いられなくなることの方が



大学の正門まではバスで行って、そこから上田通りまではやはり徒歩だった。大倶利伽羅が「……おぶるには少し買い物をしすぎたな」と、自分用の衣服や生活用品、山姥切の衣服や基礎化粧品の袋を見て呟いた。山姥切は自分でもどうしてそうしてしまうのかわからなかったけれど、「バスで休めたから、もう歩ける」と見栄をはった。靴擦れはまだ出血はしていないだろうけれど結構な痛みを伴っていて、特に右足がひどくてそれを少し引きずるようにして歩き始めたのだけれど、それを見た大倶利伽羅が大きなため息をついて、「おい、荷物貸せ」と言って、山姥切のバッグ以外の荷物を持って、歩道に膝をついた。大倶利伽羅の荷物が入っている黒いスポーツリュックは前に回されている。

「ほら、約束したろ。靴擦れしたらおぶって帰るって」
「……した……けど……」
「あんたが無理をしている姿は見たくない。無理をしているあんたが、俺は嫌いだ」
「……そうか、……嫌いか……」
「……無理をしているあんたのことだけ、だぞ」
「……」

山姥切はひどい自己嫌悪をしながら、大倶利伽羅の背中にそっと体重を預けた。当たり前だが、大倶利伽羅のにおいがする。それでも肩にそっと捕まって、顎も肩の端の方に乗せていた。そうしたら大倶利伽羅がちょっと笑った。山姥切はそのままむっつりしていたのだけれど、大倶利伽羅が身体を揺らして、山姥切が大倶利伽羅の首に腕を回して、その近くに顎をのせなければいけないようにしてきた。

「なっ!危ないだろう!」
「さっきの体勢の方がバランスをとりづらいし、荷物も重心が定まらないから重くて危なかった」
「……」
「あんた、わかってないのが、面白い」
「……何が……?」
「明らかにへそを曲げている」
「……」
「なんでそうなったのか、わかるか?」
「……わからない……あんたが、好きなのに、今はすごく嫌いだ。なんだかむかむかする。でもそう思う自分も嫌で、どうしていいか、わからない……」
「……俺は幸せ者だな」
「どうしてだ?嫌いって言ってる……」
「あんたの手は、こわいくらい、綺麗だからな……」
「……?」

そうこう話をしているうちに、山姥切の家についてしまった。山姥切はぼそぼそと、「送ってくれて、ありがとう」と言った。目は合わせられなかった。最近は別れ際にひっそりとハグをするか、軽くキスをしていたのだけれど、今日はそうする気になれなかった。けれど大倶利伽羅は山姥切に、山姥切の分の荷物を渡してから、空いた手で山姥切の顎を持ち上げ、そのぎゅっと真一文字に結ばれた唇に、ちゅっとリップ音をさせてキスをした。

「俺がこんなことをするのは、あんただけだ」

別れ際に大倶利伽羅はそう言って、少し荷物をコンクリートの上に置き、両手で山姥切のパーカーの紐を、リボン結びにした。けれど大倶利伽羅は不器用で、縦結びになってしまう。「ほんとうはこうするパーカーなんだろう?」と言われたけれど、よくわからない意地で、なんにも返せなかった。

「俺は縦結びにしかできないけれど、あんたは蝶々結びが得意だから、次からはそうして着たら、いいと思う」
「……」
「かわいい」

大倶利伽羅はそう言ったが、山姥切の返答を待つ気はないらしく、荷物を自前のリュックに引っ掛けるかたちでロードレーサーに乗り、さっさと帰ってしまった。山姥切はどうしていいかわからなくって、部屋に戻って脚を痛めつけていた靴を脱いでも、ずっともやもやしていた。そのもやもやは大きくなるばっかりで、風呂に入っても、寝る前になっても、それが気がかりで、明日からの文化祭が楽しみだとか、そういうのはどこかへ行ってしまって、布団の中でぎゅっと丸くなった。こんな、ただもやもやして、嫌な気持ちにしかならなくて、ただただ辛い気持ちになって、涙も出ない感情を抱くのは、はじめてだった。


文化祭一日目は、九時からはじまった。はじめは本当に人がまばらで、売り物が冷めてしまわないように、回転率を下げなければならなかった。一日目はだいたい十二時までなので、シフトは一時間交代で、二時間目に大倶利伽羅が客寄せのシフト、山姥切が出来上がった焼きそばのパック詰め係のシフトだった。最初の一時間の売れ行きは、どうしようかと思うほど悪かったのだけれど、大倶利伽羅が部活のユニフォームにウィンドブレーカーを着て、下はぴったりとした黒のスポーツ用レッグウォーマーという姿で店の前に立つと、どんどん屋台に視線が集まった。そこでさらに日本号が写真サービスの宣伝をすると、女子生徒がひっきりなしに焼きそばを購入しては大倶利伽羅と写真を撮っている。山姥切は五パック詰め終わるたんびに大倶利伽羅の方を見たが、どうにも女子生徒と大倶利伽羅の距離が近すぎるように思えてしかたがない。たしかに写真を撮るなら近づかなければならないけれど、それにしたって、腕を組む必要なんてあるのか。そしてそれを断らない大倶利伽羅も大倶利伽羅だ。さらに、背中に「CHOSEN1」なんて白地に黒のロゴが入った安っぽいシールを貼られているものだから、「それ、レブロン?」だとか、よく体育館に来ている女子生徒には聞かれている。普通ならなんにも答えないくせに、「背番号が同じだから」なんて、優しく答えていた。大倶利伽羅のチームの背番号は自分で希望が出せて、大倶利伽羅はすすんでその数字を選んだのだと知っている山姥切からしたら、複雑な心境がさらに複雑になった。自分だけが知っていればいいことを他人に吹聴されているような気持ちになって、作業になかなか集中できなくなってしまう。あの背番号をもぎ取るために、どんなに大倶利伽羅が努力したか知りもしないくせに、と。そうしたらなんだか、自分の心が真黒になるのがわかった。体育館に来ている女子なのだから、その背番号の重さもわかっていて、大倶利伽羅が努力しているのも知っていて当然で、さも自分だけが大倶利伽羅を応援していたと錯覚していたことに、ひどく嫌悪感を抱いた。けれどパックの数を間違えたり、分量を間違えるとあとの計算にかかわってきてしまうので、あまり大倶利伽羅のことを見てもいられない。だから、女子生徒の楽しそうな声や、それにたまに答える大倶利伽羅の、いつもは自分だけに向けられていると錯覚してしまっている言葉たちが、たくさん聞こえてきてしまって、胸のわだかまりが、ずっとずっと大きくなった。

