熱の条件 | ナノ






「そういえば、お名前きいてなかったね。俺は幾森花織(いくもりかおる)って言います。君は?」
「…中野島直人です」
「まさとくんかぁ。どう書くの?」
「直線の直に、人です」
「へぇ。じゃあナオトくんって間違えられるでしょ?」
「ああ、まあ」

その間違われ方の話は、自己紹介をするたびに言われる色褪せたネタだ。直人的には「ああはいはいまたこれね」と言った感じなのだが、何故だろうか。この幾森花織という男にはあまり不快感は生まれない。

「俺もね、花織って字が、草花の花に織物の織だから、よく女のコに間違われたんだよ。今はちゃんと男って判る見た目だから間違われないけど、中学までは結構訊かれたから、いちいち男ですって言うのいやだったなぁ。まさとくんも、いちいち訂正するのメンドーだったでしょ?」
「まあ、そうっすね」
「だよねぇ。あははは、勝手に親近感」

花織は嬉しそうに笑い、緩やかにウエーブがかった前髪を耳にかけた。
仕草が色っぽい。年上特有の色気だろうか。直人の周りにはあまりいない人種だ。見えた耳が陶器のようにつるりとして白くて冷たそう。

「まさとくん、梅味と卵味、どっちがいーい?」
「梅でお願いします」
「はぁい。…出来ましたよー」

汁椀に入れられたお粥と、スプーン、そしてマグカップに水を入れて運んでくる。アッサリしたいい香りが食欲をそそる。そういえば、帰宅してから何も食べていなかった。
体は単純なもので、食べ物を目の前にしてぐうと胃袋を鳴らす。

「いただきます」
「はいどぉぞー」

花織がニコニコと微笑みながら、向かい側に座った。頬杖を付きながらこちらを観察する彼に、食べにくいからやめてほしいと伝えると、素直に視線を反らしてスマートフォンを触り始めた。
細い指が液晶の上を滑っていく様子が、優雅に踊っているように見える。

梅干が乗ったお粥は予想通りの味で、気持ち良く胃を温めた。ぐらぐらと煮立たせているのかと思ったが、温度は丁度良く、舌から全身を温めていくような適温だ。
体の中から凝り固まった筋肉をほぐしていくようなそれに、直人は深く息をつく。

「美味いです…」
「うん、よかったぁ」

優しく柔らかいご飯に、直人好みの塩加減。空腹だった腹をじわりじわりと満たし、寂しさを温めてくれているように感じる。
なんの変哲もないお粥なのに、毛布でくるまれたかのような安心感を覚えた。とてもほっとする味なのだ。

『そういえば、母様以外の手料理なんて初めてじゃん…』

何故そう感じるのかなんて、少し考えたら分かる。他人が作った手料理を初めて食べるからだ。
直人自身が作る、味気の無いたんぱくでヘルシーな料理でも無ければ、母や祖母が作る、もう忘れてしまった昔の味とも違う、勿論、プロが作ったものとも違う。素朴であたたかみのある手料理を口にするのは初めてなのだ。

直人がスプーンで口に運ぶ度に、花織は嬉しそうに口角を上げる。直人が頼んだとおりにこちらを見ないように努めているが、やはり美味そうに食べているのは伝わるのだろう、可愛く「ふふ」と照れ笑いしたのが見えた。

『この人、なんなんだろ。なんか…すごい安心できんだけど』

白い頬を少しだけ染めて、気恥ずかしそうに下唇をちょっと噛みながらスマートフォンをいじる姿が、純粋に可愛らしい。そして、彼特有なのだろうか、ほわんとした空気感が直人の冷たくなった心をほぐしてくれているみたいだ。

だから、言いたかった。
花織に聞いてほしいと思ったのだ。

「僕、友達と喧嘩したんです」
「……うん」

突然の告白に花織の手が止まり、視線がこちらに向く。
驚いてはいない。どこまでも静かだ。

「喧嘩じゃないか…僕が一方的に酷いことしちゃって、それで、友達泣かせたんです」
「うん」
「泣かせたくなかったんですけど、気が付いたら、僕が最低なことしてて…一方的に酷いことしてて…それがショックで飛び出して来ました」
「まさとくん…」

嘘だ。友達ではない、"好きな人"だ。でも、桜介は友達だと思ってくれていた。少なくとも直人があんなことをするまでは。
その、彼からの好意を最低なやり方で踏みにじってしまったのだ。嗚呼、自分はなんて酷い人間なのだろう…

「大和って知ってますか。ここの上にある男子校なんすけど、僕、そこの生徒なんです」
「全寮制のところだっけ?」
「はい、だから、寮にいたくなかった」
「…そっか」

そこまで言うと、花織は滑るようにこちらに移動してきて、直人の隣へ座った。細い手が直人の左手に重なり、優しく握られる。柔らかくて気持ちがいい。