彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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「ねえ」

 私は隣のシートに座る彼の手をギュッと掴んだ。すると不意のことに、それとも慣れているくせにこういうことに遭遇したことがなかったのか、彼はぎょっと身を怯ませるかのような反応をして見せた。

「最後に一つだけ教えてよ」
「……何を?」
「あんた、私の事少しは好きだった?」

 警戒した様子だった彼を纏う空気が、ほんの少し緩んだ気がした。

「もちろん」
「ちゃんと言って、声に出して」

 泣きたいと思った。思い切り泣いて、やっぱり私をそばに置いて、一緒にいさせて、これっきりなんて嫌だと言って大声で叫び散らしたかった。

「好きだよ。君が好きだ」

 自分の表情がグシャグシャに崩れていくのが分かる。それでも涙を堪えたのは、私に残された最後のプライドを守りきるためだった。あんたなんかいなくたって私は平気。いくらでも生きていける。あんたのことなんかすぐに忘れて、次の恋をする。今度はあんたよりもずっと優しくて誠実で私だけを愛してくれるいい男を捕まえる。いろんな言い訳や強がりの言葉が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消え、結局何も口に出来ないまま、時だけが確実に過ぎていく。

「君は? 俺のこと結構気に入ってたんでしょ」
「……」
「俺にばっか言わせてずるいじゃんか」

 恨めしい。ジロリと睨みつける。そうやってずっと余裕ぶってろよ、ほんとは苦しくて苦しくて堪んないくせに。目に入るもの手当たり次第全部ぶっ壊して回ってもあんたの怒りは決して解けることがない。腹の底で煮えたぎってるそういう感情をあんたは一生抱えて寂しく生きていくんだ。私がたった一つ悔しいのは、あんたが私を愛してくれなかったことじゃない。あんたが一度も私を求めてくれなかったことよ。すべてを自分の中に押し込んで、偽りの笑顔しか向けてくれなかったことなのよ。

「嫌い」

 沈黙を挟むと、私は絞り出すようにそう言った。彼の表情からゆっくりと笑みが消えていく。

「人殺しなんか好きになるわけないじゃない」

 私は嘘つきだ。あんたと同じくらい。結局私たちは、最後の最後までお互いに本当のことを言わなかった。



 タクシーがアパートの前で止まると、私は開いたドアから無言で外に出た。ポツリ、ポツリと雨が降っている。そういえば今朝の天気予報で今夜は大シケだとアナウンサーが言っていたかもしれない。

 バン、と車のドアを閉める音がして私は背後を振り返る。発車したタクシーが道の向こうに消えていくと、小汚い築30年のアパートの前に立つのは私と男二人だけになっていた。

「……タクシー乗って帰らなくていいの? 大通りに出ないと捕まらないと思うけど」
「うん、いいよ。いざとなったら歩いて帰る」
「傘とか持ってんの?」
「持ってないけど、別に濡れたっていいよ」

 貸そうか? という言葉は出て来なかった。返ってくる保証はないし、返してもらうためにまた会う理由を作る気もないのだ。

「じゃあね」
「うん」
「気をつけて」
「気をつけるのはあんたのほうでしょ。私はもう家の目の前だし……」
「まあ、そうだけどさ」

 ポツ、ポツ、ポツ。雨の降る間隔が少しずつ縮まっていく。目の前の男の金色の髪に跳ねて落ちる雨粒がキラキラと光って綺麗だった。そんな光景に一瞬目を奪われながら、あれ? と私はほんの少し胸の奥に引っかかるものを感じた。この違和感は何だろう。
 はっとして男の目を見据える。碧眼の優しいその色を。けれど今そこには不吉な光が宿っていて、私の脳裏では遠くのほうで微かにサイレンが鳴り響いていた。

 あなたはほんとうはなにがいいたいの?

「……あ、」

 けれどその時、開きかけた私の口を閉じたのはポケットの中の携帯が知らせた着信音だった。乱暴に鳴り響くロックバンドのサウンドに思わず顔を顰める。あの女が私の携帯を分捕って勝手に購入した着メロだ。お気に入りのバンドなのだと言って、自分の番号からの着信音に設定した身勝手さと来たら思い出すだけで苦笑が浮かぶほどだ。何度かライブにもつき合わされたが、まったくもって理解不能。ただギャンギャンと煩いだけのヒステリックな音楽だった。そう、まるで女の悲鳴みたいに。

 通話ボタンを押して携帯を耳に当てて「もしもし」と相手の反応を待つ。ブチン。微かな吐息が聞こえたかと思ったら何も言わずに切れた。彼女からの電話。不穏な何かが起こる予兆のようなそれに、ほんの少し肌が粟立った。

「もう行くね」

 すぐに終わった通話に対して、彼は何も訊ねては来なかった。

「バイバイ」

 また縁があればどこかで。出会った時とそのまま同じ、胡散臭い笑顔を浮かべて雨の中を去っていく。
 私たちに縁なんてあるだろうか。もし次に会うとしたら地獄に堕ちた後なんじゃないかしら、なんて笑えもしない冗談が脳裏に浮かんだ。


 それでも私はあなたのことがとても好きだったの。


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