あなたを好きで



「き、傷……手当、しないと……」
「これぐらいどうってことない」
「お、俺が、嫌だから……」
「……救急箱なんて大したものは置いていないが……まぁ、部活が部活だから、ラックのあたりにまとめて置いてた気がしなくもない。ほとんどテーピングと湿布くらいだが……」
「わ、わかった……あのあたりは整理したから……」

山姥切が立ち上がってラックの方へ向かうと、大倶利伽羅は少し落ち着く時間が必要だと判断したのか、ソファに深く沈んで、それくらい深く、息をついた。山姥切は上から下までラックを眺めて、テーピングを見つけてから、そのあたりを少し探した。そうしたら、大きめの絆創膏と包帯を見つけることができた。できれば医療用テープも欲しいが、包帯で固定してしまえば、なんとかなるだろう。消毒液もあったが、消毒液はきちんと殺菌できるわけではないし、傷の治りを遅くしてしまうので、そのままにしておいた。

「えっと……す、すまない、キッチンで、傷を洗おう……」
「……わかった」

大倶利伽羅がゆったり腰を持ち上げるのより早く、山姥切はパタパタとキッチンへ走り、これから手当をする自分の手をきちんと洗って、それからポケットに入れていたハンカチで手を拭おうとしたのだけれど、そう言えば今着ているのは大倶利伽羅の服で、ポケットなんかないと気がついたし、なんなら襟ぐりが肩のあたりまでずり落ちていることに気が付いた。それをなおしたいけれど、両手は水に濡れていて、どうしよう、と思っていたら、キッチンに入ってきた大倶利伽羅が無言でそれをなおしてくれた。

「あ、ありがとう……」
「……個人的にはまぁ、そのままでかまわないし、ぐっとくるものがあるんだが、あんたが恥ずかしいだろうと思って」
「……だらしがないだけだ……と、とにかく手……」

大倶利伽羅が右手を出すと、そこは傷だけでなく、青く内出血を起こし、少し腫れていた。だから山姥切は、その傷を「い、痛いだろうけれど、我慢してくれ……」と洗いながら、「氷、あるか?」と尋ねた。大倶利伽羅は「冷蔵庫の、製氷室にある」と答えた。大倶利伽羅は濡れていない左手でキッチンペーパーをとり、それを山姥切に渡し、自分も右手を丁寧に拭いた。山姥切はそこらに置いてあったキッチン用ポリ袋に氷を詰めて、「た、タオル……」と大倶利伽羅を見たら、大倶利伽羅も山姥切のやりたいことがわかったらしく、収納からタオルを取り出して、傷の上にタオルをのせた。山姥切はさらにその上から氷の入った袋を当てて、患部を冷やした。そうして時間を計り、次に伸びないタイプの包帯をきつく巻く。そこからまた時間をはかって、時間になったら包帯を外し、大倶利伽羅は言われる前に右手を心臓より上にあげた。また時間が経ってから、山姥切はなるだけ剥がれないように、と、患部をまた綺麗にしてから、小さなハサミで絆創膏に切れ目を入れたり、三角形に切り取ったりして、丁寧に処置をした。最後に伸びるタイプの包帯を少しだけきつく巻いて、「あんまりきつくないか?」と尋ねたら、「ちょうどいい」とかえってきた。それまで大倶利伽羅はされるがままになっていたが、思い出したように、「そういえば、あんたも中学はバスケ部だったな」とぼそぼそ言った。

「……そう……だが……」
「いや、まぁ、はじめ、俺の練習見に来てくれとは言ったが、ルールもわからんのに、退屈でないのかとすこし思っていた。その時はすっかり忘れていて……こんなスポーツ傷……まぁ今回は違うが……その手当なんてどこで習ったんだ、と、考えて、今思い出した」
「……弱小だから……あんたのトレーニングとか、パスとか、ドリブルとか……全部次元が違うんだなっては思ってた」
「ポジションは?」
「……フォワード。中学バスケだから、スモールもパワーもない」
「俺と一緒だな」
「あ、あんたは……スモールフォワード……」
「……ところで、なんで高校以上のバスケ知識があるんだ?」
「……スラムダンクで読んだ……い、いや、嘘はいけない……も、黙秘権を行使する……」

そうして山姥切りがきゅっと口を結ぶと、大倶利伽羅はじっと山姥切の目をみて、それからその閉じられた唇に、唇を重ねて、山姥切が驚いて後ずさろうとしたのを、左腕で捕まえて、右手で頭を支え、何度か角度を変えた。そうして、山姥切がぎゅっと目を閉じたら、その唇をべろりと舐めた。山姥切が「やっ……」と声を出したらその隙間から舌を入れて、じゅっと音を立てて、山姥切の舌を吸って、いいように、うまいこと山姥切を侵食していった。そうして、息を継ぐタイミングで「黙秘権を行使するなら、あと十分はこのまま粘るが」と伝えると、山姥切は「ひ、卑怯……」と言って、またきゅっと口を閉じるのだけれど、大倶利伽羅の金眼にどうにかされて、結局、「あ、あんたが……バスケ部だから……公式ルールとかオフェンスディフェンススタイルというか……まぁ色々……覚え直した……かなり更新もされてるから……」と結局白状する。そして白状したのに、大倶利伽羅はなぜかキスしてきて、山姥切を抱き寄せて、もうどうしようもないという風に、ぐちゃぐちゃにした。そうして、ぎゅっと山姥切を抱きしめながら、ぼそぼそ、その髪の毛に頬を寄せながら何事か言い始める。

「……明日何限からだ」
「……?……一限……」
「二限は?」
「入っていないが」
「……一限ってなんだ」
「統計物理学……」
「教科書は?」
「いや、レジュメと板書だけの授業だけれど……」
「前回のレジュメ、使うのか?」
「いや、毎回違うのを配ってるな。前の内容ももちろん使うけれど……」
「なら、今晩泊まっていってくれ。ルーズリーフなら何枚でもやるから」
「……え」
「服は洗って、乾燥機付きだからそれで乾かす。すまないが、午後の実験のノートや資料は二限の間にとりにいってくれ。で、昼休みは、体育館に、来てほしい」
「ちょ、ちょっとまってくれ!?」

山姥切が困惑した声をあげると、大倶利伽羅は身体を少し離して、けれど手は山姥切の首の後ろで組んでいて、近い距離で少し目を伏せた。

「……今、あんたを離したくない。あんたと一緒にいたい。……自分の方がずっと痛い思いして、ガタガタ震えて、でも俺の自業自得の怪我を、綺麗に手当してくれたあんたを、またひとりにしてしまうのが怖い。あんたがこわいくらい純粋で、健気で、可愛くて、それをすとんと受け止められる自分が、正直不思議だ。こんなのははじめてなんだ。なんにもしないって、約束するから、今晩だけ、一緒にいよう。話をして、抱きしめて、それで、なんにもこわいことなんかないんだって、それを確認しよう。……ものすごい我が儘だ。あんたを束縛してる。恰好が悪い。それくらい、なりふり構っていられないくらい、すきだ。でも、いい意味でも悪い意味でも、執着はしても、依存は、したくない……それを、たしかめたい……ちゃんと……と言ったら聞こえが悪いが、すきなんだって、たしかめていたい……いま、だけ」

大倶利伽羅の言葉がポツポツと山姥切の肌に染み入るたびに、山姥切の瞳は揺れて、最後の方をするりと耳に入れてしまったら、それが涙になった。どこかで麻痺していた感覚が、やっと、やっと全部戻ってきた。本当はずっと泣きたくて、泣きたくて、今までも何回か泣いていたけれど、そういう涙じゃなくって、もっとずっと沢山泣きたくて、でもそれを我慢していて、けれど大倶利伽羅の前ではなんにも繕えない。だから、ぽつぽつ、「こ、こころみたいなものが、やっと、戻ってきた、みたい」と言った。そうして、首の後ろの大倶利伽羅の左手をとって、二人の間で、山姥切の右手とぴったり重ねて、その大きさは全然違うのに、けれど隙間ができないことが、嬉しかった。

