熱の条件 | ナノ







停電は一時的なもので、大したことは無かった。
少し経つとすぐに復旧したので、明るい室内で桜介はアキラの頭の下にクッションを敷き、横へ向かせ眼鏡を外した。
アキラが過呼吸を起こしていると判断した桜介は、呼吸を整えなければならないと思ったのだ。

「ひっ、ひっ、ぃっ」
「アキラくん、聞こえますか。ゆっくりと息を吐いてください。ふーって、十秒かけてゆっくりです。大丈夫ですよ、僕はここにいますから」

言いながら彼の背中をゆっくりと摩る。
リズムを作るように上から下へと撫で下ろし、カウントをする。壁掛け時計があって良かった。心臓が物凄い速さでドキドキと鼓動しているから、時計がなければゆっくりとカウントなんて出来ない。
緊張で目の奥が痛む。

「少しずつでいいので、ゆっくり吐いてください。いち、にぃ、さん、しぃ…」
「ひっ、はっ、はぁ、ひっ…!」
「大丈夫です。怖くないですよ。大丈夫…僕の手、掴んでて下さい。ごぉ、ろく、しち、はち…」

それでも、続けなければ。アキラを助けなければ。
彼の指が白くなる程に力いっぱいパーカーの裾を握られている。相当苦しいようで、ぶるぶると震えていて、異常性を見せる。
壊れた人形のように、ガクガクと震え、引きつけを起こす姿は、普段の完璧な姿からは掛け離れ過ぎていて、恐怖を覚えた。
シャツが乱れて腹が見えているし、前髪が汗で張り付いている。口の端からは唾液が垂れる。こんな彼の姿は初めてだ。
これは、もしかしたら桜介だけの処置では駄目かもしれない。
最悪、人を呼んで…

『人を呼ばないと…でも、制裁は…いや、そんなこと言ってられないよ』

もし桜介のやり方が失敗したら…

「きゅう、じゅう……いち、にぃ、さん、しぃ…」
「ひんっ、ひっ、ひー、ふ、はぁ…」
「ごぉ、ろく、しち、はち…」
「ふ、う…はぁ、はっ…」

幸いなことに、背中を撫でながらカウントを続けると、徐々に震えが落ち着いてきた。
呼吸も吸うだけではなく、ちゃんと吐いている。

『大丈夫。大丈夫…』

カウントを続け、汗が滲む冷たい背中を宥めるように摩る。濡れている額も拭ってやる。アキラが桜介にしてくれたように…

以前テレビで見たやり方が通じるのかは分からないが、少しずつ治まってきたのは実感できた。
このまま呼吸が整えられれば安心だ。

「は、はぁ、はぁ…ふぅ、」
「アキラくん…うん、上手です。そんな感じです。そのまま、ゆっくり吐いて、吸う時は自分のペースで…」
「ふー、ひっ、ふー…はあ、はあ…」
「はい、そうです。その調子ですよ」
「すー、はー…」

声かけを繰り返し、時折カウントをしてリズムをとらせる。
そうすると、指に入っている力が弱まっていき、硬直している体も弛緩してきた。
もう少しだ。桜介は懸命に声をかけ、カウントを続け、汗や涎を拭ってやった。
桜介の額にも汗が滲むが、自分の事は構っていられない。流れ落ちるそれを無視して、アキラにだけ神経を使う。

その努力が実ったのだろうか、遂に寝息のような静かな呼吸へと変わった。

「すー、すー…」
「……アキラくん、苦しくないですか?」

返事はない。眠ったらしい。
額に手を当てると、温かさが蘇ったように感じた。汗も今は出ていない。
眉間に寄ったシワは、弛緩して伸ばされているし、変に力が入っていた手もくたっとしている。

「良かった…」

力んでいた肩も今はぐったりとしていて、クッションへ沈んだのを見て、安心した。
呼吸が整い脱力している。震えもない。タオルで汗を拭ってやり、彼のポケットからアキラのスマートフォンを出した。
以前、二人の関係は彼の親友である貫地谷鐐平が知っているとアキラが言っていた。鐐平は寮長だし、三年生の寮に来てもおかしくはないと思う。
悪いとは思うが、アキラのスマートフォンから鐐平に連絡して、力を借りよう。

『多分、それが一番いいかもしれない』

鐐平がいてくれたら安心だ。

だが、その安堵は続かないもので……


−ガチャガチャ…ガチャン!

「!!」

刹那、玄関のロックが外れ、扉が開く非情な音が桜介を襲う。
残酷な金属音が響き、これでもかと耳に入り込み、現実を突き付ける。

最悪だ。
嗣彦が帰宅したのだ。