彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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 怖い物なんて何もない。そう言えるような人間になりたい。何の取り柄もない一介の女子供には大それた望みだろうか。それでも私はもう何も恐れたくなかった。独りも、無力も、無知も、それは私の一部ではあるけれども恐れるべきことじゃない。自分の足で歩きたいのだ。彼のようにとまではいかなくとも、強く、不敵に生きていきたい。負けたくない、負けたくない、負けたくない。
 何かに責められるかのように、追い立てられるかのように、たった一度だけ酒の勢いで自分を吐露した彼の表情に浮かんだ焦燥にあの時私は疑問を抱いた。でも、今なら分かるわ。彼を急き立てていたもの、その正体。それは、負けたくないという意志だった。誰にというわけでもない、ただ闘うようにしてがむしゃらに生きる姿は綺麗な物じゃないかもしれない。それでも何も考えず、与えられた物の中で温々と生きるよりはずっといい。私は彼を愛する以上に、彼のようになりたかった。私たちは負けたくないのだ。

 だから、力が欲しい。


 午後の授業に出る気になれずに学校を後にすると、校門を出てしばらく歩いたところで出くわした人間に思わず顔の筋肉が反応した。

「ひさしぶり」

 会いたくもなかったわ。そんな気持ちを込めて呟くと、彼女はどろりとした目で私を見つめた。

 私は、自慢じゃないが体育は常に評価5を貰ってる。そして私の知っている限りでは、この女は(元来のサボりグセもあり)常に2だったように思う。取っ組み合いになれば勝つ自信はあった。ただ、相手が自分にご執心の趣味劣悪な男共を複数使ってくるなら話は別だった。

「おぼえてる?」

 沈黙を挟んでようやく彼女が口を開く。

「殺してやるって、言ったよね」

 あれだけ頻繁にメールや電話をした上に幼稚な嫌がらせまでしておいてどの口が覚えているかと訊けるのか。呆れたため息をつく。

 病的な女だ。執着した対象を踏み付けてなお圧死させるまで離すつもりはないんだろう。じわじわと伝わってくる彼女の負の感情。この場合、すでに彼女の執着の対象は彼ではなく私であると考えたほうがいい。まったく厄介な人間に取り憑かれたものだと思う。

「アンタってさあ、いっつもそうだったよね。腹の底ではあたしのこと馬鹿にしてさあ」

 気づかないとでも思ってた?
 そう思ってた、とこの場面で口にするのは火に油を注ぐのと同じなのだろう。

「あんたは……私に何を言わせたいわけ?」

 馬鹿にしていたこと謝ってほしいとでも? それともあの夜なくしたピンヒールを弁償してほしい? いいや、そうじゃない。それは私もわかっていることだ。

「土下座してよ」
「……」
「……って言おうと思ってたんだけど、それじゃつまんないよね」

 厚くグロスが塗りたくられた唇が歪むと、それから彼女はさり気なく背後を振り返った。するとそれを合図にしたかのように、道ばたに停車していた車の中から二人の男が現れる。

「あんた、土下座なんて死んでもしないでしょ? だからそのとおりに死んでもらおうと思うの」

 彼女は心無しか綺麗な笑顔を浮かべているように見えた。この醜悪な女でさえそうなのだから、彼が殺意を持って人と相対する時はきっと比ではないくらい美しい微笑みを浮かべていたんじゃないだろうか。

「あたしがそう簡単にくたばると思うの?」

 対して私は、挑発的な言動とは裏腹にスカートのポケットの中に手を忍ばせた。額からは嫌な汗が吹き出ている。目の前に立ちはだかる人間をこんなにも憎悪一杯で眺めたことなんて一度もない。いつか来る、来るだろうと思ってはいたけれども、ついに目の当たりにしてしまうと足が竦んだ。私はこういう人間だ。それほど強くは出来てない。それでも負けたくない。負けたくない。私は本気であの人が好きだった。

「おとなしくしてりゃずっとトモダチでいてあげたのにさ」

 この売女が。吐いて捨てるように彼女は言う。晴天の下に彼女のミニスカートと厚化粧はどうにも威圧的で、アンバランスに感じられた。
 つーかどっちが売女だよ、何がトモダチだよ。黙れ黙れ。お前みたいなのがトモダチならトモダチなんて二度といらねえよ。黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!

 異様な熱が身体の底からこみ上げてくるのを感じていた。これが憎悪か。私はこんなにもこの女を憎んでいただろうか? いや、そんなことは関係ないのだ。自分の身に危険が迫れば、どんな善良な人間だって無差別に憎めるほどのエネルギーが沸いてくるものなのだろう。これを生への執着と言うんだろうか。

「あんたのこと友達だなんて思ったことなかったわ」

 馬鹿にしたように言うと、彼女の顔が醜く歪んだ。嫉妬に狂った雌は執着する雄ではなくてその浮気相手を刺し殺す生き物だ。

「……あの人のこと好きでもなんでもないくせに」

 あんたはただ自分の思い通りにならないものがあることが許せないだけじゃない。以前の私と同じ、少し手を延ばせば大抵のものは何でも向こうからやってくると思ってる傲慢な女。
 でも私は本気だったんだ。誰がなんと言おうと、相手にされていようとなかろうと。そう言った言葉の中に感情が含まれていたのか、彼女は嘲るかのように笑った。

「なあに、足開いたら心まで開いちゃったわけ。ウケる」

 プツンと何かが私の中で切れる音がした。

 身体が震える。彼女の背後に佇む男たちの嫌らしいニヤニヤとした笑に気付いていなかったわけじゃない。きっと私のことを犯して、ビデオでも撮って脅してやれとでも言われているのだろう。あらかじめ用意されている彼女等にとってのエンタテイメントに私は戦慄する。それ以上に怒り狂ってる。そして、それ以上に私は冷静だった。

 彼女の企てた最悪の結末を塗り潰すかのように、頭の中で未来のビジョンを再構築した。

 私は男を一人、ナイフで刺す。刺す場所はどこでもいい。それから引き抜いたナイフでもう一人の男に切り掛かる。切る場所はどこでもいい。最後は女だ。たとえ途中で逃げ出しても、足は私の方が遥かに早いだろう。すぐに捕まえて、コイツには彼から貰ったお守りをくれてやる。どんな効き目があるのかは私も知らない。本当にただのお守りなのかもしれない。でもその時はその時だ。絞め殺してでも、逃がしはしない。

 モノクロームの映像が映写機の中でくるくる、くるくると回る。大丈夫、頭は冷静だ。最後に大きく息を吸う。

 ───ねえ教えて。私はこの状況で、生き残ることが出来るのかしら?



(起き上がる狂気)



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