彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

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 メールって、相手に返信をしてからそれが戻ってくるまでの時間が妙に長く不安に感じるから嫌いなんだ。

 いつだったかそんなことを言ったら「相手にだって都合があるんだしいつも同じ速度で返信とかあり得ないでしょ、そんなの気にしてるのアンタだけよ」とあの節操無しの友人に嗜められたことがあるのを思い出す。基本的に非常識で尻軽のくせに時たまマトモっぽいことを言うところが重ねて嫌なヤツだった。本当はオカシイのは私のほうで、もっともらしい事を口にする彼女のほうがよっぽど色々なことを熟知し妥協を知っている大人の女に見えたからだった。事実、私はどうしようもなくワガママで子供で、対人関係においては大きく彼女に劣っている。下品な形振りだとしてもいつも明るく周りを楽しませることが出来るのは彼女のほうだったし、私は常にその横でぼんやりと流れを伺っているだけだったのだから。

 そんなことをふと思い出したせいか、彼からの返信がなかったことを私はそう大袈裟に捉えることもなく、きっとまた仕事の電話でもしているんだろうくらいにしか思っていなかった。彼がどういう人間か、何を生業にして生きているのか、何も知らずに、知ろうともせずに。



 彼のマンションにたどり着くと、エントランスのインターホンには調整中の張り紙がなされていた。おいちょっとそのくらい知らせとけよ合鍵とか持ってねえし。部屋番は分かるもののエントランスを通ることが出来なければどうしようもない。ポケットから取り出した携帯で電話をかけるも、通話中のままだ。ふざけんな。

 とりあえずメールを送って、どうしたものかとエントランスを右往左往していると側の個室にいたらしい警備のおじいさんが外に出てきて困っている私に話しかけた。

「中に入りたいの? お部屋は分かる?」

 まるで小さな子供に話しかけるみたいな口調だ。いや、この歳くらいのおじいさんにもなれば小学生も高校生も同じようなもんなのだろう。気に食わないところもあったが、帳尻を合わせて話を付けると特別にオートロックの自動ドアを開けてくれた。はて、警備員の意味とは? こういう時は女ってだけで得だと思います。

 お礼を言ってエレベーターに乗り込む。彼の部屋は見晴らしの良い26階。天気の良い日などはベランダから富士山が拝めるとか。夜景にも富士山にもさして興味がないので聞き流していたが、今日などは天気が良かったので綺麗な夜景を見ることが出来るかもしれないと思うとほんの少し浮き足立つような気分になった。
 エレベーターはぐんぐん上階に上っていく。26階にたどり着き、彼の部屋の前に立ってインターホンを押した。ピンポーン、と間抜けな音が部屋の中で鳴ったのが微かに聞こえた。テレビを見ていると言っていたわりにはずいぶんと静まっているな、と思ったがさして気にかけはしなかった。

 そして前触れもなく、部屋の扉が開く。

「───お前が噂の飼い猫か」

 扉の向こうから顔を出したのは彼ではなく、かつてここで見た彼の同僚でもなかった。真っ黒い服を着た真っ黒い男。

 男は不躾な視線でじろじろと初対面であるはずの私を見る。手頃な玩具を見つけた子供みたいな視線だ、と思いながらも、目が合った男の顔立ちが彼と並んでも引けを取らないくらい恐ろしく整っていた事に思わず息を飲んだその時だった。

「開けるなって言っただろ!」

 部屋の奥から余裕のない金切り声が聞こえた。ビクンと肩を跳ねさせた私に、目の前の男は優しげな視線を送った。

「それなに?」
「……え?」
「それ」

 叫び散らすような声には無反応のまま、男は私の持っている風呂敷に顔を近づけた。いい匂いがする。にっこり笑う。それを見ながら、あの男と同じ種類の笑みだと思った。

「カレーです」

 ぽつりと答えると「俺も食べたいなあ」と男は言った。どうぞお好きに、と言うと「君が思ったよりも柔軟な子みたいで嬉しい」と男は言った。

 何がどうなってるのか、まったくわからない。理解がついていかない。
 男の嘘っぽい笑みに流されて同じようにへらりと笑うと、部屋の奥から不意にビュッと何かが飛んできて目の前の男のこめかみにかすって壁に突き刺さった。一体何だと伺えば、フォークだ。フォークが壁に刺さってる。ありえない。

「飼い主はご乱心だ」

 こめかみを掻く男はクスリと笑う。黒い瞳がキラキラ光ると、何故か背中にゾッと寒いものが走った。

「カレー残ったら冷蔵庫に入れておいてね」

 そう言って、荷物一つ持たずに部屋を出て行く。奥で何が起こってるとかこのまま入っていいのかとか、とにかく何か一言でもアドバイスが欲しかったんだけど。颯爽と去っていく男の後ろ姿を視線だけで追った後、再び私はどす黒い空気の渦巻く部屋の奥を見つめ直した。

 ねえ、いるんでしょ。返事してよ。そう声をかけるが、何の返答もない。
 心臓が忙しなく脈を打っているのが聞こえた。本当に、不気味なほど部屋の中は静まり返っている。

「ねえったら」

 思わず大きな声が出た。さっき部屋の奥から聞こえてきた開けるなという声は間違えなくあの人の声だった。扉を開けるなということは、部屋に誰も入れるなということと同義のはずだ。それでも不安や得体の知れない恐怖よりも、心配と好奇心が勝った。ちらりと壁に刺さったフォークを見やると、私は玄関にカレー臭い風呂敷を置いて部屋の中に足を踏み入れた。


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