「……ここに、あったんだ、俺の……こころ……」

手のひらからぬくもりが充分なほどに伝わってきて、それでずっとずっとあたたまっているのに、それがずっとあたたかくって、同じ温度に慣れないのが、不思議だった。空気がゆったりと流れて、ふたりは肘を曲げて、膝を寄せて、どこかの神様が創ったきまりのように、それくらい自然に、抱き合った。そうしてはじめて、山姥切はわんわんと、大きな声をあげて、赤ん坊みたいに、幼稚に、「怖かった」だとか「ごめんなさい」だとか「さびしかった」と、ぼとぼと、涙を流すように、凝っていたものを全部全部吐き出して、大倶利伽羅もそれに「ああ」だとか「うん」だとか「悪かった」と、泣いてはいなかったけれど、大粒の涙のようなかたちをした言葉で、吐息で、応えた。


そのずっと後、やっと落ち着いてから、コンビニで買ったものだけれど二人で夕食を食べて、大倶利伽羅は決まり事のようにストレッチと筋トレをして、山姥切はそれをずうっと眺めていた。大倶利伽羅が「なんだか、やりづらい」と言って、大学生の部屋にあっていいのかという三十五インチのテレビを点けて、話題のバラエティ番組を流しても、山姥切は大倶利伽羅の、ゆったりと、時には急速に収縮したり、隆起したりする筋肉の流れを、天の川を見上げるような眼差しでみつめていた。小さな宇宙があるようだ、と、山姥切はそう思って、「すごいなあ」と呟いたら一緒に筋トレをさせられそうになったので、やっとおとなしくバラエティ番組を見た。けれど全身で、大倶利伽羅の存在を、それが動いているのを、たしかめていた。それが幸福で、笑った。そうしたら大倶利伽羅に「今のところそんなに面白かったか?」と聞かれて、山姥切は「俺のツボ、変なとこに……あるから……」とぼそぼそと可愛い嘘をついたのだけれど、すぐに嘘は嫌いだなあと思って、正直に、ぼそぼそと、「あんたがいるのが、幸福で、笑ってた」と言った。そうしたら大倶利伽羅は「……今、汗だくじゃなかったらあぶなかった」と言ってきて、山姥切は「別に汗だくでもハグくらい、なんとも思わないが」と答えて、大倶利伽羅は頭を抱えた。それから無言で筋トレを再開して、山姥切はまた、ぼんやりとテレビの明かりに照らされながら、自分が着ている大倶利伽羅の服をぎゅっと握って、また少し笑った。

大倶利伽羅が先に風呂に入って、それから山姥切が風呂に入ったのだけれど、シャンプーがメンズのスース―するやつで、ボディーソープもなんだか肌に優しくない、とても汚れを落としてくれそうなざりざりの混ざったようなやつで、洗顔料を見ても明らかにメンズもので、山姥切は「ううう」と、風呂場でうずくまった。コンビニに行った時に、旅行用の歯磨き類や基礎化粧品と一緒に旅行用シャンプー等も買っておけばよかったと思った。基礎化粧品のパックには洗顔料が入っていたがしかし、すっかり忘れてリビングに置いてきてしまっていた。バスボムもないし、アウトバストリートメントもないし、ボディクリームなんて勿論ないし、山姥切はなにひとつ女性らしい香りを身に着けられそうになかった。そうして脱衣場で化粧水と乳液だけ肌になじませてから、「うう……可愛いにおいがしない……すべすべが足りない……肌が突っ張ってる……明日気合入れて整えないと……」とめそめそしていたのだけれど、ふと自分の髪や肌から匂いたつ香りが大倶利伽羅のそれで、なんとか見繕ってあてがわれた新しい着替えも全部、大倶利伽羅のにおいがして、それから脳内大倶利伽羅が「俺は別ににおいがどうのこうのという価値基準であんたを見ていない」と言ってくれて、実際の大倶利伽羅もきっとそう言うだろうと想像がついて、安心して、満たされるような気持ちになった。そうして髪の毛を丁寧に乾かし、脱衣場を出てから大倶利伽羅に「はは、俺、あんたのにおいしかしない」と言ったら、大倶利伽羅が山姥切のうなじあたりにすんすんと鼻を近づけて、「そうでもない」と言ったから、「え、俺って体臭きつかったのか……デオドラントスプレーとかあったら、借りたいんだが……今度から気を遣わないと……」と返した。そうしたら大倶利伽羅が少し笑って、「そういうことじゃない」と言って、広いソファに山姥切を連れていき、広いのに身体をくっつけて、いつもならノートやレジュメを広げている時間だけれど、見たこともない恋愛ドラマの何話目かを、ふたりで眺めた。会話は全然関係ないところで始まって、二人の声は途切れ途切れなのに、それはずうっと繋がって、部屋の中に落ちて、沁み込んで、空気になった。ふたりはそれを吸って、眠る時間になったら、山姥切が風呂に入っているあいだに掃除機だけかけたと思われる、寝る前に読んでいるらしいスポーツ力学の本や、ろくに目を通したかわからない、折り目のついていないファッション雑誌や、付箋が貼られた昔の思想書が床に積み重なっている部屋で、眠りについた。

大倶利伽羅のベッドはセミダブルで、山姥切の部屋のベッドよりずっと広かったのだけれど、ふたりが仰向けに横になっても少しの余裕があったのだけれど、ふたりは自然に向き合って、抱き合うようにして、ひそひそとまだ何かで会話をしながら、ゆっくりと微睡んで、眠りについた。こんなに自然に、こんなに満たされて、寂しさや不安や恐怖に飲み込まれない眠りはいつぶりだろうと、山姥切は少しだけ考えたけれど、それもずっと深い、しばらくその深度まで到達できていなかったノンレム睡眠に飲み込まれて、レム睡眠のあいだに、途切れ途切れに、あたたかい夢をみた。コップに注がれた水が、零れるでもなく、足りないでもなく、飲むのにちょうどいいくらいの量で満たされていて、山姥切はそれをゆっくりと、ゆっくりと飲み干してゆくように、眠った。


翌日には部内総会が設けられて、そこでは無事に山姥切の疑いが晴れ、ガセを流した主犯格の女子生徒は退部処分にされ、学生課にもきちんとその旨を届け出たと長谷部から連絡があった。総会議には鶴丸を含むOBやOGも出席し、なんなら鶴丸が明石を研究室から引っ張り出してきて画像のなんたらかんたらをつつきながら説明までさせたらしい。そして芋づる式に何名か共犯が見つかって、その生徒も退部処分にしたとのことだった。部内総会は昼休みの間に行われたので、山姥切はその間、天文部の怖い女子生徒たちがいないギャラリーで、コート全部を使ったバスケ部の大会を目前に控えた、ピリピリと空気が張り詰めているような本格的な練習を見学した。「すみません、すみません」と謝りながら場所を開けてもらって、ちゃんと真ん中で、大倶利伽羅を視ていた。大倶利伽羅は、練習中は絶対に視線なんか投げてこなくて、それがずっと恰好いいと思ったし、五分休憩の時はすうっと山姥切に、少しの間視線を投げて、すこし笑った。それで沢山の黄色い声があがったのだけれど、山姥切だけがきゅっと胸に甘い痺れを感じて、あ、ここにちゃんとある、と、なにかわからないけれど大事なものを、たしかめた。けれど、その戻ってきたものによって、自分によって起こった問題が、どこか遠くで、誰かの手によって解決されてしまうことについて、何か薄暗い想いを抱いたのも、確かだ。それがどういう感情なのかわからないし、どうしたらよかったのかも、勿論、わからない。

