女兎が啼く | ナノ
悪魔
「あの人格好いーー」
「芸能人?モデルの人かしら」
「どっちにしても…櫻子、羨ましいわね」
「……。どうして、此処に?」
「地球に居る娘の知り合いに挨拶するのは当然だろ。…久し振り、櫻子。綺麗になったな」
「……どうも」
歌舞伎町随一のスナック、『すまいる』にて。
赤く縫われたソファには、名前の知り合いの紀欄である櫻子と、茶髪の爽やかそうな好青年が座っていた。周りが櫻子を羨望の的としているが、本人の櫻子は全く嬉しくはなかった。寧(むし)ろ、彼自身がとても恐ろしく、いつでも殺せるように背後への刃物を忍ばせておく程である。
彼の見た目は三十代前半。だが意外にも四十前半であり、それは彼が言っていた"娘"という発言から分かる。彼の娘は昨年二十を超えたばかりである。
「地球の暮らしはどう?上手く続けられそう?」
「…はい。楽しいですよ。治安も良くて、暮らしやすいですし。…でも、空牙さんは退屈過ぎて馴染めないと思いますけど」
「はは、だよね。俺も思った。弱いヤツばっかりだしなぁ」
「…空牙さん」
「ん?」
「……どうして、地球に来たんですか。」
冷たく、怒りすら感じられる低音で、櫻子は言った。櫻子の膝に置かれた拳は、フルフルと震えている。
空牙と呼ばれた男はへらりと笑った。
「厳しいねおまえは。俺が地球で何かすると思ってんの?」
「…貴方が何もしない訳がない」
「本当に失礼だな櫻子。…まァ、そう思うならそうで良いけど」
そう言うと、グイッとお猪口に注ぎ込まれていた酒を口に入れた。
この男は酒も名声も手にしていた。彼に勝つ者は、僅か数人だろう。いや、もしかしたら居ないかもしれない。
櫻子の声は震えていた。怯えているのを悟られなくて、何度も小さく深呼吸をする。心の中で自分が喚いていた。怖い、怖いと。この男に近付きたくないと。
もちろんそんな櫻子の怯えも気持ちも察している空牙は悠々と酒を煽っている。
空牙の呑気な姿に痺れを切らした櫻子は、空牙に啖呵を切るように低く、声を出した。
「…名前さんには、手を出さないで下さい…!」
「……ん?」
「…っ、名前さんは…、貴方と離れてから幸せそうに笑っています。…あの笑顔を壊したくないんです、だから」
「ん?ちょい待ってよ、櫻子」
茶化したような声で空牙は櫻子を呼び止める。空牙の顔はまだ笑っていて、こんな状況でさえも偽の笑顔には見えないことがまた恐ろしい。
何ですかと尋ねると、返ってきたのはお得意のやはり笑顔とーー恐怖。
「名前って今江戸に居るの?」
「え?……っ!!」
「はは、ビックリしたなぁ。まさか名前の名前が出てくるとは思わなかった。それにお前、最近名前に会ったんだ?」
「……!」
先程まで率先して話していた櫻子が黙った。櫻子は静かに大きな地雷を踏んでいたことに今更気付いた。
…空牙は、名前さん目当てで来たんじゃないのか?いや、今はそれ所じゃない。早く、何とか名前さんをーー。
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