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確固たるものが無いと言うことは、そうなると万里のあの恐ろしい力が解らなくなってしまう。
否定をされてしまったら、目の前に突き付けられたあの恐ろしい光景をどう受け入れたらいいのか解らなくなってしまう。
そして、自分の頼れる人間が…

ネイルケアのされた美しい手が咲弥の頬に触れたが、それは冷たくて嫌な感触だった。悪魔のことを知りたくて尋ねたが、アレッサンドロは自分の味方をしてくれるのでは、という期待もあったからだ。
しかしその傲慢な期待は、呆気なく外れてしまうものだ。

「ともかく、旧約聖書は古すぎる上に、新約聖書も少しずつだけど変化しているヨ。魔法が発見されたのがキッカケで、過去の福音書が見直され改訂されることも増えたみたいデネ。だからヨブ記なんて古い象徴はボクは分からない。専門家がローマにいるから勉強したいならイントロ…あー紹介?しますよ」
「…いえ、それは大丈夫です。でも、悪魔は…」
「スィニョール皇?」

心配そうな声で名を呼ばれるが、手の温度は変わらない。何故だろうか、これなら万里の方がましだと思ってしまう。

「アナタの言う悪魔は、"居る"の?説やアレゴリーではなくて、この世界に"居る"ことが前提?」

そもそも自分を生贄として差し出したローマの人間の内の一人だ。事情は知らないのだろうが、それでもローマの人間であることには変わりない。
憎むべき者である。しかし万里も憎むべき存在だ。どちらも嫌い、酷い…だが、万里の方が、まだ…

『私はなにを考えてるんだろう。もう、なんか分かんない…』
「そしてそれはヨブ記の悪魔?あのね、聖書は人が作ったと言ったネ?そして悪魔は異教徒のことだとも言ったよ。だからマンガに出てくるようなデーモンは居ないはずだ」

何を信じたらいいのか。
でも自分は見たんだ、あの恐ろしい光景を。
あの瞳を。
悪魔は"居る"んだ。
それなのに上手く言葉に出来ず、恐がるように首を横に振った。

するとアレッサンドロは呆れたように、もしくは苛立ったように肩を落とし、日本人の象徴学博士を紹介すると言った。日本人なら連絡も取りやすいし、咲弥のことも知っているだろうから紹介しやすいと言っていた気がする。


「先生、私はバカになってしまったのでしょうか?」
「やめて皇。アナタがおバカなはずは無いよ。ただ、センサイ過ぎただけです。何かに悩んでいるなら、ボクではなく博士に訊いた方がきっと気が楽になりますよ。シッカリ伝えておきますネ」

教師らしく生徒を心配し、頬に一つキスを受けて頭を撫でられた。それでも悪魔は居ないと言われたショックは大きく、沈んだ気持ちは浮くことは無い。