山姥切の中ではもうずっと昔のように感じられる様々の問題や不安、とにかく全部のことがどこか遠くで片付いて、新しいものが目の前に広げられた。山姥切の精神面を考慮したのと、ここまで大事になってはそれなりの上級生が出るしかないとのことで、文化祭の屋台の運営責任者は日本号になった。山姥切はその補佐ということになったが、ほとんどの計画や計算は山姥切が済ませてしまっていたので、面倒なごたつきが解消されたぶん、かなりスムーズに文化祭準備は進んだ。日本号はきちんと仕切って、やることをやって、ほとんど山姥切に仕事を任せず、むしろ副部長の女子生徒を仕事面では立ててやって、かといって山姥切の功績をその子にやるような真似はせず、それらはきちんと山姥切の功績として評価を広めながら運営をした。だから山姥切にとって文化祭準備は今までよりずっと楽しくなったし、普段喋らない部員ともきちんと会話ができた。手を挙げれば、声が小さくても、ちゃんと誰かが話を聞いてくれて、それがダメだったらダメで代案が出されて、いい案だったら、それはそのまま採用されるか、さらにブラッシュアップされて採用された。それを全員でやっていって、誰かひとりに責任を負わせるようなかたちではなくって、みんなで一緒に何かを創り上げていくような感覚が、大倶利伽羅と一緒にいるときとは違う幸福感や満足感になって、それを積み上げていったらきっと、達成感というやつになるのだろうなあと思った。そのためには頑張らないといけないけれど、その「頑張る」というのも、前までの寒くて苦しい「頑張る」じゃなくって、みんなで支え合って、「頑張る」んだっていうのが、言葉にできない感情で光り輝いていて、その雫ひとつで、胸がいっぱいになりそうだった。

それから、文化祭の一週間前に、大倶利伽羅の所属するバスケ部が出場する大会が終わった。決勝は文化祭の一日目に行われるのだけれど、大倶利伽羅のチームは準決勝で惜しくも敗退し、その日のうちの三位決定戦で三位にはなったのだけれど、大倶利伽羅は試合後、濡れたユニフォームをジャージで隠した格好で、その会場の裏の喫煙所に立っていた。山姥切はその試合も、前日の試合も応援に行ったのだけれど、そのどうしようもない悔しさの詰まった背中にかける言葉が見つからなくて、なんて声をかけたらいいかわからなくて、結局そのまんま大倶利伽羅に見つかって、「……恰好、つかないとこばっかりだな、最近」と、呟かせてしまった。山姥切はそんなことはないと言いたかったけれど、試合に出たわけでも、練習に参加したわけでもないのに、ずっとずっと悔しくて、何が悔しいって、応援しかできない自分が悔しくて、その悔しさが喉に詰まって、声の代わりに涙が出た。

「なんであんたが泣く」
「……っ……」
「……いつも言っていて、申し訳ないが、泣かれると、困る」
「……っく、悔しいって、……おもっ……」
「……悔しい結果を残して、すまない」
「っちが、……お、俺……応援、しか、できな……なんにも、できな……」
「……応援して、くれた。それだけで俺はいつまでだって走れると思った。どんなシュートでも決められると思った」
「……で、でも……」
「…・・・あんた一人の応援、それだけで、俺は、いつもよりずっと調子がよかった。あんたは応援しかできないんじゃない。あんたは俺を、応援して、くれるんだ。それに応えることができなかった自分が、……なんだろう……駄目だな。この先を言ったら、またあんたに怒られるし、あんたがその先を言っても、俺は怒るんだろうな……」

大倶利伽羅はふう、と黒い煙草から出ているとは思えない白い煙を吐いて、どうしようもない表情になった。だから、山姥切はずっとずっと言えないでいた「恰好、よかった」というセリフを、その煙の勢いよりずっと強く、吐き出した。

「あ、あんたは、努力、してた……頑張ってた……。僻みや、嫉みとも闘って、頑張って、た。く、比べちゃ、いけないのかもしれないけれど、俺も今回……文化祭の件で、そういうのに、直面した……。そういうのと闘うのって、すごく疲れて、すごく、怖くて、すごく、寒い、んだ……。で、でも、あんたのチームメイト……スタメン……控えの選手……そういう人たちは、あんたを、支えていたし、きっと、あんたも、その人たちを支えてた……。さ、最近知った、んだ、けど、そういう人たちと、目標に向かって『頑張る』っていうのは、すごく、楽しい……。た、大変なのに変わりはないけど、楽しい……んだ。三位っていう結果は、もしかしたら、あんたたちのチームにとっては……悔しい結果、かもしれない……いや、スポーツやってたら……優勝以外って、結構、軽視されがち、だと思う。けど俺は、恰好いい三位だと思う!あんたは寒い闘いもして、それに負けないで、頑張ってた!俺は、そんなあんたが、すごく、恰好いいと思う。……結果がすべてと言われたら、それまでだけれど……この三位に至るまでのあんたの歩んだ道は、きっと輝いていて、その先にある表彰状も、きらきらしてると、思う。だから、俺は、あんたのこと、恰好いいと思うし、そういうあんたが、すごく……すきだ……」

大倶利伽羅はいつの間にか吸わないうちにフィルターまで灰になっていた黒い煙草を銀色の吸い殻用スタンドに押し付けて、落として、それから汗がまだ乾いていない髪の毛をガシガシと手で掻いて、「あー……」と、情けない声を出しながら、その場にしゃがみこんで、それから、「俺、汗まみれだな」とぼそぼそ、呟いた。

今日の日程は午前中に準決勝を体育館の二面でそれぞれ行って、午後に三位決定戦をフルコートで行うというものだった。大会中一日に二試合をやることはバスケでは基本的だが、フルコートで試合をするのは決勝か三位決定戦か、全国大会くらいかもしれない。面積的には変わらないのだけれど、プレッシャーが、違うのだ。山姥切は一度だけ、練習試合でフルコートに立ったことがあるが、いつもと同じ面積のはずのコートがひどく広く感じられるし、何より、観客全員が視ている、という、プレッシャーが、圧が、すごかった。練習試合でアレなのだから、大会でのフルコートというのは、恐ろしいほど体力を奪うのだろう。それにこの大会で用意されている表彰状は三位までだ。これで汗まみれでなくって、乳酸漬けにもなっていない選手なんて、いないだろう。

だから山姥切は大倶利伽羅の言わんとしていることがわかって、「俺はそういう価値基準であんたを視ていない」と言って、大倶利伽羅の手を優しくとって、立ち上がらせて、自分から、ぎゅっと大倶利伽羅を抱きしめた。

「汗で濡れてる」
「うん」
「デオドラントもしてない」
「あんたのにおい、すきだ。デオドラントが混ざったにおいも好きだけど、あんたのあんただっていうにおいが、すきだ」
「……なんだろう、俺は、あんたよりうまく、言い訳ができない」
「うん。……すきだ、大倶利伽羅。すごく、恰好いい。……お疲れ。おめでとう。……あいしてる」

山姥切が恥ずかし気もなく、あんまり自然にそう言うから、大倶利伽羅もその背中におずおずと腕を回して、抱き寄せて、肩に顔をうずめた。いつもより、どうしてか力のこもっていない、抱き方だ。山姥切は試合で疲れているのだろうとしか、おもわなかったけれど。そうして大倶利伽羅はぼそぼそ、「あんた、いい匂い、する」とだけ、言った。その顔の、目のあたりが当たっているところが、冷えはじめた汗より暖かく濡れて、山姥切はいつか、大倶利伽羅がブラックデビルの箱を捨ててしまえればいいのに、と、思った。けれど同時に、ブラックデビルを吸っている大倶利伽羅は好きだし、眺めていたいとも、思った。ブラックデビルの煙は大倶利伽羅の肺に入らないけれど、山姥切の香りは、大倶利伽羅の肺のすみずみまでを、満たすだろう。


