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「…残念ですが、後者です」
「その通り。どんなに頑張ってもそれは覆されません。そして、仏の道を邪魔するものは悪魔であると言いましたよネ?
つまり悪魔は、」

不死鳥が不意にアレッサンドロの肩から離れ、デイジーの照明を中心にして頭上を一周した。その炎の輝きが映っただけなのだろうか、アレッサンドロの美しい青い瞳がオレンジのような金色に輝き、ゆらゆらと揺れる。

「異教徒。ヒトのことなのです」

万里の悪魔の目のように。

「………」

しかしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはもとのほのかに灰がかった美しい青に戻っていた。
咲弥はカップを強く握りながら固唾を飲み、「はあ、」としか言えず、その青い輝きから目が離せなくて、寒気を覚える。
そんな咲弥の心中なんて知らないとでも言うように、不死鳥は好き勝手に飛ぶと、ローテーブルへと着地して、お行儀良く羽をたたみ座った。

「ギリシア語の新約聖書では使徒のパウロと教父アウグスティヌスが、異教の神と悪魔を同一だと記述していマス。アウグスティヌスは『神の国』第10巻で、人を欺くダイモーンの危険性を指摘した新プラトン学派の哲学者、ポルピュリオスの不徹底を批判してダイモーンはすべて…うーん、悪いオバケみたいな言葉ってありますカ?」
「えっ、えっと…悪霊ですかね」
「それ!アクリョウ!ダイモーンは全部悪霊であり、異教の神々は悪霊が偽装したものであるとしました。元々人類はキリスト教信者でしたが、異教徒が現れました。それはつまり、天使が堕天して悪魔になったという言われもあるのデスよ。ヒジョーに過激で危険な思想です」
「昔はそれほど不安定な時代だったからでしょうか?」
「ソウデス。昔は不安定でした。仕方ないデス。ユタカではなかったんですよ」

豊かではなかった。
昔は不安定だったから仕方ない。
それなら、そう言うのならば、万里の存在は?

「悪魔は、信仰の危機・個人主義・自由意志・智慧・啓蒙などを象徴するアレゴリーとみなされていたりもしマス。なので悪魔はヒトなのです」

咲弥はこの目で見たのだ。サタンの粒子だって、操られた仁のあの生気の無い顔だって全て見た。この目で思い知らされたのだから。
それなのに悪魔は人間?そんなわけが無い。悪魔はこの学園にいる。その事をアレッサンドロ・マルコーニは知らないと言うのか?

「し、しかし、お父様がカメルレンゴならご存知かと思いますが、ヨブ記の悪魔はどうなのですか?魔女狩りやホロコーストを行った悪魔は!?」
「ヨブ記ですカ…魔女狩りはヨブ記には何のカカワリもありませんヨ?」
「でも、悪魔はヨブ記にも出てきますよね?その悪魔のことです。今でも何か説とか、研究とか…そういったことはないんですか!?」

悪魔が人なのなら、ヨブ記の悪魔はどうなるんだ。そこで否定されてしまったら今まで見てきたことやされてきたことはどうなるんだ。
アレッサンドロにそんなことを言われてしまっては、どうすることも出来ないじゃないか。
不安と焦りがどっと吹き上がり、頭が痛くなる。それを誤魔化すように鼻から大きく息を吸い、奥歯を噛み締めた。

「研究?…うーん、スィニョールはヨブ記の悪魔のコトを知りたいのかい?」
「はい、そうです…!」
「フン、」

そんな咲弥を見て何かを感じとったのだろうか、アレッサンドロは考え込むように顎髭を撫で付けながら、机上をじっと見つめる。言葉を探しているのか黙り込んでしまったが、暫くすると自分に納得したように数回頷き、こちらに向き直った。

「ヨブ記は旧約聖書だからネ…アノネ、そもそも聖書は少しずつ少しずつ変化してるンですよ」
「変化ですか?」

ぎこちなさそうに説明を始めた教師に対し、驚愕して目を見開く。
とんでもないことをこの男は言ったぞ。聖書が変化?神からの言葉を綴った書だと認識していたのだが、そういうものでは無いのだろうか。変化させていいものなのだろうか。その小さな体の中にある不安の風船が更に膨らんでいく。

疑問をそのまま顔に出すと、アレッサンドロは再び咲弥の隣へと腰かけ、不死鳥を撫でながら言葉を続けた。

「解っているとは思うケド、新約聖書はある日突然、お空から神がドーノしてくれた本ではありません。人の手で書かれたものです。今のように科学と魔法が平和的に存在する時代に出来た本ではなく、不安と混沌に満ちた時代の史記として書かれたモノです。そしてそれは大量に翻訳、増補、改訂を経て段々整えられました。聖書の決定版は歴史上一度も存在してまセン」
「…え、そうなんですか?」
「ソオです。恐るべき影響を備えたイエスの生涯を、各地にいた数千の信者がそうやって記録に残しまシタ。まあ、基盤はコンスタンティヌスが作りましたが、コンスタンティヌスは元々は異教徒です。彼は実に賢い。自身の宗教よりもキリスト教の勢力が圧倒的に強いと確信すると、そちらにくら替えしました。そして自身が信じる宗派とキリスト教を上手に掛け合わせ、双方が納得出来る象徴や儀式を創り出しました。ハーフ?混血ですか?の宗教にしてしまったのです。……オー…話が長くなってしまいそうだ」

なんということだろうか、そんな簡単に宗教の伝統を替えられてしまえるのだろうか。そして、いくら勢力も地位も歴史もある素晴らしい宗教だとしてもそんな事を聞いてしまったらとても危うくて脆いものと思ってしまうではないか。