通いなれたそこに、今日は一人で立っていた。整った部屋だったが、テーブルの上には何かの雑誌が広げられたままになっていて、その隣には丁寧に包まれた小包があった。それらをさっと横目で見、そして洋服棚の前で止まった。
紙袋を持って病室に入った。中には先客がいて、ノックせずに扉を開けたことを後悔したのだが、その客は気にした様子もなく俺を振り返った。
「カカシ、来てたのか」
「…まあね。…やはり、あの時の毒が原因で?」
彼はいつものやる気のなさそうな目のままだ。俺も持っていた紙袋をハルの眠るベッドの脇に置き壁に背を預けた。
「ああ、」
それっきり、俺もカカシも黙り込み、じゃあ、と彼が病室を出るまでずっと沈黙が続いた。規則正しい呼吸を続ける彼女が、あと1か月もしないうちに死んでしまうとは思えなかった。
だいぶ暗くなった空を見ていると、何かが動いた気がした。そちらをむけば、ものではなく人――ハルが目を覚ましたのだ。
「ハル、」
『ゲンマさん?』
彼女が眠っている間にあれだけいろいろ考えたことは何一つ口から出てこない。代わりに、まだ顔色の悪いハルをそっと包み込んだ。あれ、と俺の腕の中で首をかしげるのはもちろん彼女だ。
『ゲンマさん、怒ってないんですか?』
「怒る?」
『…一楽ラーメンで、』
彼女に言われて漸く思い出した、本選の前に何やら喧嘩らしいことをした、と。
『あれからずっと口を聞いてなかったから、もうしゃべれないだろーなって思ってました』
「そんなことでしゃべれなくなるわけがないだろ、ガキじゃあるまいし」
笑っていた彼女はしかし、ふと俺から目をそらし、窓の外を見た。大事な話があります、と再び俺を見たハルの目はまっすぐだった。
もう残り少ない命だと彼女が言うのを待っていた。いつもは、彼女が隠してしまう部分を俺が聞き出していたのだが、今回は彼女に自分の口で言ってほしかった。わがままを言ってほしかった。
『別れてください』
「は?」
『…別れたいんです』
しかし彼女の口から出てきたのは全くちがう言葉だった。「別れる」と言う選択肢は俺の中にはなくて、言葉の意味がわからなかった。いや、受け入れられなかったのだ。
さようなら、と彼女は再び窓の外に視線を移した。
「…そうか。なら、ハルの服はそこに置いてある。…じゃあな」
先ほどベッドの脇に置いた紙袋を指さして彼女に示した後、扉を開けて誰もいない廊下に出ると、トンと後ろで扉が閉まる音がした。その音が妙に耳に残ったのは、俺とハルとの間に壁ができたように思ったからなのかもしれない。扉が閉まって、完全な壁が出来上がってしまったのだ。
うちはイタチ、干柿鬼鮫が現れ、カカシの意識が戻らなくなったという知らせが入り、俺も中忍試験以来の任務に出ていた。隣にはおなじみのライドウとイワシ。三人一組だ。
なあ、と先ほどから何度も声をかけてくるのはライドウの方で、彼が何を口にしようとしているのかはだいたい想像がついた。そしてそれ通りに彼が言葉を紡ぐ。
「いいのかよ、このままで」
「いーんだよ」
「だがハルは、お前のためにああ言ったんだろ」
「…わかってる」
何故ハルが別れ話を切り出したのか。彼女はきっと、俺を傷つけまいとそうしたのだ。自分が死ぬことを明かせば、嫌でもその理由を俺が知ることになる。あの時の――俺が彼女を守れなかったときの――毒が原因で死ぬのだ、と。
「ハルの最初のわがままなんだよ、あれが。…あいつは、別れれば俺が幸せになると思ってるんだ。そう思うなら、それをかなえてやるのが俺の役目だろ、」
「…ゲンマ、」
「そろそろ行くぞ。こんなところで世間話しなんかしてても任務は終わんねーからな」
しんみりした空気を振り払って、里の外へ一歩足を踏み出した。
俺の帰りを待ってくれる人はもういない。
長くて幸せな夢を見ていた
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