短編[苦] | ナノ


▼ さどまぞ‐02

その代わりに、得体の知れない何かが胸の奥をざわつかせていた。

…何? なんでこんなにゾワゾワするの?

わかんない。

真っ白だった頭の中が今度はぐちゃぐちゃに混乱する。

頬を覆い尽くす痛みと熱、奴の声、…そして、見上げたときに一瞬だけ見えた歪んだ笑顔が私の脳内を掻き乱していた。

…あんなギラギラした顔、初めて見た。

いつも本心を隠したような無機質な笑顔しか作らないくせに。

なんであんな顔してたの?

…私にビンタして、興奮したの?

ゾワゾワする。息が苦しい。何で?

「…刺激が強すぎましたか?」

「っあ…!!」

打たれた頬を指先で撫でられ、不意の刺激に私は大げさなくらい肩をビクつかせてしまった。

今まで出したことのない甘ったるい声に驚き、慌てて口を結ぶ。

そんな私の反応に、さすがのコイツもキョトンとした顔を浮かべていた。

「…天音さん?」

再び奴の声が鼓膜を揺らす。

目を合わせることができない。

今すぐにでもこの場から逃げ出したい。

…拘束を解かれている今なら、逃げ切れるかもしれない。

私は奴に気付かれないようそっと体に力を込める。


「…また、叩いて欲しいですか?」

「……っ!」

その問いかけにドクンっと心臓が脈打ち、思わず息が詰まった。

…あの衝撃を、もう一度…?

そう思うと痛みのとれかけていた頬がジリジリと疼き出した。

…この胸の呼応。

私は間違いなく“期待”をしてしまっていた。

なんで? どうして?

絶対おかしい。落ち着けよ自分。なんでこんなにドキドキしてるんだよ。なんで…っ

「天音さん」

「……っ」

名前を呼ばれても私は顔を視線を上げることができなかった。

今、奴と目を合わせたら…呑み込まれてしまう。

この、腹の奥底で燻っている“得体の知れない感情”に。

「天音さん。こっちを向いて。…顔を見せて下さい」

そういう奴の声は淡々としているわりにどこか気迫がこもっているようだった。

…そんな声を発しながら奴はどんな顔で私を見下ろしているんだろうか。

脳裏にあの一瞬だけ垣間見えた笑顔がよぎり、再び胸の奥がざわめき立つ。


ダメだ。もうこの場にはいられない。逃げなきゃ…っ

私は床につけていた手にギュッと力を入れる。


「…もしかして、…君も、僕と同じなんですか…?」

「──っ!?」


…おなじっ?

同じって何が? なんの話っ?


奴の言葉に訳も分からず動揺してしまい、勝手に速くなっていく鼓動を抑えるために私は無理やり息を呑み込む。

──とその時、不穏な空気を打ち消すかのように、澄み渡ったチャイムの音が教室いっぱいに鳴り響いた。


それが鳴り終わらない内に奴が静かに立ち上がる。

「…放課後にまた来て下さい」

それだけ言い捨てると、奴の気配がゆったりと遠のき、ドアがガラガラと音を立ててそしてパタンと閉まった。


「…っふ、はぁっ!! はあっ、…はあ!」

奴が完全に去ったと同時に身体が脱力し、私は抑えていた空気を一気に吐き出した。

そして頬に残る感覚を打ち消すためにゴシゴシと腕で頬を拭う。

…でも内側にへばりついた熱い痺れは全く弱まろうとしない。

…嫌だ。こんなのおかしい。

こんなの私の体じゃない…!

熱をもたげる己の身体を否定し続ける脳内に、奴の声が反芻する。

『君も僕と同じなんですか?』

同じってなんなの?

わからない。

…わかりたくない!

何度も何度も奴の言葉を打ち消して、私は自分の中で芽生えようとしていた何かを心の奥深くに押し込めた。


もう、これ以上あいつには関わらない。

そう言い聞かせて私は逃げるように理科室を後にした。


・ ・ ・ ・ ・


内容がまるで頭に入ってこない不毛な5時間目とHRを終え、運良く掃除などの当番がなかった私は一目散に教室を飛び出した。

急ぐ気持ちを抑え、「走るな」と注意を受けないように早歩きで玄関へと向かう。

常に背後は気にしているが、奴が追ってくる気配はない。

良かった…。このまま帰れる…!

