▼ さどまぞ‐03
「──ッああぁ!!」
違う!…そう自分自身に否定をしたと同時に突然体に鋭い痛みが突き抜け、その衝撃にもう一人の自分もろとも思考が真っ白に弾け飛んだ。
胸に食い込む奴の固い爪。
それがこの強烈な痛みの原因だった。
「…ぅあ、あ゛ぁ…ッ!」
じわりじわりと力が加算され、爪が皮膚に深く食い込んでいく。
無意識に加減をしてしまう自傷とは比べものにならない痛撃に呼吸さえもままならず、私は体を強張らせて口をぱくぱくさせながら呻き声を上げるしかなかった。
「っあ…! は…、はあっ!ぁ…っ!」
永遠に感じるかのような長い痛みを味わわされた後、徐々に手の力が緩んでいき、奴から解放された途端に私は糸が切れた人形みたいにその場に崩れ落ちた。
ズキン、ズキン、ズキン
そんな擬音がはっきりと聞こえてくるような痛覚が左胸から体中へと駆け巡る。
頭の中は完全に真っ白に染まり、何も考えることができなかった。
どうしてこんなことを? なんて簡単な疑問さえも出てこない。
恐怖心もない。
ただただ、焼け付くような痛みに支配されていた。
…そう。
身も心も全て、激しく熱せられていくような痛みに…。
「顔を上げて下さい」
うなだれる私の前に奴が腰を落とし、私の顎をそっと掴む。
無理やり顔を上げさせられ、見たくなかった奴の顔が視界いっぱいに映り込む。
そして奴は私の顔を見て、…ニコリと笑った。
「やっぱり間違いじゃなかった」
まるで少年のような嬉々とした笑みに体の中枢がゾクッと打ち震える。
…これ以上は駄目だ。呑み込まれるな。
霞む脳内で、今にも消えかかりそうな自制心が必死に警報を上げる。
…けれど、私は抵抗することができなかった。
痛みの先に垣間見えた“何か”
その曖昧な何かを突き詰めたい…確かな形にしたい、という本能が私をこの場に縛り付けていた。
「呼吸が落ち着かないですね。まだ痛いですか?」
伸びてきた手に左胸を撫でられ、ビクッと身体が跳ね上がる。
荒く息を乱しながら私は真っ直ぐに奴を見つめて恐る恐る頷いた。
「そう。良かったね」
「──ぅあッ!!」
胸に触れていた手が瞬時に首へと移動してそのまま私を床へと押し倒す。
完全に脱力していた私は固い床に激しく打ち付けられ、理科室のときよりも醜い「あぐっ」と潰れたカエルのような声を漏らした。
「もっと苦しめてあげる」
そう言いながら奴は私の上にまたがり、もう片方の手も首にかける。
「っあ…!! っ、っ…く…!」
グッ…と力が加えられ、締め上げられていく首。
たちまち息苦しさと強烈な圧迫感に襲われ、自分でもわかるくらい私は顔を苦痛に歪めた。
「〜〜っは…!! ゴホッ、は、はあッはぁ!」
手の力を緩められ、途端に流れ込んできた空気に思わずむせ返る。
まるで貧血のときみたいに目の前がクラクラと歪んで、妙な浮遊感に包まれる。
「いい顔だね」
必死で酸素を吸い込む無様な私を見下ろしながら、奴はそう言って楽しそうに笑った。
「もうわかったよね? 自分の本性がどんなものなのか」
「…っ…」
“本性”
その言葉に胸がぎゅうっと締め付けられる。
もし……、はい。と認めてしまったら
私は一体どうなってしまうんだろう。
今までの自分が打ち砕かれてしまいそうで
とんでもなく醜くて無様で下品な自分へと成り変わってしまうような気がして
怖くて、でも全てをこの男に委ねてみたいと思ってしまう自分もいて、苦しくて、どうしたらいいのかわからなくて…
私は何も答えられないまま涙のにじむ目を固くつぶって顔を背けた。
「…そっか。まだ否定してるんだ? 本当の自分を」
「っふ!…ぅ…っ!!」
再び首に添えられた手に力が加えられていく。
さっきよりも強く強く、呻き声すら上げられないくらいに首が捻り潰される。
「自分を曝け出すのが怖い? でも不安がることなんか何もないんだよ。全部見ててあげるから」