最後の一時間は、大倶利伽羅も山姥切もシフトが無かった。けれど山姥切は会計の管理もあるから、と、自分に言い訳をして、大倶利伽羅を誘うようなことはしなかった。大倶利伽羅は誘われなかったから、と、ウィンドブレーカーの前を閉めて、どこかへ行ってしまう。山姥切はどうして誘ってくれないんだ、と思ったけれど、自分も誘わなかったのだからどっこいどっこいだ。そんな理不尽なことを考えてしまってから自己嫌悪をして、ぼんやり、たくさんの屋台が並んでいる教育学部や法学部、人文学部棟が並んでいるあたりのキャンパスを抜けて、国道を跨いだ工学部棟の方へ行った。そちらにも勿論屋台が並んでいるのだけれど、やはり活気があるのは面積が広く、所狭しに屋台が並んでいる人文学部棟のあたりだろう。山姥切はそんな気になれなかったのと、屋台をやるからには炭くさくなってしまうのとで、いつも着まわしているショートジーンズと、濃紺のブイネックセーターだった。それでも少し肌寒いので、しまむらの裏起毛で全部の生地が柔らかい、スタジアムジャンパーを模した上着を羽織っていた。

そうして、喧噪がなんだか嫌だったものだから、工学部棟にある、休憩所の椅子に座った。今は文化祭にみんな出払っていて、誰もいない。山姥切は喉の渇きを覚えたのと、指先が少し冷えていたのとで、休憩所にある自販機で、あたたかいミルクティーを買った。そのミルクティーが自販機から吐き出される、ガコン、という音に、何か聞き覚えがあるなあと思いながらも、茶色い、あまり柔らかくないソファに深く腰掛け、天井に向かって、青いため息を吐きだした。自分でもどうしてそんなため息が出たのかわからない。山姥切は昨日靴擦れしてしまったし、客寄せでもないのだから、と、今日はコンバースのハイカットスニーカーだった。折り曲げると靴擦れに当たって痛かったので、今日は折り曲げずに、すこしダボつかせている。そうして誰もいないからとだらしなく脚を伸ばして天井を見つめ、ぼんやりしていたところに、「わっ」と背後から大きな声が響いてきて、驚いて「わっ」とおんなじように大きな声を出してしまう。反射的に振り返ると、そこにはいつ回り込んだのか、白衣姿の鶴丸がいた。

「え、鶴丸先輩……文化祭はいいんですか?ええと、白衣……実験が被ってる……?」
「いや、俺は二日目の全学部のイベントしか強制参加はないし、実験もひと段落している。白衣姿なのは、一日目の午後にオープンキャンパスがあって、高校生が来るからだ。白衣の方がそれっぽいだろう?むしろきみこそ、こんなところでなにをしているんだ。伽羅坊と屋台を見て歩かなくていいのか?二人きりで遊べるのは、あとは明日の午前だけだろうに」
「……?俺は明日の午後もシフトに何故か組み込まれていないんですが……」
「え、君掲示板確認してないのか?……いや、そっちのが面白いか。とにかく、伽羅坊と何かあったのか?それとも今、伽羅坊がどっちかの屋台のシフトに入っているとか……いや、きみの表情から察するに、やはり伽羅坊と何かあったのだろう。どうしたんだ、いったい。喧嘩でもしたか?」
「……ええと……」

山姥切自身がうまく言葉にできないのだから、どうして鶴丸に説明することができるのだろう。山姥切がうーん、うーん、と唸っていると、鶴丸が、「喧嘩になっているかどうかはわからないが、きみは今、もしかして、大倶利伽羅のことがちょーっと、嫌いになっているんじゃないか?伽羅坊が、というより、伽羅坊の行動とか、行為とか、そういうところ」と言ってきた。山姥切は確かにそうだったので、「えっ……えっと……はい……」と、応えた。

「天文部のあたりが盛り上がっていたからなあ、近くの研究室の女子が、天文部の屋台で農学部の不機嫌王子と写真が撮れるらしい、という話をしていた。とてもいい客寄せの戦略だと俺は評価する。けれど、そうだなあ、日本号あたりに聞かれなかったのか。きみはそれで、大丈夫なのか、と」
「……べつに、気にならない……はずだったんですけど……」
「うん」
「き、昨日、大倶利伽羅と買い物に行って……駅の……俺の好きな化粧品のブランドのお店で……えっと……」
「つまりデートをしたと。化粧品店……ああ、もしかしてRUSHか?あそこは女子生徒にかなり人気があるから……。あ、なんとなく読めてきた。あそこのお試しサービスを、大倶利伽羅が利用したとみた」
「え、あ、はい、そう、です。綺麗な店員さんで……手が綺麗で……その綺麗な手で、大倶利伽羅の綺麗な手を、両手で丁寧に扱っていて……なんだろう、こう、大倶利伽羅には、ああいう美人な人が、とても似合ってしまうんだな、と……」
「そんなのは今にはじまったことじゃあないだろう。きみたちの関係を否定するつもりも、似合っていないというつもりも微塵もないが、しかし、きみと大倶利伽羅というのは、見た目的にも性格的にもひどく不格好だ。勘違いしないでくれ、きみはもっと優男、というか、堅実だと見た目からしてわかる男が似合うと俺は思うわけだ。伽羅坊は中身はそうなんだが、不器用すぎるのと、あと見た目が整いすぎているせいでものすごく怖い。美女を何人も侍らせていそうな顔だしな。ああ、まあ、話が逸れた。で、もっと他になにかなかったのか?その時に」
「あ……その店員さんが、大倶利伽羅の手を、褒めたんです」
「……それだけ?」
「……お、大倶利伽羅は、褒められて、『あんたみたいに手が綺麗な人に褒められると、ほんとうにそうなんだと思えてくるな』って、そんなこと、返してました……お、俺だって、大倶利伽羅の手、褒めたっていうか、なんか、そういうこと言ったのに、その時は、『よく言われる』としか、返してくれませんでした……。それからなんか、よくわからなく、なりました。はじめて会った、会話もしてない店員さんが大嫌い……に、なって……そんな風に思う自分も、嫌になって……大倶利伽羅もどうしてそんなこと言ったんだ、とか、どうしてそんなことしたんだ、とか、責める気持ちが、どこからともなく噴き出してきて、どうにも、ならないんです……。好きなのに……すごく、嫌いな部分っていうか、いや?な行動っていうか、そういうのがあって……それが自分の我が儘に思えて……ぐるぐると……」

鶴丸はもう答えを知っているような顔をしていたから、いつものように、正解を山姥切に広げてみせるのだと山姥切は思ったのだけれど、鶴丸は、「俺は勿論、答えを知っているし、対処法もまぁ、いくつか出せるだろう。けれど、それをしてしまうと、きみのためにならない。そして、きっと不公平だ。さらに言えば、きみたちのためにならない」と言った。