大倶利伽羅の大会が終了した後、文化祭準備もきちんと進んでいた。遅くはなったが大倶利伽羅もそれに少し顔を出して、男子の方に「なんかやることあるか。バスケ部の方もまあ、一年とかOBで屋台やるが、適当なやつだから、こっち手伝う。まぁ、なぜか客寄せはしろと言われてシフトには入っているが」なんて話しかけている。農学部の不機嫌王子から名前の通り不機嫌そうに話しかけられたかわいそうな男子三人は、テントの組み立てやら炭起こしやらの担当だったのだけれど、どうにも、しどろもどろになって、結局日本号が「お前は客寄せだ客寄せ。どうせ何作るかもわかってねーんだから。そうだな、あれだ、写真サービスでもしとけ。焼きそば買ったらお前と一緒に写真撮れることにする。まぁシフトの時間帯だけ」と適当なことをぬかしつつ、少しミーハーな、看板づくりを担当していた女子グループに放り込んで、「力仕事はこいつにやらせろ」と言った。看板は木の板に模造紙を張り付けて作るので、女子グループはその模造紙に描いたロゴのあたりを塗ったり、装飾のイラストを描いたりしていた。大倶利伽羅は頼まれるがままに、大本になる木の看板を起こしたり、運んだり、使いまわしているせいで釘が緩んでいたところは工具を使って補修をしたりした。

山姥切は金銭面の最終調整で日本号と副部長の女子生徒、それから数字に強い男子生徒とで細かい打ち合わせをしていたのだけれど、大倶利伽羅がもたもたとやっと作業を終えるたびに「おい」と、次はなにをすればいいのかと不機嫌王子の顔で、たどたどしく部活に参加しているのを横目で見て、ああ、自分は今まであんな風だったんだな、と、思った。山姥切もコミュ障だが、大倶利伽羅も体育会系ではそうでもないのだろうが、ここではコミュ障野郎にしか見えなかった。話しかけるのが女子だと丁寧に面倒をみられているが、男子だとものすごい勢いでキョドられている。基本的に言葉が足りないのだ、大倶利伽羅は。山姥切は男子でも女子でもそうだったのだけれど、今は随分溶け込んだなあと、思った。

「種類は違いますが、価格は一緒なので、販売した数だけ計算しましょう。計算方法は、売ってる人は多分いっぱいいっぱいで数えてる暇がないと思うので、材料の減った分から売れ残った分を差し引いて算出すれば、そのまま出ると思います」
「あー……そうか、一個に使うぶんの材料っていうか、一回転で五パック分作るって分量がきっちり決まってっからなあ。たしかにそれなら売れたぶんは把握できるわ。で、まぁアレだ、釣りやら売上金の管理なんだが、一人とか二人に任せるのは危ない気がすんだよ。けど大人数でやってもぐちゃぐちゃになりそうでよ……」
「シフトでレジ係に二人ずつ配置すれば余裕があると思います。だから、余裕のあるぶんでそこまでのお釣りを含めた全額をメモして次のレジのシフトの人に引き継げばいいんじゃないですか?メモは捨てずにとっておいてもらって。お釣りははじめからどれくらい用意したかちゃんと帳簿につけておいて、あとから差し引けばいいと思います。二時間交代で一日目は午後四時間だけですが、二日目は午前四時間と午後四時間……その間にイベントがあるので、レジ係は八人固定で、念のために、負担が大きくなりますが、責任者の日本号さんと、私と、責任者補佐も金額はこまめに把握していく形で」
「せいぜいちょろまかす奴とか出ないよう見張っとくわ」
「……ええと、二日目の朝に仕入れる材料の量、なんですけど、一日目の売り上げ……一日目は午前で終わってしまうので、ほとんど十二時台が無いですし、一日目は二日目に比べて人があまり多くないと……統計が、出ているので、一日目の売り上げを鑑みて、……二倍にして、半分割り増しにすれば……多分丁度いいくらいだと思います。来てくれる外部の人は例年、一日目の三倍程度になるんですが、イベントの時間中は売上がかなり落ちるので、……それくらいが妥当かと……」
「あーそうだなあ。だいたいそんなかんじだ。でも一日目の売り上げが良けりゃ、まぁ純利益は二万くらいになるわけよ。で、目標の純利益は五万なわけで、残り三万を二日目で回収できれば万々歳。こういう時欲は出さん方がいい。だから一日目の売り上げ次第で、全員で話し合うのがいいかもしれない。売り切れはいいが、売れ残りは処理が面倒だしな。食材は翌日に持ち越せないから……あーそれ考えたら、大倶利伽羅の写真サービス、一日目にもってくっか。シフト調整して。一日目は学内のやつが多いんだから、売れるだろ。農学部の不機嫌王子と写真撮れるなら。なんならコスプレさせっか?王子様の。……やっべ、今想像したけど、あいつ死ぬほど白馬が似合わねぇ……ダメだ……」
「え、えっと……バスケ部の屋台、スタメンはユニフォームでやるって言ってました。寒いので部活指定のジャージとウィンドブレーカー、上から羽織るんですけど……どっちも前が開くんです。大倶利伽羅の背番号、二十三で……NBAの、レブロンジェームスと、同じ番号……で……」
「あ、NBAってなんか今、ネットじゃすげー話題だよなあ。なんだっけ、ヒート?ってチームにすげぇ三人が集まったとかで」
「そ、そう……です。で、その三人の中の一人が、レブロン……」
「よし、じゃあアレだ、そのレブロンっぽくしよう。えーと……なんだっけ、なんかのニュースアプリで見たわ……いいや、ウィキペディアで。……へーこいつ、背中に『CHOSEN1』とか入れてんのか……『選ばれし者』ねぇ……よし、研究室にデカいシール作成機があったな……なんかロゴ作成に使うとかで。それで『CHOSEN1』ってシール作ってウィンドブレーカーだかなんだかの背中に貼りつけてやろうぜ。そうすりゃ男も面白さ半分で集まるだろ」

それからもいくつか真面目な話をしたのだけれど、日本号が大倶利伽羅に一日目のシフトの約束をとりつけてくる前に、ひそひそと山姥切に「なぁ、自分の彼氏が他の女子にちやほやされるっつーか、他の女子とまぁ不機嫌とはいえ写真とるの、どーなのよ。正直なところ」と聞いてきた。山姥切はどうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら、「え……べつになんとも……大倶利伽羅は……絶対嫌がるとは思いますが……」とだけ答えた。日本号は妙な顔になって「ふーん。オーケー」とだけ言って、大倶利伽羅が出来上がったらしい看板を立てかけているところに話をしに行ったようだった。そのあと何か言い合いのようなものが聞こえた気がしたが、山姥切は聞こえないふりをした。その聞こえないふりの間に、交換条件として二日目に山姥切がメイド服で客寄せをするという話が立ち消えたのだけれど。


文化祭の前日は全ての講義が休講になった。だからテントを配置したり、段取りの最終確認をしたりしたのだけれど、それは午前中で全部終わり、あとはみんなで雑談をするような時間になった。山姥切はこのまま家に帰ってもすることがないので、なあなあのまま部室やその周辺でその輪にいたのだけれど、喉が渇いたから、と、荷物ごと財布を持って部室棟から一番近い国道沿いのコンビニに行った。そうしたら何故かそこに大倶利伽羅が待ち構えていて、「おい、買い物、行くぞ」と言われた。