頭がジンジンと痺れる。
ゴーーッというような耳鳴りが脳を揺さぶり、意識が真っ黒な闇にジワリジワリと浸食されていく。
「僕はね、天音に出会えて嬉しくて嬉しくてしょうがないんだよ。この欲望に応えてくれるのは君しかいない。だから天音の本性を引きずり出せるのはきっと僕だけだ」
無我夢中で酸素を吸い込もうと喉を引きつらせると、ゼロゼロと空気が抜けるような醜い音が口からこぼれた。
自分から出たとは思えないその奇怪な音が可笑しくて、こんなときなのに笑ってしまいそうになる。
爪を立てられた左胸が熱く疼く。
表面も、そのずっとずっと奥も。
「一緒に堕ちてよ。もう自分で自分を傷つけなくていい。この手首の傷よりももっとグッチャグチャにぶっ壊してあげるから。…だから、本当の君を僕だけに見せて」
「──ッ…あ゛…!」
・・・・・・
意識が闇の中に溶ける。
暗い。
暗い。どこまでも真っ黒な世界。
でも今までだって私はそんな世界の中にいたようなものだった。
…誰とも溶け込めなくて、独りぼっちで、本当は堪らなく寂しいのに強がって、
そしてひねくれて、他人を見下すことで孤独感を紛らわして…
自ら創り上げてしまった孤独の檻の中で私はただ独り、息を殺して閉じこもっていた。
冷たい。暗い。
手を伸ばしてもどこにも届かない。
今さら「寂しい」と声を上げたって、きっと誰にも届かない。
何も楽しくない。生きている心地がしない。
…そして私は自分で自分の体を傷つけた。
きっかけは何だったかわからない。
とにかく何か、刺激が欲しかったのかもしれない。
手首に走った鋭い痛みは、私に不思議な安心感を与えてくれた。
凍り付いていた身体に疼きと熱を広げてくれた。
痛みだけが、暗闇に生きる私の唯一の拠り所となった。
…孤独に押し潰されそうになるたびに自らを傷つけて痛みに溺れる。
傷は次第に深くなっていく。
このまま私はいつか自分で自分を殺してしまうのかもしれない。
でもそれでいいと思ってた。
冷たい檻の中で独りでひっそりと朽ち果てていこうと思ってた。
…けれど、今、
その檻は私ごと踏み壊されてしまった。
そして今度は、奴の檻の中へと引きずり込まれようとしている。
・・・・・・
「──っ、…ぐ…ッッはあ!!ゲホッ、ゴフッ…ゴホッ!はっ、はぁっ、ゲホッ!」
圧迫から解放され、私はハッと我に返る。
どのくらい首を絞められていたのか、途中から意識が曖昧になっていてわからない。
もしかしたら少しだけ気絶してしまっていたのかもしれない。
なにか夢を見ていたような気もする。
不明確な記憶に混乱しながらも、私はグルグルと回る視界の中で目の前にいる男の姿を捉える。
「はあ…っ、はぁ、はぁ…っ」
血液の流れが正常を取り戻し、だんだんとめまいが解けていく。
その感覚に心寂しさを覚え、それを訴えるように相手の目を真っ直ぐに見つめる。
…まだ溺れていたい。
この、苦痛の先にある“快楽”の中で。
もっともっと…私を壊して欲しい。
今までの自分が全部跡形もなく打ち砕かれるくらい、
その手で、眼で、声で、私をめちゃくちゃにぶち壊して…!
「…せ、んせぇ…っ」
相手のことを求めて口からこぼしたその声は、はしたないくらいに高く上擦っていた。
先生は私を見下ろしたまま何も言わずにニコリと微笑む。
その表情にゾクッと胸をくすぐられ、私もふと口元を緩ませた。
──バシッ!
「……っ!!?」
けれど、突然弾けた痛みによって、微笑みは再び苦悶の表情へと瞬時に塗り替えられた。
「ひっ…!」
──バシィッ!
「ぁぐっ!!」
髪を掴まれて強制的に顔を正面に向き直され、息をつく間もなく反対の頬にも平手を打ちこまれる。
理科室のときよりも遥かに強い衝撃にたちまち脳が痺れて涙がこぼれた。
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