「ただ、ヒントだけは、出してやろう。もしかしたらきみはこのことで自分を責めて、ずっと苦しいまんまになってしまうかもしれないから。そうだなあ、ちょっと、きみの手を見せてくれ。いつも見てしまってはいるけれど、ちゃんと視たことは、そういえば、なかったから」

山姥切はそう言われたので、自分のゆるく指の隙間を開けた手のひらを、鶴丸の前に差しだした。鶴丸はそれを見て、「君は女性店員の手のひらを見たのかい?」と聞いてきたので、「いえ、ええと、手の甲とか……綺麗な長い爪とか……」と応えた。そうしたら鶴丸は、山姥切の手に、そっと手を添えて、向きを変えて、山姥切の手の甲から、指先までをしっとりと眺めた。

「きみの手は、神様が創った芸術作品のように、うつくしい。きみの性格がそのまま出ている。そこにはゴテゴテしたネイルはいらないし、長い爪も必要がない。よく手入れされていて、ささくれもなくて、白くて、セクハラ発言をすると、とても触り心地がいい。淡い色のネイルなんてものを塗ったら、それはひどく純粋に見えるけれど、きみによからぬ感情を抱く輩は、それより、きっと扇情的に思えてしまうだろう。こんな綺麗な手と、手を繋げる伽羅坊は本当に幸せ者だな。で、きみは、そうだな……大倶利伽羅に手を褒められたことは、あるかい?」
「ええと……まだ……付き合っていない時に……一度だけ。……『あんたの手、綺麗だな』って……それだけです。……ノート、渡した時に……」
「それで、なんて返した?」
「そんなことを言われたのは、はじめてだ、と」
「……そうか。伽羅坊は……いや、これではヒントが多すぎる。で、俺は今、君の手を褒めちぎったわけだけれど、それについての返答は?」
「え?……ええと……ほ、褒めすぎです……ネイルオイルとかトップコートは使いますが……長く伸ばしたり、マニキュアをのせたりとかは、していないですし……」
「だから、きみの手は、そういうのが必要ないくらい、綺麗なんだ。純粋に綺麗すぎるんだ。あとは惚れた弱みもあるんだろう。だから伽羅坊も、素直にきみの誉め言葉を受け取れなかった」
「……鶴丸先輩の指も……細くて……白くて……大倶利伽羅とは方向性が違いますけど、工学部の芸術作品の名に恥じない……と、言ったら語弊がありますが、とても綺麗だと思います……」
「きみみたいな手をした人間にそんなことを言われてもなあ……と、俺は今普通にそう思った。伽羅坊も、俺とおんなじように感じただけだったって、それだけの話だ。基本的に男性の手より女性の手の方が綺麗だしな。まぁ、男性目線から言わせてもらえば、の話」
「え、」
「要は、嫌味に聞こえるって話さ。きみにその気がなくっても。そうさなあ、そうだ、きみはそのきみが言うところの美人な店員に『美人ですね』って言われたら、どう思う」
「……嫌味にしか、聞こえないです……俺は美人じゃない……と、いうより、そんなに見目が……あ、ええと、そういう、感じなんですか……?」
「うん、きみの見目についての過小すぎる評価はどうかと思うが、それがわかればいいんだ。あとはそこから考えていけば、どこかにはたどり着くだろう。少しヒントを与えすぎたな」

鶴丸はそう言って、「きみは素直だから」と、山姥切の手を離した。そういえば、自分も鶴丸と肩を寄せて写真を撮ったことがある。その時、大倶利伽羅は酷く憤っていた、ような、気がする。それはもしかしたら、捏造写真にではなく、鶴丸と写真を撮った自分や、鶴丸に対して怒っていたのでは、ないだろうか。山姥切が抱いたこのもやもやを、大倶利伽羅も、抱いたのでは、ないだろうか。けれど、このもやもやした、そして重苦しくて、嫌な感情というのを、今まで抱いたことがなかった。だから、その名前を、探しあぐねてしまう。どこかでその感情の名前を聞いた気がするのだけれど、脳みその引き出しをいくら開けても、なかなか出てきてくれない。鶴丸に関係があった気がしなくは、ないのだけれど。

「で、いいのか?明日は大変になる。きっとそんなにゆっくりとは、二人で文化祭を楽しめないだろう。残りの三十分でも、ふたりで話をしてみたら、いいんじゃないかと、俺は思うわけだけれどねぇ」

鶴丸は飄々とそう言って、「じゃ、オープンキャンパスの準備があるから」と、休憩所をあとにした。残された山姥切は、ずっとずっと、もっと自分の中で整理をつけなければいけないのかもしれないと、少し思ったけれど、同じような感情を、大倶利伽羅がその都度抱いていたのだとしたら、それはとても申し訳が立たなくて、携帯電話の通話履歴の、一番上を、タップした。そうして、じっとそれを耳にあててコール音を聞いていたら、それがぷつんと途切れて、『どうした?』と、がやがやと喧噪を背景に、大倶利伽羅の声がした。山姥切は、電話をかけたはいいものの、どこから話せばいいのか、何を話せばいいのかわからなくて、「ええと、ええと、」と、なんにもならない、繋がりようのない言葉ばかりを吐き出してしまう。

「た、多分、俺は、……ええと、ご、ごめん……」
『何に対しての謝罪なのか、わからないが』
「す、すまない……」
『あんたが今ものすごいマイナス思考モードに入っていることはわかった。正直、俺もやりすぎたとは思う。あんたが……まぁ……。で、あんた、今どこにいる。文化祭中なのに、随分静かだな』
「え……工学部の……休憩所……」
『どこだ、それ』
「ええと、ええと……テクニカルホールに向かう廊下を、右に曲がったとこ……ひらけてるし、案内板出てるから多分……いや、俺が……ええと、あんたいま、何して……?」
『暇だったからバスケ部の屋台の客寄せやってた。ただでさえ人が集まりにくい立地なもんでな。…工学部か。バスケ部の屋台は工学部棟にあるから、まぁ、すぐ行く。そこ、動くなよ』
「わ、わかった……」

山姥切は通話終了の画面をじっと見つめて、少し、論理的に、筋道立てて、考えた。この状況は、どこかで体験したことが、なかっただろうか。そう、立場が違うだけで、絶対に経験している。そうして、自分の手を見て、さっきまでそれに触れていたのが大倶利伽羅でない、という違和感と、その相手が「鶴丸」だったことに思い至り、「あっ!」と、声を出した。ちょうどその時に大倶利伽羅がユニフォーム姿で現れたものだから「どうした!?」と心配されてしまった。山姥切は長い長い方程式がやっと解けた時の高揚感のようなものを感じていて、「い、いや……なんというか、今さっき、例えればフェルマーの最終定理が自力で証明できたような……そんなかんじで……」と自分でも何を言っているのかわからないようなことを口にした。大倶利伽羅は「なんだ、それは」と、お土産らしいクレープを山姥切に渡しながら、小さくため息をついた。

