彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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『殺してやる』

 思い出したかのように再び送られてくるようになったメール。その簡素な文面を見返すことで、私は私のすぐ隣にも彼と同じような非日常が転がっているのだということを肌で感じることが出来る。

 それでも現実は実に単調で、ただ穏やかで退屈な日々が過ぎているのだと思っていた。


 課外授業を終えて教室に戻ると、扉を開けた瞬間にこちらに集まった奇妙な視線にふと顔をあげた。見ると、私の座るはずの椅子と机が端っこに投げ出されている。さらにその上にはワザとらしく刃を剥き出しにしたカッターが起立していて、ついでに机上はズタズタに切り裂かれ、その上には大きく罵り書きがしてあった。
 ザワザワ、ザワ。教室に満ちるさり気ない騒音。時折含み笑いが混じるように聞こえるのはきっと気のせいではないだろう。このクラスメイトたちは誰が犯人であるのかを知っているのだろうに、誰一人私に声をかけてくるヤツはいない。

 辺りを見回すと、私はバックを手に取って小さく舌打ちをした。下品な女のやることは総じて下品だ。どいつもこいつも自分に飛び火しなければそれでいいと考えてる。私だってその一人なんだから。


 場所を移動して昼食を取ることにした。通学鞄を漁って取り出したのはコンビニのパンと缶コーヒーという簡素な食事だが、店に入った時にそれとなくこの缶コーヒーを手に取ったのには理由がある。それは彼の部屋の中にあったがらんどうの冷蔵庫の中に何故かたった一つストックしてあったもの。大量のコーヒーを手にしてラベルを確認し、なんなのこれ? と問えば彼は顔を顰めて、しかし満更でもなさそうに口を尖らせた。

『ああ、それ。クロロがどっかからくすねてきたの』

 俺はあんまりコーヒーって飲まないんだけどさ、と言いつつも部屋に行くと大抵いつも空の缶が二、三個転がっていたものだ。

「……ニガイ」

 ちびちびと口にして、時折菓子パンで苦みを誤摩化しながら呟く。馬鹿みたいなことをしている自覚はあった。ブラックコーヒーが喉に沁みる。

 彼と別れた後に予報通りやってきた大シケも過ぎた空は気持ちがいいくらいの快晴で、気まぐれにやってきた屋上は学校の中でも絶好のスポットと言えた。一人で食べる昼食は少し寂しいけれど気が楽だ。イヤホンを付けて音楽を聞いたり、買ってきた漫画の新刊を読んだり、携帯を弄ったり、人目を忍んで一服することだって出来る。文句を言うヤツはどこにもいないんだから。

 私のメールアドレスを知っているはずの彼からはあれから一度も連絡が来ていない。後ほど知ったことだが、彼は携帯を何台も所有していて、しかもそれらは使い捨てと言っていいくらいどれも短命で彼の手元から去っていくものらしかった。一つだけ彼が常に所有している携帯を見たことがあるが、それはあのキチガイ上司と話している時にのみ使っていたものだった。つまり私からの連絡手段はハナから一つも与えられていなかったということだ。

「ちぇ、やなヤツ」

 少しくらい名残を置いていってくれてもいいのに。授業中の校内で煙草を吹かし、携帯を片手に独り言。
 私は彼に出会って何か変わっただろうか。変われただろうか。似合わないと言われても結局は彼の嫌いなメンソールを吸い、あれ以来キャラメル・マキアートも飲んでいないしすみれ色のワンピースにも袖を通していない。私は彼の望む女にはなれない。私は変われない。

 そんなことを考えてから、私は不意にあることを思い出し制服のスカートのポケットに入っているものを取り出した。
 たった一つ変わったとしたら、自分の意識の中に隠れていた思いがけないものを探り当ててしまったことなんじゃないだろうか。私はそれを具現化したかのような、女子学生の手にはどうしたってそぐわないそれ等を太陽の光に透かしてみる。

 折りたたみの小さな果物ナイフと、彼からもらったちっぽけなお守りだ。こんなもんが一体何の役に立つのかわからないが、持っていないよりはマシなのかもしれない。そう思ってからは常にポケットの中にこの二つを忍ばせている。

『殺意なんて愛情よりもよっぽど簡単に』

 不意に彼の言葉が記憶の底から蘇ってくる。その通りだ。今思えば、私の中にも確かに殺意が存在していた。それは眠っていただけで、いざとなれば獰猛に牙を剥くものだったのだ。


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