「……?俺は喉が渇いて……今からここで飲み物と、ついでに昼食べてないから何か買うつもりなんだけれど……一緒に入るか?」
「……いや、そういう買い物でなく。まぁ、喉が渇いたなら、とりあえず飲み物だけ買ってこい。飲み物だけだからな」
「……?……わかった」

山姥切はまだ胃が本調子ではなかったので、適当にウィダーを買う心づもりでいたのだけれど、大倶利伽羅にそう言われてしまったので、「水……」と、どうしてこんなにたくさんの種類の水が並んでいるんだろうと思うくらいの種類の天然水やらなにやらの中から、「これ、なんでか飲みづらくてお腹に溜まるんだよな……」と、コントレックスのボトルを手に取った。山姥切はテレビも見なければネットも最小限で、なんなら図書館で新聞を読むような人物であるからして、その謎の女子力の塊の象徴をレジに通すことについてなんの抵抗もない。

コンビニからテープの貼られたそのボトルだけ持って出ていったら、大倶利伽羅が少し眉を寄せて、「あんた、まだ胃やらなにやら本調子じゃないだろ」と言ってきた。

「……ん?……まぁ……脂っこいものとか、重いものとかはまだ……吐き気がたまにあって……スープとか温野菜とかなら……」
「その水、硬水だぞ。それも超硬水。日本人の体質にはあまり合ってない。健康を害すレベルでは全くないがな。最近ダイエットだなんだともてはやされているが、別段効果のない水だ。あんたがそんな目的でそれを買うとは思えない。適当に選んできたなら、俺がそこの自販機でスポドリ買ってやる。吐き気が出ているなら電解質の方がいい。自律神経系は持ち直すのに時間がかかる」
「え、そうだったのか……知らなかった。なんというか、飲みにくくってお腹に溜まるから、最近飲んでいたんだが……そういえば……最近下痢が酷かったな……これのせいか……」
「あんたの持っているその女子力というわけのわからない力学で言うところの数値が高いらしい水と彼氏の前なのに真顔で下痢とか言うあんたのそういう謎の図太さが大変噛み合っていないのは置いておき、スポドリにしろ、スポドリに。その水は俺が飲むから。で、昼飯は俺と食え。サラダバー……いや、……生野菜は良くないな……たしか駅にスープ専門店が入っていた。結構腹に溜まるらしいし、パンか米もついてくるから炭水化物も摂れる。文句あるか」
「いや、……無い……けれど……ええと、買い物と聞いたが」
「昼飯食って、買い物をする」
「……俺はあんたのそういうところが多分好きなんだと思うんだが……最近身に着いた知識なんだが、彼氏力という謎の力学があるらしい。で、さっきのあんたのセリフについて、それが随分足りていないデートへの誘い文句に聞こえる」
「……妙な知識をつけてきたな。……あー……ええと……ああ、もう、いいから黙って俺についてこい。どうせデートに行くぞとか言うと赤面するくせに」
「う、うるさいな!駐輪場からチャリとってくる!」
「……俺はロードレーサーなんだが」
「行くのは駅前なんだな!?じゃあ正門から出て上田通り経由にしてくれ!少し遠いが歩くから!あんたも歩け!チャリは家に置いていく!」
「……まぁいいか。あんたの家の駐輪場に俺のロードも置かせてくれ。どうせ送ってくんだから」
「……」
「ほら、赤面するんじゃないか」


二人は並んで自転車を引きながら歩いて大学の正門まで行き、細い通りから上田通りに抜けた。その途中で山姥切が「なあ、別に俺が家まで自転車で行って自転車置いてきて、あんたはロードで中央通りの家にロードとめて、駅前で待ち合わせで良くないか?」と山姥切が意見したが、大倶利伽羅は「まぁ、別に、もう上田近いし」と言って、それについて別段取り合わなかった。そうして山姥切のアパート前まで来て、山姥切は駐輪場に自転車を停めて、大倶利伽羅はロードレーサーを駐輪場の隅の支柱にチェーンでダブルロックをかけた。スタンドがないというのは存外不便なものだなあと山姥切はそれを見ていたのだけれど、大倶利伽羅は「靴、それでいいのか?」と山姥切の脚元を見た。山姥切が履いていたのは五センチほどあるコーンヒールの、オレンジがかった赤のパンプスだった。

「え、あ、えっと、その、なんだろう、今日は全然……お風呂とかも気合い入れて入ってなかったし……け、化粧はちゃんとしてるけど、服……パーカーにスキニー……。ええと、す、すまない……あんまり可愛くない……隣を歩くのが恥ずかしい……」
「いや、充分かわいいからべつにいい。というか、服装とか何着ててもあんたはあんたなんだから、あんまり無理しないでくれ。いや、俺のために可愛い服を着ているあんたは本当に可愛いからすきだからまぁたまに見れればそれでいい。ほんとにたまにでいい。逆に俺なんか上はともかく、下はこれ、部活用のスポーツウェアだ。俺が気にしているのは、まぁここから駅まで結構歩くが、そんなヒールであんた歩けるのか、と。行きはともかく、帰りまで」
「……あ、歩ける」
「……薄皮一枚でも靴擦れをしたら筋トレがてら強制的におぶって帰ると言ってもか」
「あ、歩けるから!」

じつはこの靴は明日からの文化祭で、少しでも大倶利伽羅に可愛く見られたいと思って今日おろしたものだった。当日におろしては靴擦れが酷いだろうから慣らすだめに、だ。それまでも家の玄関や駐輪場までの間を少し歩いてはいるけれど、こんなウェッジヒールでもない、最近履き慣れたチャンキーヒールでもない、不安定なコーンヒールで駅前まで歩くまではいいがそこから買い物をして帰るなんてことをしたら色んなところが出血大サービスになるかもしれない。けれど今日の自分の服装の中でデートに見合うだけの可愛い成分が含まれているのはこのパンプスだけだった。パーカーは文化祭に向けて動くことが多いけれど、ちゃんと女の子っぽいやつ、と、最近買ったものだった。流行っているのか少々大き目の、白地に紺のラインの入ったそのパーカーは、少しだけもこもこした素材でできていて着心地が柔らかく、紐が普通のパーカーと違って平べったい帯のようになっていた。マネキンに着せてあったこのパーカーのその帯は蝶々結びになっていてとてもかわいかったから買ったのだけれど、自分で着た時に蝶々結びにしてみたらなんだか恥ずかしくって、平べったいのを垂らしたままにしている。スキニーについてはユニクロのやつだ。ユニクロは別に悪くない。しまむらよりお洒落だ。いやしまむらがお洒落じゃないとかそういう話ではなくって、名前の響きが。しかしまあ、こういったスキニーならいいのだけれど、ユニクロでばかり服を揃えていると、工学部スタイルとあだ名がつくのだ。ついでに工学部チェックという謎のスタイルもある。男子生徒がやたらチェック柄のシャツを着ているから工学部チェックと言うらしいのだけれど、チェック模様の何が悪いんだ、何が、と、思わなくもない。とにかく、山姥切の中で今日の可愛い成分はこの靴だけだったので、なんとしても死守したかった。部屋に戻ってもデート用の服なんて用意していなかったものだから。