「あ、ありがとう……結構本格的なクレープだな……」
「ああ、バスケ部の隣の屋台が料理研究会の屋台でな。まぁ、あんたが甘いもの好きだから、その……謝罪のつもりで……」
「……あんたは何か俺に謝らなければいけないことをしたのか?」
「……いや、まぁ、どうやら自己満足に終わってしまったらしい」

山姥切は甘くておいしいクレープに口をつけながら、「俺はちゃんと嫉妬していたぞ」と、さっき解き終えた方程式の解を、大倶利伽羅に伝えた。そうしたら大倶利伽羅が驚いた顔になって、「誰に入れ知恵された!?鶴丸だな!?と、いうかまた鶴丸に相談したのか!?俺に相談しろ!」と嫉妬丸出しで飲みかけのペットボトルをぐしゃっと握りつぶした。握力いくつなのだろうか。

「いや、まぁ、入れ知恵されたと言われてしまえばそれだけなのだけれど……。それ以前に、あんたについてのことをあんたに相談できるわけがないだろう……。なんていうんだろう、図形の証明をするときに、一本線を引いてみるだけで難易度が全然違ってくる問題、あるだろう?」
「……高校の数UAの分野だろうな」
「そう。それだ。俺はその線を引くのが、苦手だったんだ。どこに引けばわかりやすくなるのか、全然わからなくって、結局、何回も類題を解いて、パターン化することでしか、覚えられなかった。ええと、話が逸れた。鶴丸先輩は、その図形問題に、一本、線を引いてくれただけだ」
「……で、鶴丸に何を言われた」
「俺の手は綺麗だとか、そういうこと……」
「まぁ、あんたの手は綺麗だからな……」
「そう、手がきっかけだった。俺は、昨日の買い物で、RUSHの店員さんに、嫉妬したんだ。やっとわかった。あの店員さんが美人であんたとお似合いに見えたのは、少し前の俺だったら当たり前の事象だったし、実際今でもたまにそう思うことがあるから、それだけじゃ、嫉妬しない。今でもまだ……俺があんたに釣り合っているのかどうかは……あ、いや、そういう問題じゃないってことは、ちゃんとわかっている。そう、それだけじゃ、俺は嫉妬なんか、しないんだ。でも、あの店員さんはあんたの手を褒めた。俺が大好きな手を褒めたんだ。そうしてあんたは、俺が褒めても『よく言われる』としか返さなかったその言葉に対して、『あんたみたいに手が綺麗な人にそう言われると、ほんとうにそうなんだと思える』と、俺に一回も言ったことがないセリフを吐いた。これが問題だったんだ。つまるところ、あんたのセリフは、俺が鶴丸先輩にあげた、万年筆と同じだったんだ。俺に言ってくれない嬉しい言葉を、どうして他の女性に簡単にあげてしまうのか、と、それが俺の嫉妬の原因だ。そして、今日の写真の件。考えてみたら変な話だ。あんたが写真撮影サービスに応じること自体が、ちょっとおかしい。で、考えてみたら、俺は鶴丸先輩と一緒に写真を撮っていた。自撮りだから、近距離で。だからあんたはちょっとした仕返しをしたかったんだ。なあ、大倶利伽羅、あんたは俺に嫉妬して欲しかったのか?」
「……あんた、証明問題、得意なんだな……」
「いや、苦手だ。……これは数学じゃ、ないだろう?」

山姥切がそう言いながら、ちょっと恥ずかしくなって、クレープに齧りついたら、クリームがちょっと飛び出して、頬についてしまった。大倶利伽羅はそれに「まったく、本当に食べるのがへたくそだな」と、クレープをこぼさないために両手がふさがっている山姥切のために、指を少し伸ばして、けれど引っ込めた。代わりに頬を寄せて、舌でそれを舐めとった。その瞬間に山姥切は真っ赤になって、「えっ」だとか「誰もいないけど!」だとか「は、はずかし……」と多弁になり、身体も強張ってしまって、それがクレープの大洪水を引き起こしそうで、大倶利伽羅が仕方がないから、という体で山姥切の手をとって、そのクレープを、山姥切より大きく開く口で、ばくりと食べた。そうして、こぼれそうなクリームを丁寧に舐めて、もう大丈夫だろう、という程度になってから最後、山姥切の指を、べろりと舐めた。

「ひあっ……」
「……誰もいなくて、よかった。今のあんたの声を俺以外が聞くことがあったら、俺は嫉妬で狂って、何をするかわからない。俺はあんたよりずっと、ずっと、嫉妬深い。俺が普通に女性と接するだけじゃあんたは嫉妬しないだろうし、俺が例えば……そうだな、バスケ部のマネージャーと、あんたとの関係について相談していたとしても、あんたは自分も鶴丸に相談しているのだから、だとか、異性の友人は貴重だから、だとか、とにかく嫉妬なんてしてくれないと思った。悪かったな、俺の自己満足に付き合わせて。俺はあんたに嫉妬されてみたかった。嫉妬しているあんたも可愛くて、俺も随分毒されたもんだと、昨日の夜はちょっとした自己嫌悪に陥っていたがな」

大倶利伽羅はがしがしとワックスで整えているだろう髪の毛を掻きまわし、「しかし、面と向かって証明されるとは、思ってもみなかった」と、溜息をついた。

「あんたは、まぁ、ちょっと考えて、自分で納得して終わると思っていた。それで、今後、俺にそういうのはやめて欲しい、と、一言だけ言ってくれるというのが、俺の台本だ。最高に可愛いあんたが爆誕するシナリオだ。だがあんたはそれを数学の証明問題を黒板に書くように、俺の前でずらずらと……。俺に羞恥心が無いとでも思っているのか?……しかし、情けないだろう、女々しいだろう、嫉妬して欲しい、なんて」
「どうしてそうなるんだ。あんたは嫉妬するけど、俺は嫉妬しない、なんて、不公平だ。……俺は今まで、きっと、鈍感だったというより、臆病だった。あんたがいつ俺を離れてしまってもいいように、思考をマイナスにすることで、その時に『ああ、やっぱり』って、思えるように……。でも、今はあんたを、離したくないんだ。だから、生まれてはじめて、嫉妬をした。……あんたは俺に色んな『はじめて』をくれる。与えてくれる。で、その……あんたが、他の女性と気軽に……いや、なんだろう、異性の友人は必要だ……そうだな……必要以上に、他の女性と接することには、嫉妬をしても……いいんだろうか……」
「……嫉妬してくれ」
「そ、そして先に言っておくと、鶴丸先輩については、俺は全く恋愛対象として見ていないし、鶴丸先輩も全く、そうだと思うわけなんだが」
「それは重々承知なんだが、俺はあんたより出来た人間じゃなくてな。あんたが他の男と話しているだけで嫉妬するようにプログラムされている。あんたにその気がなくってもな。……恰好悪いだろう」
「いや、嫉妬してもらえるというのは、存外、こう……嬉しい、と言ったら語弊がある。なんとも言えない……そう、こそばゆい……?自分は特別なんだと、それだけで、思えるし、あんたはどんなあんたでも、恰好いい」

