電子の海で
◆SIDE:×××
沈むように意識が落ちてゆく。
もう手も足もない、むき出しの自分のままここにいる。
いや、自分が沈んでいるのか浮かんでいるのかすらわからない。
ただ――――遠い。
ごぽり、と耳元で音が聞こえる。
全てが0と1になって、溶け消える電子の海。
ここは水底。底なしの空。
現と虚ろの狭間の地。
青く、蒼く、碧い電子の海。
そこでは全てが緩慢だった。あるいは加速していた。
めぐる時は一定ではなく、一瞬だったかもしれないし、永遠にも感じられた。
そこでは時に意味はなく、意味を与えるのは観測者たる己のみだった。あらゆるものが走馬灯のように過ぎ去り、また一瞬が永劫にも引き伸ばされてここにあった。
いずれにせよ、まともな精神では耐えられない。
そんな自分の形を溶け消える寸前の頭で、思い出す。
何故、ここにいるのだろうか。
私は、まだ表側で――――
思いを巡らすごとに、緩んだ体は形を取り戻し、
感覚を研ぎ澄ませるごとに、体は重く、心は固く沈んでゆく。
堕ちる
落ちる
墜ちる
私はムーンセルと契約を結んだのだ。セラフへの恭順と引き換えの、仮面(AI)を。
その役割を駆使して、あらゆる情報を集めた。
そう、私は5……回戦を見届けたのだ。
だというのに、こんなところに私がいるのは――――
と、そこまで考えて、思わず笑ってしまった。
なるほど、つまりバグ、か。
ムーンセルですらも、そんな機能を有していただなんて、面白いことね―――
娘はそう微笑んで、己を形作る意志をほどいていった。
なぞった記憶も、夢の果て。
願った祈りも、霞の向こう。
それでも、今はそれでいい、と娘は受け入れた。
なぜなら、これがバグだとするならば、ムーンセルが気づいた時点で、全てが元に戻るからだ。
それならば、何も求める事も、何をする必要もない。
ただ、座して待てばいい。
表と裏が、逆さになる瞬間を。
そうして、虚無の眠りに溶け落ちる瞬間
『――――センパイ』
―――声を、聴いた。
珠に傷をつけるような耳障りな声。
万全の充足感から、引き離されるような不快感。
『センパイ――――いいえ、シャノンさん』
それは女の声だった。
月を穢す、おぞましい女の情念にまみれた声。
己の殻に与えられた役割ではなく、あえて個体を表す名で呼びかける、汚濁を泳ぐような、あるいは灌ぐような声。
『シャノンさんったら、もうこんなところで無意味で無価値なまま消えちゃってもいいんですか?今なら、可愛い後輩系アイドルのBBちゃんが、助けてあげないこともないですよ?―――もちろん、その分の労力は体で返していただきますけど』
醜悪な願い、醜悪な祈りを抱いた、道化を気取る女のささやきが、静謐の海に木霊する。
そんな言葉に耳を傾ける必要などなかった。
こうして溶けているのは、この女のせいなのだ。
押し付けがましい救いなど必要ない。
月さえ正常に戻れば、契約に基づいて私は「役割」に戻れるのだから。
月が正常に戻らなければ、ここで起こす行動も、何一つ意味がないのだから。
後はただ、目を閉じて、意識を溶かすだけで、この不純物は世界(私)からいなくなる。
だというのに、なぜだろう。
耳をふさぐことができなかったのは。
己が持つ技は、月をも惑わすもの。
遠い昔、あるいは遠い未来、
なんでもない一日を、ただ繰り返すためだけに、己に縋った、一人の少女の姿を思い出してしまったからだろうか――――
ああ、と吐息のように泡を吐き出して、観念した。
あらゆる因果の糸は織り合わされている。
ありえない記録。
月の影(キャンサー)の元凶。
それをこうして、思い出してしまったからには、何らかの意味があるはず。
熾天の檻は未だ遠い。
ならば、少しくらい付き合うのもよいだろうと、考えたのだ。
そうして、シャノンは目蓋を開けて、おぞましい愛に迷い、狂おしい恋に惑った、誰よりも一途な一人のAI(女)を認識した。
prev / next
[ top ]