「……まあ、いい。……おい」
「……?」
「このあたり、歩道の幅が狭いというか、歩道自体が無い。右側を歩け」
「歩いてるじゃないか。右側歩行だから」
「……彼氏と彼女がデートをするっていうのに、なんでドラクエのパーティみたいに一列で歩かないといけないんだ!それともポケモンか!?ピカチュウバージョンか!?」
「ドラクエってなんだ!ポケモンならわかる!やったことないけど!ピカチュウバージョンなんて聞いたことないぞ!?でもピカチュウの何が悪いんだ!ハートゴールドとソウルシルバーでも手持ちの一番上のポケモンが主人公の後ろをついてくるだろう!やったことないけど!」
「俺が言いたいのはそこじゃない!そこじゃないがしかしやったことないのになんでそんな詳しいんだ!?ゲーマーで4V以上が最低条件廃人ロード巡りが日課でめざパ選別までしてた俺でも思い出すのに苦労するどうでもいい情報なんだが!?」
「HGSSってなんだ?新しいフロント言語か!?って調べたら出てきたんだ!こないだ!ピカチュウ可愛かったぞ!」
「たしかにHTMLと似ているな!字面が!そしてピカチュウは可愛いな!あいつだけゲームでも鳴き声が声優になったしな!クソっ!ゲームの話をしているんじゃない!そこじゃないんだ!だから!話しながら歩きたいから俺の右横を歩けと!それだけ言いたかったのに!なんでこんな俺がゲーム廃人みたいな暴露をしてしまったんだ……クソっ」
「……え、あ、はい……」
「……」
「……ゲーマーは別に恰好悪くないと思うが」
「……ソシャゲ課金」
「ヒッ……なんだろう、なんか急にこう、なんか……なんだその単語。なんかおどろおどろしいな……人間の欲望と絶望が詰まったような……なんていうか、パンドラの箱みたいな……」

山姥切がひえっとその語感だけで(多分無意識のうちに工学部内のどこかで爆死だとかガチャだとかそういった単語を拾っているのだろう)震えあがっているのを見て大倶利伽羅はため息をつき、「なんだろうなあ、何をしているんだろう。あんたといると、なんというか、自分が自分のままでいられる」と、そんなことを少し笑いながら言って、「ほら、行くぞ」と、山姥切の左手を取った。その指の隙間にするりと大倶利伽羅の長い指が入り込んで、ぎゅっと、あったかく、握ってくる。山姥切はさっきまでの会話を全部忘れて、「あ、……はい……」と言ったっきり、ちょっと黙ってしまった。部屋の中ではどうこうしているけれど、外で手を繋ぐというのは、なんだか、慣れない。部屋の中ですること全部に慣れているわけでは勿論絶対にないのだけれど。


大倶利伽羅と山姥切は、はじめに大倶利伽羅が言ったとおり、スープ専門店で食事をした。山姥切が「あんたには足りないんじゃないか?」と心配をすると、「買い物の途中で休憩がてらスタバに入るから、腹が減ったらそこのパンでも食べる」と答えた。山姥切は普段大倶利伽羅がかなり食事に気を遣っていて、栄養バランスだとかを考えているし、プロテインだとかを摂取しているのを知っているので、ちょっとした罪悪感を覚えた。そうしたら大倶利伽羅がボルシチを啜って、「デートの時くらいいいだろう」と、スープをやたらにかき回した。山姥切はさっぱりしていそうな「レタスとキヌアと檸檬のOKAYU」というスープを食べていたが、注文のとき噛まなかったのが不思議な名前だ。なぜ「おかゆ」を「OKAYU」にする必要があるんだ、なんて思いながら、スープにふうふうと息を吹きかける。大倶利伽羅はそれを見て少し笑った。

「なんだ、なにかおかしいのか?」
「いや、あんた、猫舌だから、俺の方がいつも早く食べ終わる。あと男だしな。で、食べ終わってからあんたが、しつけはなっているのに、どこか不器用に食事しているようすを見るのが、結構好きだ」
「……食べるのがへたくそで悪かったな」
「……いや、いつも……言葉を選べば、扇情的だと思いながら眺めていた。あとはなんだろうな、猫が大きな切り身を出されて、それをうまく食べられないでいるような光景に似ていて、なんか好きなんだ」
「なっ……こ、公衆の面前……!……しかし、まぁ、猫はわからないが、女性の食事風景はよくセックスに似ているとは言われるな。身体になにかしらを入れるわけだから……」
「……それは知らなかったが、そうか……猫舌……しかし、それならあんたはもっと下手に食べなきゃだめだろう」
「う、うるさいな!公衆の面前だ!……こ、これ以上のコメントは差し控える!」

そう言って山姥切は、まだ少し熱かったスープを口に入れてしまって、はふはふと口を動かさなければならなかった。大倶利伽羅はさっさと食事を済ませてしまって、そうして、二人掛けのテーブルの正面の席にいる山姥切をじっと、猫を見るような目で視てきた。山姥切はできるだけ綺麗に食べようとするのだけれど、そうしようと思えば思うほどうまくいかなくなって、口の端からスープをこぼして、それを大倶利伽羅に掬いとられた。真っ赤になって、「下手くそで悪かったな」と、どちらともとれるセリフを吐き出したら、大倶利伽羅は、「いや、そういうところがたまらないんだ」と言った。

二人は駅ビルでゆったりとウィンドウショッピングをして、よさそうな服があれば試着をしたり、そのまま買ったりした。山姥切は試着というものがとても苦手だ。なんでって、店員に「どうでしたか?」と、聞かれるからだ。そうしたらもう「よかったです」と答えてしまって、サイズが合ってなかろうと、着た感じが気に入らなかろうと、レジまっしぐらになってしまう。そこのところ、大倶利伽羅がいるととても楽だ。試着室から出ると真っ先に大倶利伽羅が山姥切を見て、店員より先に「似合わない」だとか「サイズが合ってない」だとか「身体のラインが崩れて見える」と、手厳しいジャッジを下すのだ。これでは店員が付け入る隙がない。だから山姥切は気になった服を存分に試着できたし、予算内で買うことができた。大倶利伽羅ジャッジで「似合っている」というのは「悪くない」というセリフになるというのは、最近になってわかったことだ。はじめの頃は「悪くない」と言われたら多分似合っていないのだろうとその服をもとの場所に戻して、そのたんびに大倶利伽羅に「買わないのか?」と聞かれてしまっていた。

山姥切はそんなこともあったなあと思いながら、デザインのいいオフホワイトのニットワンピースを試着して大倶利伽羅に見せた。無駄な編み目が無いシンプルなタイプだけれど、ラインが綺麗だった。首のあたりが少し広いのが気になったけれど、自分でも着心地が良かったし、見た目も悪くないと思ったので、大倶利伽羅もきっと「悪くない」と言ってくれるに違いないと思ったのだけれど、大倶利伽羅はどうしてか唇に手の甲をあてた。それで店員の方が先に「いかがですか?」と尋ねてきてしまって、山姥切は「え、えっと……」と、どもった。そんなに似合わなかったのだろうか、としょぼくれるより先に、大倶利伽羅がぼそっと、「それ、いくらだ」と聞いてきた。山姥切は袖についていたタグを見て「ひっ」となる。そこには一万四千円というとんでもない額が記載されていたのだった。だから山姥切は店員に「えっと……かわいいんですけど、値札、みて、なくて……お金、足りない……すみません……」と断りを入れた。本当に買えないのだからレジに行かなくて済む。しかし、大倶利伽羅に、「俺が買ってやる。交換条件つきだがな」と、クソ真面目な顔で言われたうえ、断る間もなく「着替えろ」とカーテンを閉められた。どうしてだろうと考えるのだけれど、まあジャッジが良かったのかな、とは思った。しかし、一万四千円という値段がずっしりとのしかかってきて、申し訳なさというより、怖さの方が先にきた。

