタの養い子がね、必ず薫子は戻ってくる、なんて云って片時も傍を離れようとしなかったんだ。流石に五日もピッタリ着いてたんじゃ気力も体力も限界だったんだろ」
「…五日?」
「そうだよ
アンタ、五日間も眠ったままだったんだ」
あまりの衝撃に薫子は言葉を失う
「妾は国木田を起こしに来たんだけど。…折角眠り姫が目を覚ましたんだから野暮ってものだね」
アンタが起こしてやんな
そう云って与謝野は部屋を後にした。残された薫子はただ呆然と二人の姿を眺める。頓て決意したように薫子は国木田へ手を伸ばす

頭の下に敷かれた腕にそっと触れる
垣間見える指先を己の指で優しくなぞった。


「私は貴方が好きです、国木田さん」


反応はない
余程熟睡しているようである
反対の手で晶の頭を撫でるが、国木田と同じ様に起きる気配はない
その二人の様子が何だか愛しく思えて薫子は安心したように一人で笑った。
気付けば薫子の瞳は涙で潤み溢れ出している。それが安堵なのか、喜びであるのか薫子にはハッキリと分からなかった。けれど、触れた指の温かさがただ、ただ愛しく。溢れている
漠然と胸の内を支配している言葉は一つだけだった
二人が目を覚ましたら最初に云う言葉はそれしかない
あと少しだけこの時間を堪能したら、ちゃんと起こそう。
医務室には麗らかな日差しが満ちていた
薫子は幸福に浸りながら二人の目覚めを待っている






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