トラットリアにて3

それからはその少年の手元を意識的に見ないようにした。私は教えるという行為が得意ではないな。教師という道を選ばなくてよかった。選んでいたら人生は違っていて、今此処には居ないだろうけど。

「ねぇ、アンタさ」
「‥なに?」 
「アンタ割り算得意?」
「どちらかと言えば不得意ね」
「そっかァ、じゃあいいや」

鉛筆の走る音が聞こえる。
言われたから気になったけれど、いいやと言われたままに視線は鉛筆には向けず入り口をそのまま見ていた。

「誰だテメェ」

相当ぼんやり見ていたのだろう、人が入って来たのがわかりながらも理解してなかった。低めの声と共に目の前に長身長髪の男性が現れた!紫の唇してる!美意識がめちゃくちゃ高そうだわ!

「この前ひったくりの話があったろ?それの本人でミスタ待ってんだって」
少年が他人事のように呟いた。視線はノートのまま。
「お、お邪魔してます」
「そうだな、そこ邪魔だな」
うん、不穏だわ!初対面に向けて邪魔とか言うかしら。お邪魔しているってのはちょっと失礼しています、くらいでしょ。本当に邪魔って酷いわね!
口に出そうだった言葉を、人の5倍気を張っていきようと頑張る私は飲み込むことに成功した。
けれど長身男性の冷たい視線に誘導されるように立ち上がった。その隣の椅子に腰をおろした彼をみおろせば、あぁそこが彼の所定の位置なのね、隣は嫌なのね、そう納得して1つ間隔空けて私も座った。

「アバッキオさぁ、あのCD聞いた?」
「あぁ、これから聞く」
「隠しトラックあるんだぜ」
「ナランチャ、悪いがその後ろの雑誌取ってくれ」

2人の会話を聞きながら、この少年はナランチャ、紫の唇はアバッキオ、ここにいる人の名前くらいは覚えることが出来た。
ナランチャはたまに私の方を見る。アバッキオという彼は一瞥もくれない、なんて冷たい人なのだろう。印象最悪ね、なんて深く息を吐きながら思った。

「‥アンタ」
「わたし?」
「名前は?」
「イチです、綴りは」
「綴りはいい。ただ知らないと不便だからな」

不便て何よ、思ったけれど留めた。無愛想なアバッキオに言われて少しむずかゆかったから。
「あなたはアバッキオでいいのかしら」
「そうだよ、アバッキオだよ」
アバッキオが発する前にナランチャが答えてしまって、つい「あは!」笑ってしまった「違う方から聞こえたわ!」。

何か知っているようなこの感覚に絆される。
「あなたはナランチャね」
「なんで知ってんの!」
「そう呼んでいたからよ」
ナランチャの驚いた顔がかわいくて、つい笑ってしまった。アバッキオは気付けばヘッドフォンをつけて、雑誌から視線をあげない。
ナランチャと目を合わせ「聞こえないかな?」、いたずら心が芽生えてしまったわ。
「アバッキオー」
最初は小さな声で呼びかけた。もちろん気がついてないようだった。ナランチャともう一度目を合わせるとその心がエスカレートしていくのがわかった。
「アバッキオー」
「なに聞いてるのー?」
「オシャレさーん」
「紫ずきー」
交互に呼び掛けていた、けれど。
「アバッキオー」
バサッと雑誌を叩きつけるように閉じたから「‥聞こえてた?」。つい、やり過ぎてしまったかな。なんて伺ったら「丸聞こえだボケ」。意外と穏やかな声が返って来たのでもう一度笑ってしまったわ。

::::::::::

気がついたときには薄暗くなっていた。
あれからアバッキオの携帯電話が鳴って彼はすぐに出ていった。それから程なくして戻ってきてナランチャを連れてまた出ていってしまった。
すぐに戻ってくるだろうと楽観視していた私は薄暗くなった部屋のなか「え、っと、どうしよ‥」、なんてまだ座りこんで考えていた。

ドアの向こうは夜の準備をするトラットリアの景色がみえる。店員さんと目があって、ついヘラッと笑って、この締まりのない笑い顔きをつけなくては、なんて思ってみたりもした。

「あの、えと、ここの人たちは何処へ?」
「‥さぁ」
「戻りますかね?」
店員さんは少し間を置いて、それからうーんと唸って「わかりません」。

そうよね!わからないわよね!

一言聞いておくんだったな、失態だわ。ネアポリスまで来て何をやっているんだか。自分の無能さに呆れながら、とりあえずバッグを掴んで「すみません、帰ります!」、そのトラットリアを出ようとした瞬間だった。
「ぅわっ!」
白いスーツがいきなり目に飛び込んでた。

いや、私が飛び込んだんだ。

「すまない、大丈夫か」

穏やかな声。
よろけて壁に張り付いた私をそっと起こすように手を引いてくれる。
一瞬でわかった。
この人、素敵だわ。
「あっ、大丈夫、‥です」
取られた手にドキドキしながら背筋を伸ばす。なぜドキドキしているのかな、雰囲気かな。顔を見ればまっすぐにこちらを見る凛々しい表情があった。それはすぐにふわりと崩れて離れたけれど。艶々した黒髪と白いスーツ。開いた胸元からみえるその肌。見えるところすべてが印象的だな、と動く姿を目で追った。
そしてその人が隣を抜けた時に、やっと後ろにいたもう一人に気がついた。

「イチ!」
「ミスタ!」

よかった!会えた!

「なんだ来てたのかよォ!早く言え!」
「言えないわよ!連絡先知らなかったんだもの。あぁでもよかった!パネッテリアはお休みだし、ここで待っていたら皆どこか行ってしまうし!」
安堵ってのはこの事を言うのね!
深く息を吐いたら肩の力も一緒に抜けたのがわかったわ。

「皆、とは」

白いスーツの人がこちらを見ながら言った。
たぶん、きっとこの人がブチャラティさんなのだろう。思いつつも「えと、」言葉に詰まってしまった。

どこから話せばいいのだろう。
ナランチャたちのことだけか。今日のこと、いや、先日のひったくりのこと。頭のなかで整理立てている最中「とりあえず、入ろうぜ」、ミスタの一言によって私は店の中に戻ることになった。


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