そう言ってから、山姥切は残りが少なくなったクレープを、紙を剥がしながら齧ったのだけれど、そういえばさっきこれを大倶利伽羅が食べていなかったか、と、思い出し、顔を真っ赤にした。自分のセリフにではなく。大倶利伽羅は無表情だったけれど、きっと心の中では笑っているのだろう。そして、そのクレープの、本格的ではあるけれど、パッケージ等の安っぽさから、今が文化祭真っ最中なのだと思い出して、大倶利伽羅に申し訳ない気持ちになった。

「す、すまない……せっかく、文化祭を見て回れる時間があったのに、もう一日目終了まで十分しかない……。俺は片付けに戻らないといけない……。ええと、二日目の午後、天文部ではあんた、シフト入ってなかったよな。俺も午後は空いているんだ。バスケ部のシフトに組み込まれていないなら……」
「……あんた、掲示板見てないのか?」
「……え、普通に見ているが。そういえば鶴丸先輩にも言われたな……どうしてだ?俺は掲示板は毎日確認している。掲示板を見ていなければ、授業がどうなるかわからないし、休講の知らせも掲示板だし、大学生は掲示板をまじまじと見る生き物だろう」
「……文化祭のイベント告知ポスターは見たか?」
「あ、ああ、美男美女、ミスターキャンパスとミスキャンパスを決めるんだったか。あとは、ええと、最近流行っているロックバンドの舞台があるんだったな」
「……ミスコンには推薦枠と応募枠があって、推薦枠は癪なことに強制参加ということは知っているか?推薦枠は各学部から、男子一名、女子一名が投票で決められる。締切は文化祭の十日前で、最終的な決定者の告知は一週間前に行われた。で、問題なのはその強制参加を被推薦者が断った場合のペナルティだ。推薦枠の奴が参加しないと、その学部全員にペナルティが課される。文化祭の後片付け全部だ。名簿まで持ち出すらしい。ほんとにはた迷惑な話だ」
「え、ああ、そうか。あんたは推薦枠で出るのか。大変だな……。そうか、じゃあ俺はまぁ、天文部の売り上げに貢献することに……」
「工学部の推薦枠、男子は鶴丸で、女子はあんたなんだが」
「……は!?」
「だから、掲示板はすみずみまで見ろというんだ。イベント系だって面倒なことが多いし、短期バイトが紹介されていることもある。バスケ部の練習試合の日程も掲示板に出ているからな」
「バスケ部の練習試合の日程はちゃんと見ている……しかし……」
「まぁ、工学部で渾名がつくほど有名なのはあんたと鶴丸の馬鹿くらいだろうな。いや、工学部の住人?とかもいたか。誰のことか知らないが」
「そんな大舞台に……しかし……出ないと……学部全体に迷惑が……だがどうして俺が推薦枠なんかに……い、嫌だ……しかし他人に迷惑をかけることはできない……」
「べつに、舞台に立っているだけでいいんだから、三十分かそこら耐えれは、問題ない。しかし推薦枠の鶴丸がさらに司会、というのが妙にひっかかる……あいつはほんとうに……なんというか……なんとも言い難い……」
「まぁ、そうだな。立っていればいいだけだもんな。それならまあ……。しかし、なんというか、選ばれたのはとても嫌なんだが、……ちょっとだけ、嬉しいことがある」
「俺はあんたが大人数の視線に晒されるだけで大変遺憾なんだが、何が嬉しい」
「あんたが選ばれた推薦枠に……工学部の女子は少ないとはいえ、俺が選ばれたのが、嬉しい。あんたとつりあっているんだ、と、声に出して教えてもらえたくらい、嬉しい」
「……そうか。まぁ、明日はあまり、無理をしないでくれ。一日目より忙しいし、ミスコンもあるし、天文部の打ち上げもある。俺も天文部の打ち上げの方に出るが、俺が心配するようなことは、しないでくれ」
「……わかった。頑張りはするが、無理はしない」

ふたりがそう会話を終えると、十二時を告げる学内放送があった。文化祭一日目が、終わったのだ。


一日目の売り上げは思ってもみない数字になった。確実に完売できる、という仕入れ方をしていたのに、それが早くに完売してしまって、途中で売れ行きを見た日本号が、材料の仕入れ先に二年を三人走らせて材料を追加した。そしてどうにか昼前まで販売していたのだけれど、それも売り切れてしまったらしい。大倶利伽羅の写真サービス効果がとても好評だったのだろう、と、山姥切は微妙な気持ちになったが、「工学部の天使が詰めた焼きそば」というキャッチフレーズを、山姥切は全く知らない。結果から言えば、純利益は三万円に到達していた。この数字なら二日目は二万円を回収できればいいという計算になる。大倶利伽羅の写真サービスがないのが不安だが、と、山姥切が仕入れの相談会で顎に指をあてると、日本号が「いや、その点はあんまり考慮しなくていい」と言った。まぁ、日本号がそう言うのだから、きっと他の客寄せサービスがあるのだろう、と、山姥切はすこし不思議に思いながらも、納得した。そして話し合いの結果、明日は今日の売れた分に五割増して、それを販売しようというところに落ち着いた。黒字になれば黒字になるだけ部費になるがしかし、欲を出してはいけない。明日は大倶利伽羅がいない上にイベントもあるが、十二時台があので、商品が焼きそばという天文部にはとても大きいのだ。それくらいが妥当だろう。

話し合いが終わったのが撤収作業もあったので午後の四時だった。だから山姥切は早めに家に帰ってゆっくり休もうと思ったのだけれど、鶴丸が言ったことを思い出して、自転車で、大通りの大きなドラッグストアに脚を運んだ。


