After?

「織田作には会えたのかい?」

”いつもの場所”で、薫子は兄である太宰治と一夜を共にしていた


長崎で起きた一連の騒動から10日経ち、回復した薫子は晶と共に一先ず国木田の元へ身を寄せている。社宅たるアパートメントは手狭だが万年床の太宰と違い、几帳面さの波長が合う国木田と薫子では大した苦はなかった
一度生死の境を彷徨った故か国木田と晶は薫子に対して異常に過保護となったが、薫子も仕方なしと受け入れているようである。それでも心配性が過ぎますよ、と笑って国木田を宥めている姿が度々探偵社員に目撃されている。
そんな薫子を快気祝いと称して一杯誘ったのは太宰だ。私も行くと云った晶を子供は駄目だと一蹴し、何処に行くのかという国木田をさらりと誤魔化し、太宰は尾行を撒いて薫子を連れ出した
やはり、あの頃の私達が憩う”特別”である場所に、今の姿しか知らない者の同席を許すのは野暮というものである。その思いは同感であるから薫子も苦く笑うだけで兄を責める事はしなかった

漸く”いつもの席”に二人落ち着くと太宰は唐突に問うた。──織田作には会えたか、と
薫子は微笑んで首を振った
「意識が朦朧としていて、これが最期だと確信した時、作之助さんが迎えに来る事を願いました。…けれど、私の前に現れたのは国木田さんでした」
太宰は残念そうにも、安堵したようにも聞こえる声色で短く、そう。と云った

「…しかし、最期に作之助さんに会えずとも、国木田さんの腕の中で死ねるなら。それはこの世で最も幸福な事であると思ったのです。
一人、暗闇で目を背け耳を塞いでいた私を、国木田さんが光を当てて引っ張り出してくれたのですから。

まあ、結局生き残ったのですから。私の悪運は矢っ張り兄さん譲りですね」
ふふ、と茶目っ気に溢れて笑う薫子の目は既に陽の当たる明日へと向いている。薫子を変えたのは太宰でも、安吾でもない。それが太宰にはほんの少しだけ悔しかった
だから、これはほんの意地悪の心算だ


「…もう、織田作に会いたいとは思わないのかい」

太宰の静かな声に薫子は微笑んだ
「思います。…けれど、年老いて。…否、精一杯足掻き生き抜いた先での再会の方がお話出来る事がたくさんあると思うのです。
…それに、作之助さんなら私達が揃うまできっと待っててくださいますよ」
「…そうだね、そうかもしれない」

意地悪の心算が斜め上から反撃を食らった気分だ。薫子の中で、今でもあの頃共に過した私達が大切なのは変わらない。敬愛、寂寥…親愛。私達へと抱く其れと、国木田君や晶ちゃんへの感情は似て非なるものへと昇華されたのだ
…之では私が狭量みたいではないか

太宰は叶わないな、とでも云うように笑った。泣き出す一歩手前のような切ない笑みだ
薫子はそんな兄の様子に気が付かないふりをする。言葉には、するべきではないと薫子は思った

作之助さんの死への悲しみを共有する私達は、明日へと向かう為に傷を舐め合い、悲しみを慰め合う訳にはいかないのだ。
生き残った私が罪に問われないように暗躍し、情報を操作させた安吾さんも、きっとそうであるのだと思う
云えない感謝を胸に秘めながら。それでも私達は、守りたい”何か”の為に互いに背を向け、時に手を貸し合ってこの横浜で生きていくしかないのである

嘗て四人で並び、共に夜を過ごした思い出の場所で。太宰と薫子は感傷の沈黙に浸っていた



薫子が帰ると国木田は寝ずに待っていた
「まだ起きてらしたのですか?」
「まあな。
太宰はどうした?」
「飲み足りないと云って繁華街の方へ引き返して行きましたよ?一応社宅の前まで送ってくださいましたが…」
「…そうか。」

既に就寝の支度を終えた国木田と膝を突き合わせるように薫子は腰掛けた。そっと手を重ねると上から握りこまれた
「…心配、してくださっていたのですか?」
「無論だ
…今もお前が目の前にいる事実が夢なのではないかと疑いそうになる」
「ふふ、夢ではありませんよ」
夢だと云う彼を安心させるように重ねた手を頬に持ってくる。人肌の心地良さに薫子は目を瞑った


「私は、貴方と晶の元に帰って来ます」
「…ああ、」
「お慕いしております」
「…ああっ」

力強い抱擁に薫子は手を回して応えた


「お前が目覚めた時、俺は一生分の運と幸福を使い切ったと思った」
「ふふ、大袈裟ですよ」
「大袈裟ではない。
…其れ位、俺にとっては奇跡的だったんだ」
「なら、私の一生分の運を分けて差し上げましょう」
「…運だけか」
「私は貴方の腕に助け出された時に自分は世界一幸せな女だと思ったのですよ?」
「それこそ大袈裟だ」
「…ならば大袈裟な者同士でお似合いではありませんか」
「そうか。それは良いな」
「ふふ、”ただいま”が云える相手が居るのはとても幸福な事です」
「そうだな。その通りだ」

「貴方の行く道の景色を、私にも見せてくださいね」

「…無論だ
俺はお前の手を離してやる心算はない」
力強く宣言する国木田の肩に薫子は涙を滲ませる。喜びと安堵が溢れて暫く涙は止まりそうになかった






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