大倶利伽羅はカードで会計を済ませた。山姥切はカードで会計を済ませる学生なんてコンビニでしか見たことがない。しかもチャージするタイプのキャッシュカードとは違って、ゴールドカードだ。山姥切がこれだから、と思っていると、大倶利伽羅が「何か誤解しているようだが、これはJCBの二十代限定カードだぞ。むしろ学生くらいだろ、こんなカード使ってるの」と言ってきた。実際はそんなことはない結構ハードルの高いカードなのだけれど、それを知らない山姥切は「楽天カード的な?」と聞いた。大倶利伽羅は適当に「まぁ、そんなもんだ」と答えた。そうして荷物を鞄以外全部持っていかれて、山姥切は急いで、といってもコーンヒールなのでわたわたと大倶利伽羅のあとについていく。そのあたりは大倶利伽羅もわかっているらしく、と、いうよりこれは山姥切には悔しいことなのだけれど、女性の扱いに慣れているらしく、歩調はかなりゆったりとしている。

「で、交換条件だ」
「……ど、どんな恐ろしい交換条件が……一万四千円……税込みで……い、一万五千百二十円……!?一万五千!?が、学生が着ていい服じゃない!!」
「いや、着ろ。いいから、着ろ。で、交換条件を出すと言ったよな。今からちょっとそこの店に入る」
「……?……えっ!?あそこは……女性用下着専門店だと思うんだが……」
「ああ、そうだな。こないだまでこのあたりにはあんまりいいブランドの下着専門店がなかったんだが、こないだここにテナントがオープンしたらしい。質も良くて、見た目もあんたに似合うタイプのものが多いから、それを俺に選ばせろ」
「えっ」
「値段なら気にするな」
「えっ」
「ほら、行くぞ」
「お、俺はしまむらを愛しているから……」
「……俺よりも?」
「……いや……ええと……と、いうより、あんた、恥ずかしくないのか……?こういう……女性用下着専門店に入るの……」
「別に。かかわりのある人間はともかく、公衆の視線なんて、気にしたことがない」
「……ええと……俺の言い訳レパートリーがもう……」
「そんなレパートリーが存在したのか。あとで燃やしてしまわないといけないな」

そんな物騒なことを言いながら、大倶利伽羅はさっさとその店舗へと入っていって、店員に何か話しかけている。そうしたら山姥切もそうせざるをえなくなって、「可愛いけれどちょっと際どくないか?」と思える下着が所狭しに並んでいるそこへ入った。大倶利伽羅が店員に尋ねていたのは、山姥切のバストサイズを測ってくれるかどうかだったらしい。店員があれよあれよという間に山姥切を試着室の方へ通して、パーカーだけ脱がせて、インナーの上からメジャーでバストサイズを測った。

「プラジャーのデザインにもよりますが、基本はCカップですね。ただ、左胸がどちらかというとDカップに近いので、何種類か試着してみるといいかもしれません。たとえばフルカップのものでしたら、Dカップのものをお勧めします」
「えっと……あ、はい……」
「恰好いい彼氏さんですね」
「え、あ、やっぱり恰好いいですよね」
「……ええと、では、彼氏さんと相談しながら決めていくのがいいかと。助言もさせていただきますが、だいたいのことはこちらのパンフレットに記載されておりますので、ご参考にどうぞ」

店員はそう言ってパンフレットを山姥切に渡して、そのあとはキャッキャしている女子グループの方へお決まりの「いかがですか?」と声をかけに言った。どうしてだろうと山姥切がパンフレットを持って棒立ちになっていると、大倶利伽羅が「サイズは?」と尋ねてきたので、臆面もなく、「基本Cで、フルカップ?だったらDって言われた」と答える。山姥切の脳内にブラジャーのサイズはS、M、Lしかなかったので、CだとかDだとか言われてもよくわからない。なんならフルカップもハーフカップもそのほかの種類もわからなかった。

「まぁ、あれから悔しいことに痩せたからな……フルカップは色気がないが……いや、デザインによるか。体重が戻ればもう少し肉がつくとは思うが、まぁ、今のサイズに合わせるしかないか。あんたが知識がないようだから教えてやるが、基本はフルカップのものを使え。俺が今から買うやつ以外でも、ちゃんとしたのを自分で揃えろよ。で、今から俺が選ぶ下着をとりあえず試着していって、付け心地が変じゃなかったらそれを三着まで買う。上下揃いで。あんた、ショーツのサイズはSだよな?」
「そ、そうだが……え、結局あんたが買うのか!?」
「いや、完全に俺の好みに合わせてもらうから、それが交換条件。前に約束もしたしな」
「それはそうだが……こ、ここの下着、ブラジャーだけでしまむら下着上下二着買える……」
「あんたの価値基準がしまむらなのはさておき、とりあえず、まぁ、踏み入った質問をするが、あんた、パンティーライナーはつけるよな?」
「……?……ああ、いつ生理がくるかわからんし、洗濯も楽だからな」
「そうか。なら白もオーケーだな」

大倶利伽羅は山姥切が「え、」と思っている間にさっさと下着選びをはじめてしまう。その眼差しは真剣そのもので、どれくらい真剣かというと、バスケットボールを持ってペネトレイトに入る瞬間くらい真剣だった。それで上下の下着を山姥切にあてがっては首を傾げたり、試着室に入れたり、「もっとこう……際どすぎず、かといって安全でなく……天使が黒いレース地の下着着てたら最高だよな……」だとかわけのわからないことをぶつぶつ言っているのだから、ひやかしの女子高生から妙齢のご婦人まで、大倶利伽羅の顔面偏差値を差し引いてもドン引きでひそひそとした声が聞こえてくる。だから山姥切はなるだけ「俺の下着を選んでくれているだけだから」、と大倶利伽羅の傍にいるようにしたのだけれど、それが逆効果なことに山姥切は気が付けない。彼氏が彼女の下着を選ぶというのはつまりそういうことなのだ。

結局大倶利伽羅が選んだのは、ハーフカップの、黒地に黒の繊細な刺繍がしてある真黒な上下の下着と、フルカップの凝ったデザインの白い下着だった。それはワイヤーの位置が特殊で、白地でも二種類の布、サテン生地のような布と、マッドな布が入り混じっている。谷間の切れ込みが深く、そこに繋がるサテン生地の布が最終的にリボン結びの形になっていて、フロントホックだ。つまり、脱ぐためには真ん中のリボンを解かなければいけない。それと対になるショーツの横も、リボン結びになっていた。つまるところ、太くてよくよく考えないとわからないが、紐パンというやつだ。なんならガーターベルトまでついているし、それに付随する普段着ていても不自然には見えないガーター用ストッキングまで買っている。それから、最後までやたらアクセント色で迷っていた、紺色のキャミソール付き、白と紺のレースがひらひらと可愛いブラジャーも購入された。ブラジャーやキャミソールがかわいいのはさておき、問題はそれに付随するショーツだ。必要なところにしか布がない。前とかめちゃくちゃ透けているし、レースは可愛いけれど、レースは透ける。どこまでも透ける。キャミソールで隠れると思いきや、その可愛いキャミソールは胴の部分は透ける素材でできている。裾のフリルは可愛いけれど。必要なところに布があるといえばあるからよくはないけれどいいのかと聞かれたら赤面しながら大倶利伽羅を殴るだろう。ちなみに迷っていたアクセント色というのは白と黒だ。大倶利伽羅は「小悪魔系……いや、それもいいが俺の彼女は天使……しかし堕天した天使も見たい……いや、もう黒は選んだし……充分堕天使が見られる……」とぶつくさ言っていた。店員ですら白い眼で見ていた気がする。山姥切の意見は全部却下で、どんなに「こんな恥ずかしい下着着られるか!」と真顔の大倶利伽羅の二の腕あたりをはたいたり、「え、これ可愛いけどちょっとまて、透けすぎだろう!?」と抗議したり、「え、紐かこれ!?しかもガーター!?こういうのはなんていうか……ええ……」とドン引きしても、大倶利伽羅は「買ったからには、着ろ」とそれを山姥切に押し付けた。レジについてはカードで支払ったらしいが、金額は見えないようにされてしまったし、なんならタグも全部外されてしまっていた。山姥切はその下着屋の可愛い袋を持って、大倶利伽羅に向かって「この変態!」と言ったけれど大倶利伽羅は涼しい顔をしている。

