彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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 そこにある光景に私は絶句するしかなかった。
 どこか別の世界にでも来てしまったんじゃないかとすら、本気で思った。けれども街の夜景をまるごと手に入れられるような高層マンションのこの一室で、毎夜仕事らしい仕事をしている気配すら感じさせずにのらりくらりと暮らしていた彼が堅気の人間だと思って疑わなかった私のほうが間違っていたのかもしれない。一体この部屋に住むだけでいくらのお金が必要なのだろう? 私の住むアパートの部屋代と照らし合わせて思わず目が眩む。その金がどこから捻出されているかなんて、考えたことすらなかったのだ。


「……クロロは帰ったの?」

 ソファに座り、俯く彼が不服そうにそう呟いた。

「クソッ、何もかもほっぽり出して行きやがった。いつもそうだ、おれは、尻拭いばっかりさせられる」

 彼はそういって座ったまま足を踏み鳴らした。顔を上げると、金色の髪に散った赤が奇妙に際立って見える。歪んだ口元が、私の顔を見て笑った。

「君にこんなところを見せるつもりなんかなかったんだよ」

 部屋の床いっぱいに散らばる赤色は、その中心に横たわる見知らぬ身体は、この空間に立ち込める生臭さは。
 殺人現場、という単語が不意に脳裏に浮かんだ。容疑者のいる現場に鉢合わせた第一発見者が生き延びる確率なんてどれほどのものか。推理小説を読まない私にもそのくらいのことは容易に想像することが出来た。

 この人が殺したんだ。

 不意に訳のわからない焦燥がこみ上げた。目頭が熱くなる。不安定ながらも立ち続けていた足場が急に脆く崩れ出したかのような気分だった。私はただ私が幸せでいられるならなんだって構わなかったのよ。

「そうだとわかってた」

 わかってるならもっと上手く立ち回れよ、ばか。


 夥しい量の血と鉄錆の臭いが充満している。私は逃げ出すことも、取り乱すことも何故か出来ずにいた。

 そうしてただ凍り付いたように突っ立っている私に、彼は時間の止まったようなこの部屋で今何がどのような状況なのかを、少しずつではあるけれどもポツリポツリと語ってくれた。
 彼の仕事は一つの部屋が“こういうこと”になるのも常日頃から一環のうちで、あまり他人が深入りすると火傷するくらいでは済まないほどには危ない目に遭うのだということ。必要であれば、女でも年寄りでも子供でも赤ん坊でも殺すこと。先ほど出て行った男はクロロといって、かつて電話口で彼と話していた上司その人であること。そして、本当ならば私にこんな現場を見せたくなかったのだけどたまたま時が重なってこういうことになってしまったのだということ。

 淡々と語る彼の顔から、感情という感情が消えていく。

「この男はね、今回の仕事で俺たちの邪魔をしたから殺したんだ。間抜けな男だよ、自分を過信していた。たいした力もないくせにさあ」

 そういう馬鹿が一番嫌いなんだ。身の程知らず。テメエのキャパも知らないで一泡吹かせられると思っていたのかな。

 男はクツクツと喉だけで笑う。自棄を起こしたのか、それとも、元々がそういう人格の男なのか。私にはもうわからない。

「なんとか言えよ」

 しばらくの沈黙が私たちの間に流れたあと、それでも絶句したまま立ち尽くす私を彼は心底憎らしそうな目で睨んで言った。なんか言ってよ、なんでもいいから。
 だって普通じゃあり得ないこの状況で、あなたは私にどんな言葉を望むというの。

「………くるしい」

 私はその言葉と一緒に、うう、とえずいた。
 血の臭い。血の臭い。真っ赤な血の臭いが私の感覚を鈍らせる。誰か助けて。嘘だと言って。こんなのは、こんな状況は、血に塗れた彼は、そこから覗く碧色の目がどんよりと淀んでいるのは、嘘だと言って。

 まるで悲劇のヒロインだ。心底アホくせえ言葉がちらりと脳裏を掠めたかと思ったら、
もう耐えられなかった。吐く。
 そして例のごとく、すかさずトイレにダッシュした。たどり着く前に一度、磨き抜かれた床に滑って顔から転んだ。それでも便器に向かうまで吐かなかった自分を褒めてやりたい。

「う、ううっ、うえ、え」

 泣きながら吐いた。血の臭いが気持ち悪くて、部屋の中心に転がった肉塊が恐ろしくて
。人を殺して笑っている彼がわからなくて。

「……なんか、最初もこんなんだったよね」

 気付くと、背中をぽんぽんと優しく撫でる温かな手。ゾクゾクした。でもそれは人を殺した手で触られてるからじゃない。

「ねえ、ご飯ほんとに食べてた?」

 吐くもん残ってないじゃん。

「見んな、まじで………おエッ」


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