そして文化祭二日目、山姥切は慣れない客寄せや、手の足りていないところへの手助けで忙殺されることになった。服は一応ミスコンに出るのだから、と、可愛いものを選んだが、動きやすさもきちんと考慮に入れている。こないだ大倶利伽羅とデートしたときに履いていたコーンヒールで、上もその時のパーカーだったが、下はおろしたてのプリーツスカートだった。丈は踝より少し上で、細かいチェックが微妙に浮き出ている。農紺とグレーという上下の組み合わせに、赤いパンプスが差し色として、うつくしく映えている。ロングスカートなら、大股で歩けるし、まずしゃがむことのない山姥切のシフトなら動きやすい。コーンヒールについても荒療治ではあったが、例のデートで随分履きなれた。そして昨日ドラッグストアで買った、デュカートのヌーディーカラーのネイルを爪にのせている。少しマットだが、ベージュに近い、淡いピンクのつややかなネイルだ。パーカーの平べったい紐はやはり垂らしたまんまだったけれど、日本号に「こりゃ今日も大忙しだな」と、からかわれた。実際とても忙しかったのだから、何も言い返せないわけだけれど。大倶利伽羅もバスケ部のシフトが入っていない時は手伝いに来てくれたが、それがさらに人を集める結果になり、もうてんてこまいな状況だった。しかし売り上げや材料の管理はきっちりと、何事にも動じない性格らしい二年の副部長がしてくれていたので、そこは安心できた。彼女の株が上がる、と言ったら失礼になるが、決して山姥切の代わりとして据えられたわけではないのだという証明になる。きっと彼女は、これからも部員に頼られてゆく存在になるだろう。

そして午後の一時、ミスコンがあと三十分ではじまる、というあたりで山姥切は後ろ髪をひかれる思いでその屋台を出なければいけなかった。出場者は十五分前に中央広場に特設された会場まで行かなければいけないのだ。そこで工学部棟の方から来た大倶利伽羅と合流したのだけれど、そこに集まった推薦枠の人々を見て、山姥切は絶句した。法学部の絶対零度美女も、農学部の天然グレーアイロシアンハーフ美女も、人文学部のファッションアイコンも、教育学部の将来結婚したい女性の理想像と呼ばれる女子も、全員がたいへんお洒落な恰好で立っている。山姥切はと言えば、屋台の手伝いで炭臭くなっていたし、恰好もシンプルで一応流行を取り入れているとはいえ、他の人物とはかけている時間もお金も違うのだろうとわかってしまう(実際そんなに大きな差はないのだけれど)。しかしミスキャンパスに選ばれたいわけではないので、まあいいか、という気持ちになった。

そして男子の方はというと、農学部は不機嫌王子の大倶利伽羅、法学部は歩く六法全書(これは見た目に関係ないのだが)である、天文部部長の長谷部、工学部は工学部の芸術作品である鶴丸、教育学部からはマダムキラーと呼ばれる、たしか燭台切という名前の男子、人文社会学部からは「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と称される歌仙が選出されていた。ただしこの歌仙という人物は空手部に所属しており、「歩く姿は百合の花」ではなく「殴る姿はマジゴリラ」と呼ばれていることを山姥切は知らない。そして、その中で、やっぱり大倶利伽羅が一番恰好いいな、と、贔屓目で見て、少しわらった。

推薦枠も美男美女、そしてかわいい系がごちゃまぜになっていてレベルが高いが、応募枠も決してレベルが低いわけではない。応募はかなりの数があったらしいのだけれど、そこからさらに文化祭委員会の審査員が厳選して、男女各五人まで絞り込んでいるのだ。山姥切は世の中にはこんなにもうつくしい、もしくは可愛い人たちがいるのだなあと感心してそれを見ていた。中には中世的で、ほんとうにどちらの性別なのかわからないような人物もいる。たしか国際文化の宗三だ。推薦枠なのだから、性別としては男性なのだろう。とにかくとても目の保養になる。しかし、そのうちの四人が天文部に所属していることを考えると、天文部はかなり顔面偏差値という謎の偏差値が高いのではないだろうか。山姥切が顎に指をやったところで、集合がかかり、粗方のイベントの流れが説明された。

まず、ミスター候補の紹介が先で、それからミス候補の紹介がされるらしい。候補者たちは事前にプロフィール用紙にありきたりな自己紹介を書かされていたので、それについては司会進行の鶴丸が面白おかしく読み上げる。山姥切も昨日急いで書いたものだ。趣味、特技、好きなこと、と、ほんとうにありきたりだった。そして、舞台上で何か一言、アピールでもなんでも言わなければならないらしい。山姥切はそれを言われた瞬間に「え、」と思ったが、まぁ、「俺みたいなのがこんな場所にいてすみません」と、大倶利伽羅には怒られるだろうが、そう言えばいいだろうと思った。実際、どうしてそうなったのかわからないのだから。

ルールは単純で、ギャラリーには工学部の電気電子科の生徒たちが文化祭委員会から報酬を得て作った投票サイトがあり、そこで投票を行う。だから期日前投票も勿論OKだ。ただ、スマートフォンは可変IPアドレスなので、個体識別番号で投票を管理し、一人一票までしか投票できない仕組みになっている。そしてそのサイトはスクリプトでPCからは接続できないという技術も組み込まれているため、不正はできない。なんなら検索避けもしてあるので、配布されるQRコードから飛ばないかぎり、そのサイトにたどり着くことは基本的にできないようだった。

山姥切はQRコードを読み込んで、少しこそばゆい気持ちになりながら、男子の部の大倶利伽羅に一票入れた。投票を終えたサイトは「投票ありがとうございます」という文字と、「続いて女子の部への投票をどうぞ」と、フォームが出現したが、山姥切はまず自分に入れる意味がわからないし、誰に投票していいかもわからなかったので、そこでタスクキルをした。

そうしているあいだに鶴丸が真っ白なスーツにベスト、金色のボタン、蝶ネクタイに白いシルクハットという、鶴丸以外がやったら似合わないことこの上ない恰好で恥ずかし気もなく「レディースエンジェントルマーン!」と、進行を始めてゆく。まず男子の部だったが、その前にこのイベントのルールが簡単に説明された。QRコードはパンフレットに載っているので、パンフレットを持っていない人には、何人かの係の人がパンフレットを配っている。そこまではよかった。

説明が終わって、いざ男子の部、という時になって、鶴丸が「なあみんな!面白いこと、サプライズは好きかい?」と声を張る。

「俺は楽しいこともサプライズも大好きだ!だから文化祭委員会にも許可をとって、前日まで発表しないでいた特別サプライズ賞品を用意した!それはミスターキャンパスとミスキャンパスに選ばれた人物に与えられる、『権利』だ!ミスターはミスに『キスする権利』を、ミスはミスターに『ハグする権利』を与えられる!ただしミスターがミスにキスするのは『ほっぺた以外』は許可が必要!される側のミスやミスターに拒否権はないが、する側のミスとミスターには『しない』、という権利はある!」

そのセリフを聞いて、山姥切ははじめ、「なんだ、自分には関係のない賞品だ……」と思ったのだけれど、よくよく考えると、大倶利伽羅はミスターに選ばれる可能性がある。そしてミスに選ばれた女子だって、相手が大倶利伽羅なら、まずハグしたいに決まっている。そう考えるとどうしようもなく辛いような、悲しいような、嫉妬というより、なんと表現していいのかわからないけれど、ぐるぐると暗い気持ちになった。

