彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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 彼に対して「愛している」などという言葉は無意味だ。
 その事実を、私はこの男に出会った時から知っていた。

 彼にとってのリアルは都会の夜のセンター街で若い女と戯れることでも、鼻を突き抜けるようなメンソール臭でも、甘ったるいキャラメル・マキアートでも、鍋いっぱいのカレーでもない。鉄錆の臭いに満ちた、空っぽのモデルルームなのだ。


 背中をさする手が少しずつ冷たくなっていく。私の胃の中は本当の意味で空っぽで、もう何も吐き出すものは残っていなかった。最後に何度か便器に向かって咳き込むと、私は顔を上げて立ち上がり、巻き取ったトイレットペーパーで顔を拭いた。クソ、口の中に入っちまった。

「外に出ようか」

 洋服を汚した私にそんなことを言ってのける男が憎らしかった。このやろう。気に食わない、ということを全面に押し出した目で睨むと、いつもの人を食ったような笑顔は見せずに彼はただすまなそうにポツリと笑っただけだった。


 そうして私たちは血みどろのモデルルームを出て、夜が始まったばかりの町へと赴いた。タクシーをつかまえた彼に続いて車内に乗り込むと、彼の着ていた柔らかい素材のセーターで顔を拭われた。

「ちょっと」
「拭きこぼしが」
「やめろ」
「雑巾で拭われた方がよかった?」

 ほんとに質の悪い男だと思う。セーター越しにその手に思いっきり噛み付いてやると、男は嬉しそうな顔をして私を見た。狂ってる。この男も、こいつの上司も。


 何処に向かっているのか、皆目見当もつかなかったタクシーが不意に停車した。彼が運賃を払うのをぼんやりと見つめてから、さあ降りるよ、と促される。てっきり場所を変えて足の着かなそうなところで私もあの部屋の被害者のように惨殺されるのかと思っていた。けれど私たちが降り立ったその場所は、都会の高級ブランド店が連なるショッピング街だったので、はて、と首を傾げる。

「洋服汚れちゃったでしょ」

 おいで、と手を引かれて入った店で彼の手で見繕われた服を着る。自分の趣味ではない華奢な靴を店員に出されたが、それも文句を言わずに履いた。
 そうして姿見を覗き込むと、繊細なつくりのレースが付いたすみれ色のワンピースを着た自分がそこに映っている。値段が違うと着心地もこうも違うものか、と思いながら値札を見ると思わずさっと目を逸らしてしまうほどに桁違いの代物だった。私は何も見てない。そう自分に言い聞かせて、フッティングルームから出た。

「いいね」

 顔を出した私に気付いた男がにっこりと微笑む。華奢な靴と一緒に、足が震えた。


 歩くたびに膝に触れるレースがくすぐったくて、裾をぎゅっと掴みながら私は言った。

「あたしがこういうの着ないって分かってて着せるの?」

 すると男は不思議そうな顔をする。

「女の子ってこういうの好きじゃないの?」
「芸の欠片もねえな」
「ちょっと、俺だって傷つくんだよ」

 すでに会計を済ませた後らしかった男もまた、先ほど私の顔を拭ったセーターを脱いで真新しいスーツを身に着けていた。

「むかつく」
「なんでよ」
「スーツも似合うのね」
「ほんと? こういうの着るとたいてい仲間には笑われるんだけど」

 人殺しの仲間に? そんな疑問がふと浮かんだが、それはさすがに口にはしなかった。私だって命は惜しい。この男に早々簡単に殺されるつもりはないんだ。


 そうして私たちは再びタクシーに乗り込んだ。高い買い物だったのだろうな、と考えながらあの部屋に置いてきてしまった自分の財布の中身を思う。金はともかく、結構いろいろカードとか入ってるんだけどな。あの部屋にもう一度取りに行かなければならないのかと思うとそれだけどゾッとした。それも無事に戻れたらの話だけれど。どうせならアパートの部屋の片付けもしてくるんだった。ここ最近は対人関係で落ち込んでいて、そのせいでどうにもこうにも家事に手を付けることが出来なかったんです、と言い訳をしたくても部屋に踏み込まれる時には死人に口無しだろう。

「何か食べたい?」
「……いまなんか食べられるとおもう?」
「あはは、じゃあ君の好きなお酒でも飲もうか」

 それも、とびっきり美味しいのをね。
 そう言われて思わず胃液がこみ上げた。これ以上私を吐かせたいんだろうか、この男は。

 タクシーが次に停車した場所は都心にそびえ立つ高級ホテルのエントランス前だった。そこに併設されているバーで飲むのだと言う。かっこつけ過ぎだろ、と思うと同時に洋服を新調させたのはこのためだったのだろうかと思う。だとしても場違いだ、こんなところに連れられてきてもそれこそ借りてきた猫状態。私はただ縮こまってることしか出来ない。

 私がを考えていることを察したのか、男はリラックスしなよ、と言いながら気安く肩を叩いてきた。

「あ、そうだ」

 人事だと思って、とまた顔を顰めていると、男は何かを思い出したようでゴソゴソとスーツのポケットを探り始める。

「なによ」
「プレゼント」
「はあ?」

 素っ頓狂な声が出た。男がにっこりと笑ったのと同時に、さっと素早く首に回った手。一瞬本気でドキンとした。まさかこの場で絞め殺されるのかと思ったのだ。

「気に入らない?」

 硬直している私の顔を、覗き込むように男は伺っている。
 その言葉にふと視線を首もとに下ろすと、そこにはキラキラと光るネックレスがかけられていた。

「……飼い猫に、首輪」
「ん?」
「あの男が言ってたよ。あたしのこと、飼い猫だって」

 そう言って男を正面から見据える。男は笑顔を固めて、そのまま首だけを90度曲げてゆっくりと私から目を逸らした。図星か。

「……ほんっと、次ぎ会ったらぶん殴ってやる」

 アンタもきっといろんな女からそう思われてるよ。


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