難なく玄関にたどり着き、私は安堵のため息を吐いた。

──が、それはたちまち絶句へと変わる。

下駄箱にあるはずの私の靴が、ものの見事に持ち去られてしまっていたのだ。

「…アイツ…っ」

教師のくせに、ここまでするか普通!?

推測しなくても目に浮かんできた犯人の姿に急激に怒りが沸騰し、私は踵を返してまた足早に廊下を突き進んだ。

燃え盛る苛立ちに任せ、ズンズンと階段を荒く踏みしめて理科室のある階へと上り詰める。

そしてその勢いのまま目的地へと向かおうと歩を進めると、横から「天音さん」と神経を逆なでるあの声色が私を呼び止めた。

「こっち」

振り向いた私に軽く手招きすると、奴は理科室とは違う方向へと歩き出した。

歩幅のデカい奴に早く追い付こうと、私は軽い駆け足で奴のあとを追う。


「理科室は今掃除中だから」

そばまでたどり着くと、私よりも先に奴がそう口を開いた。

「そんなのどうでもいいです。靴返して下さい」

「いやでーす」

「はぁ!? 返せよ!教師がこんなことしていいと思ってんのっ?」

「だって今夜はキミを帰したくないから」

「ふざけんな…っ! もういいっ、他の先生に全部言…っきゃあ!」

脅しをかけようとしたその瞬間、乱暴な力で制服の襟元を掴み上げられ、私は思わず女々しい悲鳴を漏らしてしまった。

余計なことを言わないで黙って逃げれば良かった…。

けれどそんな後悔の念は、奴に見据えられた途端に真っ白に散っていった。


「絶対逃がさないよ」

焼き焦がされるんじゃないかと思ってしまうほどの煮えたぎった視線に射抜かれて、金縛りにあったかのように身体が固まり尽くす。

「やっと、見つけたんだから」

そう言い捨てると奴は私の手首を掴んで、足のすくむ私を半ば引きずるようにして再び歩き始めた。


…見つけた、って何? 私をどうするつもりなの…っ?


「僕はずっとずーっと探し続けてたんですよ。自分の欲望に応えてくれる女性を」

困惑する脳内に奴の声が鐘のようにこだまする。

「天音さんは僕に叩かれたとき、どう感じましたか?」

「…は…っ? どうって…意味わかんないっ…」

絞り出した声は自分でも情けなくなるくらい震えていた。

「僕は君の反応を見た瞬間、心臓が震え上がりました。やっと出会えた…、そう思いました。…でももしかしたらこれは僕の勘違いかもしれない。ただの見間違いかもしれない。──だから、」

「きゃっ…!!」

見慣れない教室の前にたどり着くと奴はドアを手早く開け放って私を教室の中へと引きずり込んだ。

中はホコリっぽい机や段ボールに埋め尽くされ、過去の体育祭や文化祭で使われたっぽい装飾品があちこちに乱雑していた。

どうやらここは倉庫…もといゴミ放置場として使用されているらしい。

「この辺りは滅多に人は通らないので、好きなだけ呻いていいですよ」

「ひっ…!」

あまりに殺伐とした教室の風景に見呆けていると、奴が背後から私を抱きすくめた。

抵抗しようにも身体も声も引きつったままでどうすることもできない。

めまいがするほどの動悸が体中に響く。

頭の中がぼうっと白く霞んでいく。


「確かめさせて下さい。あのとき見た君の反応は見間違いじゃなかったのか。本当に君は僕と同じなのか」

「…っあ…!」

奴の手がブラウスの中に入り、乾いた指先が腹をそっと撫でる。

冷たく不気味な感触に私はビクリと身体を強張らせた。

…逃げなきゃ。

早く逃げなきゃ…!

そう思っているのに体が動かない。



『嘘』

そのとき不意に、押し殺したはずの得体の知れない感情が私の脳に浸食して声を響かせた。

『本気で逃げようなんて思ってない。…本当は期待してるくせに。これから起こる事を待ち望んでるんでしょ?』

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