「彼女の下着が気に入らないという男の気持ちはよくわからん。女の下着は高いんだ。気に入らないならなんで買ってやらん。自分が好きな下着を着せればいいだけの話なのに」

そんな恰好いいのか恰好悪いのか変態くさいのかわからないセリフを言いながら、やっぱり山姥切の歩調に合わせながら歩いた。そうして、「俺の買い物は終わったが、あんたは他になにかあるか?」と聞いてきた。山姥切は「そういえば、ボディーソープと……フェイスパックがなくなりかけていたな。あ、あと洗顔も季節が変わってきたから保湿系のを買わないと」と言った。

「……ドラッグストアは地下か」
「あ、いや、マツキヨのではなくって、駅の二階のRUSH」
「RUSH?……ブランド名か?ああ、なんか大学で聞いたような、聞かなかったような……。まぁ、じゃあ、そこに行くか」

山姥切は階段もあったが、近くのエスカレーターを使って、最短距離でその店舗へと脚を運んだ。その途中で大倶利伽羅が、「……なんか、あんたと似たにおいがする」と呟いた。そのブランドの基礎化粧品は基本的に匂いが強いので、サンプルがたくさん置いてある店舗は遠くにあってもその香りが漂ってくる。だから二階でも駅ビルの中でなくほぼ駅のあたりにあるのだ。山姥切は「こういう香り、嫌いか?」と大倶利伽羅に尋ねた。大倶利伽羅は「いや、別に。しかしまぁ、これは女が好きそうなにおいだな」と言った。山姥切はちょっとしょげたけれど、天然由来の成分しか使っていないこのブランドは、肌が弱い山姥切には高価ではあるが、優しいブランドなのだ。店舗に入ると、何に使うのかわからない商品が所狭しに並んでいて、大倶利伽羅はしきりに「これ、何につかうんだ?」と聞いてきた。山姥切はいちいち「フェイススクラブ」だとか「ボディーバター」だとか答えた。

「……このフェイスマスク、さっぱりしそうでいいな」

山姥切が洗顔料で悩んでいる横で大倶利伽羅がそう言うと、綺麗に化粧をした美人の店員がやってきて、「手でお試しできますが、どうしますか?」と尋ねた。大倶利伽羅は「ああ、そうか。じゃあ頼む」とそれを受ける。山姥切はちょっと気になって、位置を変えるためにボディーソープを選ぶふりをしながら、その様子をちらちらとうかがった。美人な店員は、大倶利伽羅の長い指をそなえた手を両手でやさしく扱い、大倶利伽羅もされるままになっている。そうして世間話をまじえながら、商品の説明を受け、パックしている間に、「綺麗な手ですね」という店員の誉め言葉に、「長いことバスケをしているわりによく言われるが、あんたみたいに手が綺麗な奴に言われると、本当にそうなのかと思えてくるな」と返していた。山姥切だって大倶利伽羅の手については褒めたことがあるのに、そんな応えは貰えなかった。山姥切はどうしてかぎゅっと口を一文字に結んで、二人のやりとりにばかり気をやって、終ぞ、買わなければならないものリストに入っていたボディーソープを選べないまんまだった。この感情がなんて名前なのか、よくわからない。とにかく、大倶利伽羅が大好きなはずなのに、大嫌いに思えて、女性店員がやたら綺麗に思えて、でもどうしてかとても嫌いな気がして、悲しいような、悔しいような、それとは違うところで憤っているような、不思議で、不快な気持ちになった。大倶利伽羅はスクラブを丁寧に流してもらって、なんならペーパーで手を包むように拭いてもらったあと、その肌の感触を確かめて、「……これ、一番量が入ったやつ、くれ」と言った。そうしたら山姥切の憤りみたいなものはしおしおとしおれて、なんなら悲しくなって、期間限定のボディーソープの香りも確かめず、いつも買っているボディーソープをカゴに入れた。バスボムは、買い忘れた。

「おい、買い物終わったのか?」
「……終わった」
「あとはいいのか」
「……いい」
「何をそんなに怒っているんだ?」
「べつに」

山姥切は少し前から靴擦れがひどくて、足が随分痛んでいたけれど、そんなのは知るか、と、さっさとその店舗から離れようとした。どちらも買い物が済んだのだから、あとは帰るだけだろう、と、その速度のまま近くの階段を降りていく。その途中で慣れないヒールのせいで階段を踏み外し、「わっ」と悲鳴を上げた。そのまま階段を転げ落ちずに済んだのは階段だからと警戒していた大倶利伽羅がすぐに山姥切の二の腕を掴んで引き上げたからだ。山姥切は複雑な心境で、「す、すまない」と言った。大倶利伽羅はむっつりと黙って、山姥切の脚元を確認しながら、「気をつけろ」と、荷物を全部左肩に移して、山姥切と手を繋いだ。その手の触り心地がいつもと違うことに、山姥切はやっぱり変な気持ちになって、ぶすくれた。

大倶利伽羅は駅から出ると、ちらりと時計を見て、「ちょうどいい、バスが出ているからそれで大学の正門前まで行こう」と言った。バス乗り場はいろんな場所へ向かうバスが出たり入ったり、ロータリーの周りをせわしなく行き交っている。八番と書かれたバス停でバスを待つ間に、山姥切は「恥ずかしいから」と言って、大倶利伽羅の手を離した。大倶利伽羅は「俺と付き合っているというのはそんなに恥ずかしいか?」と返してきたので、「……違う……」としか返せなかった。だからまた手を繋いだ。その指の長さに、山姥切はぽつり、「あんた、手、綺麗だよな」と言った。

「……よく言われる」
「……そうか……」
「……ど……」

大倶利伽羅が「どうしたんだ?」と尋ねる前にバスがロータリーに入ってきて、二人の会話をさえぎってしまう。チャージ式キャッシュカードに対応したバスだったので、そこにカードを当ててから乗り込んだのだけれど、何人か人が立っていて、席はひとつしか空いていなかった。見たところお年寄りや妊婦は乗っていなかったが、そこに座るのは気が引けたので、山姥切はつり革を掴む。そうしたら大倶利伽羅が、「おい、座れ」と言ってきた。そして山姥切が「なんで」と聞く前に、「靴擦れ、ひどいだろう」と、その席の方へ山姥切を連れていって、座らせ、自分はその横のつり革につかまった。山姥切は大倶利伽羅がいつも通り、ぶっきらぼうだけれどとてもやさしいことに、どうしてか罪悪感を抱いて、ずっとずっと、変な気持ちになった。大倶利伽羅のことが好きなのに、自分が手を褒めても「よく言われる」と返す大倶利伽羅が、嫌いで嫌いでたまらなかったし、どうしてか、はじめて会った店員が、自分でも怖いくらい嫌いになってしまった。この気持ちがなんなのか、よくわからない。とにかくもやもやするし、とても不快で、憤りさえ感じる。それをどこにぶつけていいかわからなくって大倶利伽羅にそっけない態度をとってしまうのだけれど、そんな山姥切にも、大倶利伽羅はとても優しい。山姥切は膝の上でぎゅっと握っていた自分の手を開いて見た。爪はかたちを整えて、よく手入れされていたが、トップコートしか塗っていない。あの店員は、グラデーションやパールで、長い爪をうつくしく飾っていた。だから、「……あんまり、綺麗じゃ、ないな」と、ぼそぼそ、バスの揺れる音で掻き消えるほど小さく、呟いた。


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