結果発表はミスターもミスも同時に行われるので、大倶利伽羅が選ばれたから、だとか、選ばれなかったから、だとか、そういう子狡いことはできない。できたとしても山姥切には無理だろう。そうして山姥切がどうしようどうしようと考えている間に男子の部が始まり、鶴丸が面白おかしく進行をしてゆく。法学部の長谷部についてなんか、「こいつの趣味は読書なんだが、読んでいる本は基本的に辞書だ!こいつは頭がおかしい!思想書も読むらしいけどな!あと得意なことは暗記だとか、絶対数学でつまずくタイプの人間とみた!そして論理馬鹿な上に理屈でしか物事を判断できない!かといって情がないわけではなく、人間関係については情け深い一面を持っているから、上司にしたい男ナンバーワンは実質長谷部だな!」なんて言っている。実際そうなのだ。長谷部はものすごく論理的に物事を判断する能力も持ち合わせている。そして、やはり論理的にではあるが、こういうとき人がどう思うか、考えるか、そして対象の人柄を加えて、的確なフォローを入れてくれる。だからこそ百人以上部員がいる天文部の部長をやっていられるのだ。唯一の欠点である「柔軟性に欠ける」という点は日本号がきっちり補っているから問題ない。ちなみに長谷部の一言は「天文部について、今までは何年生からでも部員を受け入れてきたが、来年からの入部については二年まで、それも四月いっぱいで締め切ることとする」という、アピールでもなんでもないことだった。長谷部らしいと言えば長谷部らしい。

そうして人文、法学、教育、工学、ときて、農学部の推薦枠の紹介になった時、山姥切は、大倶利伽羅は何を言うのだろう、と、心臓がバクバクと音を立てるのを、必死でおさえなければならなかった。ちなみに鶴丸の一言は、「工学部の芸術作品と名高い俺だが、俺がミスターになってしまうのはつまらない!自分で作ったサプライズに自分がひっかかるなんて、悪夢でしかないだろう!」と高らかに笑っていた。そしてその次の大倶利伽羅の紹介は、大倶利伽羅が舌打ちするような内容だったらしいが、山姥切の頭には入ってこない。そして鶴丸にうながされて、大倶利伽羅が「一言」を言う局面になった。その時大倶利伽羅は、真っ青な舞台袖の山姥切にちらりと視線をやってからため息をつき、「絶対俺には投票するな。投票したら殺す」と、農学部の不機嫌王子の名前に恥じない一言をギャラリーに言ってのけた。鶴丸は「大倶利伽羅は物騒だなぁ」なんて笑っているけれど、これじゃあ逆効果だ、と、女子の黄色い声でわかってしまった。

そして男子の部が済んで、女子の部になった。立候補も推薦枠も、学部ごとの順番になるのだけれど、工学部からは立候補枠が出なかったらしく、山姥切の右隣りは教育学部の自愛に満ちた身長百六十八センチの美女で、左隣は農学部の天然グレーアイロシアンハーフ美女、身長百七十一センチに囲だった。身長が百五十八センチの山姥切はさらに身体を小さくさせて、ただただ怯えながら舞台に立っている。女子の部の推薦枠は、人文のファッションアイコンを除けば全員が百六十センチを超えていた。立候補枠も山姥切より小さい女子はほぼいなくて、姿勢やらなにやらで、山姥切はさぞこの舞台上で小さく見えることだろう。

そうしてやはり鶴丸が司会進行をしているのだけれど、誰が何を言っているのか全く頭に入ってこない。緊張やら大倶利伽羅やらなにやらで頭がぐるぐるになり、なんなら目を回して卒倒しかねない。そんな山姥切に、突然鶴丸が、「では工学部の天使から一言!」とひときわ大きな声を向けてきた。山姥切は「え、え、」とぶるぶる震えて、そうしてマイナス思考モードに突入し、泣きそうになりながら、「お、俺は……」と何か言おうとするのだけれど、考えれば考えるほどに辛くなって、それがいっぱいになったらぷつん、と視界が切れた。それは卒倒したとか、昏倒したとかそういう視界の切れ方ではなく、世界が千切れる、という切れ方だった。山姥切はぷつん、ぷつん、と涙をこぼしながら、「俺は……と、投票……して……ほしくない……でも、でも、わ、わからない……ど、どうしてか、わかってるけど……い、言えなくて、……投票してほしくも、あって……その理由が、言えなくて、言えない自分が情けなくて、……す、すまない……」と、うつむいて、顔を手で覆った。そうしたら鶴丸がすぐに駆け寄ってきて、「大丈夫か?歩けるか?歩けるなら、舞台袖に行っていい。君の王子様が、そこで待っているから」と、マイクを通さないで早口に囁き、係に指示をして、山姥切を下がらせてくれた。そして次の瞬間にはがらりと雰囲気を変えて、「工学部の天使の異名は伊達じゃないな!だが彼女の気持ちをよく考えてくれると俺的にはうれしい!なんて純粋な子なんだろうなあ!さあ次だ!」と、フォローをしつつ、観客のどよめきを鎮める、おもしろおかしい話をはじめた。

舞台袖に引っ込んだ山姥切は、そこに大倶利伽羅もいたけれど、他の男子もいたのでどうしようもなくって、隅の方でしゃがみこんで、「う、う、……」と泣くしかなかった。けれど大倶利伽羅は他がいようといまいと、「大丈夫か」と山姥切に声をかけ、自分もしゃがんで、山姥切の頭を撫でた。そうして、いつものように眉尻を下げて、「泣かれると、困る」と言った。山姥切はその声のやさしさに、どうしてこんなことになったんだろうと、茫然としながら、抱きつきたい衝動を抑えて、「あ、あんたは、多分ミスターに、なるから……」と言った。

「……論理的に考えて、確率はこの中で一番低いと思うわけだが」
「……もしもでも、万が一でも、あんたがミスターになるのは、嫌だ……」
「俺もあんたがミスになるのはかなり嫌だな」
「お、俺は、なれないから……」
「……どうやら、同じことで気を揉んでいるらしい」
「同じこと……」
「あんたは俺が誰かにハグされるのが嫌だし、俺はあんたがたとえ頬だったとしても誰かにキスされるのが嫌だ、という話だ。おんなじなんだから、そんなに泣くな。……いつもと同じですまないとは思うが、泣かれると困るんだ。あんたにどうしてやればいいのか、俺にはわからないし、この場所でできることも、限られているから」
「……ん、」

大倶利伽羅の言葉だけは綺麗に耳に吸い込まれて、すとんと心の、落ちるべきところに落ちた。そうしたら涙が落ちるのは止まって、山姥切は「俺が誰かに、もしも、もしもだぞ、頬にキスをされたとしたら、あんた、どれくらい嫉妬してくれる……?」と尋ねた。そうしたら大倶利伽羅は、「今晩にでも教えてやる」と、公衆の面前で吐いていい言葉ではないだろうそれを静かに吐き出した。けれど山姥切にはその意味がつかめなかったので、「俺はあんたが俺以外とハグしたら、あんたの身体が俺のかたちになるまでずっと抱きしめてもらうから、覚悟しておいてくれ」と、へらり、笑った。その場にいた男子生徒についてはご愁傷様だ。

