彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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 高級ホテルの最上階にあるバーで飲む酒は当たり前と言ったらなんだがやっぱり美味かった。そんな品性知性の欠片もない感想しか持ち得ない小娘の相手をしてこの人は楽しいんだろうか。何か得でもあるんだろうか。問いただせば外面だけのこの男でも流石にうんざりさせてしまうのだろう。そう思ったら何も聞けなかった。さっきのショッピングの時みたいに、何か軽口を叩いていないとあの部屋での惨劇がまた脳裏を過ってしまう。何か言いたいのに、何も言えない。

「綺麗だね」

 こちらを見ている男がウィスキーのオン・ザ・ロックを手にニコニコ笑っている。

「なにが」
「夜景」

 ちっとも見てないくせに。

 愚痴っぽくそう思いながらも、私はふと辺りを見回した。ちらほらと見える人、人、人。それはカップルであったり、親しげな友人同士であったり、商談を持ち込んだビジネスマンの姿であったりした。バーテンダーが氷を弾く音が聞こえてくる。訊ねるならば、今しかないと思った。

「───ねえ、あの部屋の後始末はどうするの…?」

 私の不意の質問に、男の顔から笑みが消えた。
 だって、あの部屋をあのままにしておいてただで済むとは思えないじゃない。きっといつかは見つかってしまって、通報でもされたらこの人は警察に捕まってしまうんじゃないかと思ったら気が気じゃなかった。こんなところでのんびり酒なんて飲んでていいのか。事後処理をしなくていいのか。証拠隠滅をしなくていいのか。

「それなら大丈夫。片付け専門の人もいるから」
「……」
「本当の世の中はね、人一人いなくなってもどうとでも出来るくらいには物騒なんだよ」

 そう言ってから、男はしばらく考えるように宙を見据えた。

「どっちにしろ君は知らなくていいことだ」
「関係ないっていうの?」
「うん」
「ここまで巻き込んでおいて」

 目が合った。男の碧がかった瞳に私の姿が映っている。首輪を付けた飼い猫。その通りだ。この男にほだされた時点で、私の首には縄がついている。締めるも解くも、この人次第なのだ。

「そういう人間なんだよ。俺たちは」
 
 責めるような私の視線を遮るように、まるで言い慣れたかのような空気で男は呟いた。それから突然、スロットルを開けて徐々に加速していくかのように、その声に熱がこもり始めた。

「人から奪うしか脳がないんだ。どこにいたって同じ、浅ましい人間なんだよ。君たちみたいに小さな幸せを噛み締めて満足できない。底なしの沼にハマったみたいに、次から次へと飲み込んで行く。俺たちはそうしないと生きられないんだ。どこにいても、なにをしてても。そもそも幸せってなんだ? 一体何に満足して笑ってるの? 何があるから安心してられるの? 家族か、寝床か、金か。どれをとっても俺にはわかんないことばっかりだ」

 ガン、と硬質な音を立ててグラスを置くと、中の氷が脆く崩れ落ちる。

「どこにいても変わらない───結局…」



 別に死にそうなわけでも、難病にかかったわけでもないのに、ただ「助けてください」と祈るように思った。でも誰に対して祈ればいいんだろう。誰に祈れば、私たちは救われるんだろう。
 彼は答えた。今まで色々なものに祈ってきた。神にも、太陽にも、月にも、星にも、夕日にも、海にも、ゴミにも、鴉にも、人にも。けれど誰も助けてくれなかった。だから自分に祈った、望んだ、欲した。俺は俺だから、俺が必死なぶんだけ、必死に答えてくれる。

「最後は自分だけなんだよ。わかってることは、やらなきゃやられるってことだけだ」

 そういう彼の言葉に、あの時部屋の中心で絶命している男の手に、鋭利なナイフがしっかりと握られていた様を思い出す。

 やらなきゃやられる。きっとそれは彼の言うとおりで、世の中の様々なことがそういう構造になっていて、人は皆知らず知らずのうちにそのルールに則って生きてる。弱肉強食。要はそういうことだ。食われたくなきゃ食え、殺されたくなきゃ殺せ。
 しかしそれでも私は淋しかった。それはあの時、空っぽのモデルルームに初めて案内された時に彼がついた見え透いた嘘に対して抱いた感情と同じものだった。


「君は逃げないんだね。怖くないの?」
「……怖いって?」
「人殺しだよ、おれは」
「うん、でも、わかんない。きっとわかってないの。実際自分がナイフを突きつけられたり、首をしめられでもしなきゃ」

 知らないことを怖がることなんて出来ないでしょ。

「ソクラテスみたいだね」
「は?」
「いや、クロロが言いそうなこと言ってみただけ」

 ばっかみたい、と笑う。

「ちなみにあんたの本当の感想は?」
「意地張ってたくせに直前で怖気ずく処女みたい」
「ほんとサイテーだよね」

 本当に、最初から最後まで嘘ばっかりな男だった。


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