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失われた記憶、虚ろな身体、空虚な意思

いつだったか、私は人買いに売られかけたことがあると誰かに漏らしたことがある。その問いかけに対する返答は、唾棄すべき犯罪者に対する怒りと嫌悪。そして私に対する労わりと安堵。そして最後には皆、口をそろえてこう言う―――「でも、本当によかった。大事に至らなくてなによりだ」と。

そう、彼らは私が売られることを、深く考えるまでもなく悪しと判断した。それが、彼らの価値観に沿って、当然だったのだろう。

だが、―――その行為があの時の私にとって、悪い事だったのかと問われればそれは正しくない。あの時エーリカに下卑びた顔でこれはいい値になる、と語りかけた男を前にして思ったのは、「それで私はこれからは何をすればいいのか」ということだけ。

何故そんな答えに至ったのか。その答えは馬鹿みたいに単純。だって、そう振る舞うことを求められた、だから答えた。ただそれだけ。つまり、彼らが不義を反射的に厭うように、エーリカにとって命令に従うことが息をするように当然だったのだ。機械のように、感情もなにもはさまない、冷たい思考回路。我ながら、あまりにもいびつな心をあの時の私は当然としていたのだ。

エーリカに倫理観がないのならわかる。
並みの思考回路がないのならわかる。
その回路を回すエネルギーとなる、知識がないのならわかる。
忘却と共に、それらすらも忘れ去っていたのならば、それは赤子と同義。単なる愚者ではなく、それは無垢が故の過ちだ。

だが、あの時の自分には、倫理観も、今と同じだけの思考回路も、事の良し悪しを判断する知識もあった。そして、今の自分でも理解ができないことだが、あの時の私にはそれが一般的に悪しとされる行いだと理解していて、それを難なく受け入れたのだ。反抗する……という選択肢などはなからなかった。そう命じられたのだから、と。

まあ、今となっては想像でしかないが、あの時の私にはそんな疑問を挟む余地などなかったのだ。命令、役割。そんなものを与えられたのだから、それに相応しく振る舞う。そんな単純な結論として、その後自分がどうなろうとも、人形のように難なく受け入れられたのだろう。

己の感情を何一つとして入れ込む余地のない、一つのある種完成した機構。自分の意思を持たず、誰かの命令通りに行動するだけの歪な装置。それが、あの時のエーリカだったのだ。……全く持って信じがたい、気が狂っているとしか思えない思考回路だ。

そんなものが、長持ちするわけがない。そんなことから目をそむけ、ただ求められるがままに振る舞った。だが、人の欲とは限りないもの。エーリカの特異性を理解したうえで、十全に使いこなすならいざ知らず、ただ人にそんな都合のいい道具を使いこなせるわけもない。巨人に襲われなくとも、早晩、破綻は訪れていただろうことは想像に難くない。

そんなエーリカが、道具として破綻する終わりをむかえなかったのは―――単に、悪運が強かったのだろう。

今となっては断片的にしか覚えていないが、同様の行いを繰り返した。
巨人から逃げろ、と言われたから逃げた。
助けてくれと手を伸ばされたから、助けた。
こいつらを頼むと言われたから、請け負った。
この子のために、馬車の席を譲ってくれと子を抱いた女に乞われたから、譲った。

だが、巨大な口に咀嚼される人々を助ける事だけはできなかった。
巨人恐ろしかったからではない。死ぬことが怖かったからではない。単に力が足りなかった。自分の身に余ることだと、感情が入る余地のない思考回路で判断した。ただ、それだけだったのだ。もし、自分が死ぬことで彼らを助けられたのなら、簡単に命だって投げ出したことは間違いがない。


そして、機械は命令を下す者がいなくなれば、その唯一無二の意義を失う。なら、願いをかなえられなかった時点で、処分されるのは道理にかなっているだろう。かくして、人の形をした装置は他と同じく噛み砕かれることを受け入れ、私は迫る死に頭を垂れた。

そう、当の本人が諦めたというのに―――

『無事!?よかった。本当に、よかった……あなただけでも、助けられて』

そんな、本人ですらも無価値だと断じた命を、
まるで、無類の価値があるかのように救い上げた人がいた。


心の底からの安堵と感謝を込めた、幸せそうな笑顔。
涙をこぼしながらも、手を取り微笑むその姿。
その時エーリカは、万感の言葉を尽くすよりも真摯に心に訴えかけるモノが、この世にはあることを目の当たりにした。

例え常識が通じなくても、例え記憶がなくとも。
ただ、率直に気持ちを伝えてくるもの。
理屈を超えて心揺さぶるもの。
おそらくは、感動と呼ばれる何かを齎すもの。
エーリカはそれを、彼女の姿に見たのだ。


未だにエーリカは自分というものがさっぱり分からない。だが、わからないなりに、折り合いをつけて生きていくことはできる。幸い、記憶を失うまで受けていた教育が、ある意味で良かったからか、一通り以上のことは難なくこなせた。いっそ、生きるのに必死なら、手を出しはしなかったのだろうが。―――だからだろう。この有り余る力と衝動の矛先をどうしたらよいのかなんて、つまらない問いを抱いたのは。

だからこそ、この意味の分からない衝動とその余裕の分。彼女を助けようと思ったのは自然なこと。ペトラにはそれだけの恩義があり、そして彼女には受け取る義務がある。有難迷惑と言われても、押し売り上等。私を助けた責任だ。もうしばらく私のわがままに付き合ってもらおうと思うのだ。

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