彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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 今ここでさよならを言えば、私たちの関係はまるで初めから無かったのと同じように跡形もなく溶けて消えるだろう。
 それを悟っているからか、私はどうしても先の言葉を紡ぐことが出来ず、彼もまた沈黙を決め込んだかのように普段は饒舌な口をしっかりと閉じているということだけが唯一の救いだった。

 ホテルのバーを出ると、私たちは夜の繁華街を歩く。彼が買ってくれた踵の低い華奢な靴はいつも履いているピンヒールと違ってちっとも足が痛くならないから、どこまでもこのまま歩いていけるような気がした。少し先を歩く彼の金色の髪が初夏の湿った生温い風に撫でられて揺れている。


「おれ的にはさ、」

 そして前触れもなく話し始めた彼の声に耳を傾けた。

「君のこと飼い猫ってよりは、首輪のついた野良猫みたいに思うわけ」

 ずっと手元に留めて置きたいとは思わないけど、時々ふと恋しいと感じる。いつか他人のものになってもきっと取り戻したいとは考えないだろうと思う。だってハナから自分のもんじゃないし、猫だって淋しい時に構ってくれる人間がいればそれでいいんだからさ。

 残酷なことを言われているのだという微かな実感が意識の端にあった。しかし私は冷静に、熱もなく彼の言葉を聞く。冷たい男だと思う。きっと一生、人を愛せない男なのだと思う。そういう性癖の人間もいるだろう。否定はしない。けれど私は哀しい。

「あんたって……」

 どうしてそんなに哀しい男なの?

 そう聞こうとして、私は口をつぐんだ。それを解明するには、膨大な時間と彼が持っているであろう乾く事を知らずにどす黒く化膿した傷口を抉る必要があるだろう。私は何も知らないけれど、それでもこれ以上彼が傷付くのはどうしようもなく理不尽な気がした。

「そうだ。君にいい事を教えてあげる」

 おもむろに彼はそう言って、スーツのポケットから一本の針のようなものを取り出した。

「なにそれ」
「ま、お守りみたいなもんかな」

 あげるよ。そう言って、私の手に押し付けられたものを改めてじっと見つめる。鋭利な先端と羽根の生えたようになっている柄の部分を見ると、針というよりはアンテナのようなものみたいだ。

「ヤバイと思ったら躊躇わずに相手を刺すんだよ」

 言っていることは不穏だが、彼の表情は実に朗らかだった。この男はこうして生きてきたのだろう。偽りの笑顔を貼り付けて、泣くことも忘れ、本当の気持ちを押し殺して。

「あんたの周りみたいに物騒なこと、早々起きやしないわよ」
「どうかな。殺意なんて、愛情よりもよっぽど簡単に生まれるものだと思うけど」

 世界は綺麗なものじゃない。私にそう教えてくれたのは他でもないこの男だった。けれどそう言いながら、常に現実を見据えてその理想との落差に傷ついている彼を私はとても綺麗だと思う。現実を見ているからこそ私はこの男を信じる事ができるし、その言葉に意味を見出す事ができる。学校の先生が説く万人に通じる小利口な生き方よりも、淘汰された世界を生きてきた空気を纏う彼の言葉の方が私の未熟な価値観に直接突き刺さるのだ。


 再びタクシーに乗り込むと、ドライバーに彼が告げた行き先を耳にして私は思わず苦笑した。
 なんだ、何を隠して格好つけようとしたって、この男には結局すべてのことが筒抜けだったんじゃないか。それなら始めからそうと言ってくれていれば余計な恥をかかずに済んだかもしれないのに。

「ストーカー。何で私の住所知ってるの」
「この情報社会でそんな言葉はナンセンスだよ。仮にも俺は───」

 そこまで言って、男は不意に何かに気づいたかのように言葉を詰まらせる。けれどすぐにいつもの調子を持ち直し、その先の言葉を口にした。

「蜘蛛の足なんだからさ」


 私の前で彼が油断したように失言するのは、私が力ない小娘でありいざとなれば容易に踏み潰すことが出来るくらいちっぽけな存在であるからで、そういう意味では彼に言わせてみれば乳飲み子や野良猫と同じくらい無知で無防備な私には彼に関する何もかもを揺るがすことなど到底出来やしないのだ。
 猫でもいい、愛されなくても、いつか彼の手で殺される身でもそばにいたい。私はそんなことを言えるほどしみったれた女じゃない。


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