そしてアクシデントはあったが、ロシアンハーフ美女も気をきかせてくれたのだろう、結果発表の会場に山姥切が泣き腫らした顔で出てきても、観客はそこまで山姥切に頓着はしなかった。それを察した山姥切は隣の美女に、小さな声で「ありがとうございます……」と言った。クールな面持ちの女性だったが、眦を下げて、「いいよ、お幸せにね」と言ってくれた。異名を持つからには、良くも悪くも人気者で、男子ならまだしも、女子なら最低限の気遣いができなければそれは悪名に変わってしまう。自分が目立つということを知っている人間は、それ相応の処世術を学ばねばいけないのだ、と、山姥切ははじめて痛感した。この舞台に立っている以上、自分も良くも悪くも、目立つ存在で、だから嫌がらせもされたし、ひどい扱いも受けた。でも山姥切を助けてくれる人たちがちゃんといて、その人たちにばかり頼る、小さなコミュニティに閉じこもっているのは、とてももったいなくて、卑怯なことなのだと、思った。だから、これからはもっと、ちゃんと、自分を自分できちんと評価して、誰からでもなく、大倶利伽羅だけでもなく、自分を好きと言える人間になりたいと、そう思った。

「さあ!驚きの結果発表だ!本当は舞台にスポットライトを当てたかったんだが、流石に予算が降りない!かといって名前を呼ぶだけではつまらない!だから今から出場者に中身の見えない封筒を配る!ハズレは白!ミスターキャンパスに選ばれた男子の封筒には青、ミスキャンパスに選ばれた女子の封筒には赤のカードが入っている!出場者は合図と共に封筒を開けて、色がついていたらそのカードを掲げてくれ!」

そして鶴丸が「さて!結果発表だ!」と、言うと、録音されたものらしい、ドラムの音がして、最後に、「ジャーン!」と、ありきたりな合図が鳴った。山姥切はさっきよりずっと震えていない手で封筒を開けて、中身を取り出す。そうして、「えっ」と声を漏らして、大倶利伽羅の方を見ると、大倶利伽羅も驚いた顔で、山姥切の方を見ていた。だから、山姥切はおそるおそる、その赤いカードを、頭上に上げる。大倶利伽羅は、青いカードを、頭上に上げていた。

「おめでとう!ミスターキャンパスは、農学部の不機嫌王子!大倶利伽羅!ミスキャンパスは工学部の天使!山姥切だ!」

それから鶴丸は、ハズレのカードを持った候補者たちも褒めたたえ、一言いいたい人には喋らせて、場の空気を盛り上げた。長谷部は「まぁ、俺は権利なんてものをもらっても、想う相手でなければそんなことはしないし、されたくもないのだから、このカードを引いて正直ほっとした」なんて言っている。推薦枠の男女は「ちょっと残念だけど」というようなコメントが多く、立候補枠はさすがに悔しそうにしていた。それもそうだ。ほとんどは大倶利伽羅の発言からの山姥切のお涙頂戴な発言で決まったようなものだから。どうしてそうなったかをわかっている人間は、わかっているからこそ祝福するか、わかっているからこそ出来レースだ、と、妬んだ。わからない人間は陽気に拍手を送っている。そんなみっつの不思議な空気が、山姥切にはひりひりと感じられて、いたたまれなくなったけれど、どんな理由であれ、選ばれたのだから、きっと責任があるのだろうな、とも思った。この責任によって大倶利伽羅と幸せにならなければならないということはないけれど、祝福の拍手に報いるだけの努力はしようと、そう思えた。

そうして、一通りが終わったら、舞台に残っているのは大倶利伽羅と山姥切だけになった。もとからふたりの距離は離れていたのだけれど、大倶利伽羅が鶴丸に手を引かれて、山姥切の近くに来た。けれど舞台の真ん中でないと恰好がつかないから、と、はけるところだった燭台切に、「真ん中までエスコートさせてね。伽羅ちゃんも、まぁ僕なら許してくれるから」と、山姥切の方も背中を押される。どこかで見たことがあると思ったら、バスケ部のマネージャーだ。大倶利伽羅のバスケ部にはマネージャーが何人かいるのだけれど、男子でマネージャーをしている人は珍しかったので、覚えている。

そうして真ん中に立ったふたりに、鶴丸がひそひそと、「よかったなぁ」と、にやり、笑った。

「さあ!ここで賞品だ!ふたりには『権利』が与えられる!大倶利伽羅には山姥切にキスする権利!山姥切には大倶利伽羅にハグする権利だ!さーて、ふたりはどうするのかな!?」

山姥切は、自分と大倶利伽羅が一緒に選ばれるなんて未来を想定していなかったので、どうしていいかわからず、しかも人前だし、と、さっきまで泣いていて、ずっとずっと抱きしめてほしかったのに、それができなくなってしまった。人間はそうすぐに変わることのできる生物ではないということがよくわかった。大倶利伽羅は、「俺は普通に権利を行使するが、あんたはどうするんだ」と、マイクを通さないから近くの鶴丸くらいにしか聞こえない音量で言った。山姥切は、「お、俺も、権利、行使……したい、けど」と、ぼそぼそ、呟く。

「そうか」

大倶利伽羅はそう言うと、近くにいた鶴丸のシルクハットを奪って、口元を隠し、そうして、山姥切の唇に、観客にみえないよう、そして頬にしてるように見える角度でキスをした。鼻が少しだけ、あたる。だから、大倶利伽羅が「ほら、頬にしたぞ」と、まざまざと真相を目の前で見せつけられた鶴丸にシルクハットを投げたあと、山姥切はすんなりと、大倶利伽羅にハグすることができた。それは軽くだったけれど、嫉妬されるよりずっと、幸福なハグだった。そのあと大倶利伽羅が、「俺は前に、このパーカーはこうやって着ろ、と、言っただろ」と、そのパーカーの紐を縦結びにした。そして「俺は縦結びにしか、できないんだから」と、言う。だから山姥切は少し笑って、「……縦結びは、蝶結びより、ほどけやすいんだ。……その、あんたが結びなおしてくれる回数が多くなるなら、俺はずっと、蝶結びになんか、しないだろうな」と笑った。会話は二人と、その近くにいる鶴丸にしか聞こえないものだから、観客はふたりが照れ隠しをしているようにしか見えなかっただろう。二人の横では鶴丸が「これだからこのふたりは」という顔を一瞬してから、すぐに司会に戻って、ミスター、ミスコンの終了を告げた。



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