09 それでも私から連絡をしては負けな気がした。 女と別れるとそれから少しだけ晴れやかな気持ちになった私は、本当ならばただぼんやりと真っ直ぐ家に帰って今夜も夕食はカップラーメンと冷凍食品で決まりだったはずが、どういうわけかスーパーに寄る気になって今この状況に至っている。一人暮らしを始めたばかりの頃に調子に乗って作った鍋いっぱいのカレー。どうせ一人で食べ切れっこないことをわかっていたのに。あの時ならまだしも、どうしてまた懲りもせずに作ってしまっているのか、カレー。 はあ、と大きくため息をつく。明日は休みだし、一人で映画でも見に行こうかな、とそんなことを考えていた時だった。 絶妙なタイミングでかかってくる電話。すぐさま携帯にとびつくあたり、自分から連絡しなくたって気持ち的には見事な敗北。ただ意地張って独りよがりに苦しんでただけだ。通話ボタンを押して聞こえた声に思わず涙ぐむ自分に、ほんの少し、失笑してしまった。 『もしもし』 「……もしもし」 『元気してた?』 ちゃんとご飯食べてた? 眠ってた? 学校行ってた? そんな、本当に関心があったのかどうかさえ怪しいことを次々に聞いてくるその声に、あいかわらず悔しい気持ちになった。 「ご飯は食べてたよ。全然ふつーに寝れてたし。……学校は、今日久しぶりに行った」 『へえ、どうだったの?』 「クラスの子たちの顔、初めてまともに見たかも」 『ん?』 「そのくらい、興味なかったのよ。みんなにも、自分にも」 『……ふうん、俺にも興味ないの?』 話しながら、本当に堪らない。声さえ愛おしいのだ。カレーがいい具合に煮詰まってきている。涙が出る。支離滅裂な感情が、あの男にはわからないんだろうけど、沸々とわいてきては私を苦しませる。痛い、苦しい、会いたい。 「ねえ」 『なに?』 「カレー食べたくない?」 もういいよ。結局最後には私が負けるんだから。 俺が君んち行くよ、という提案だけは命を賭けて阻止した。この数週間死んだように過ごしていた私は、ただでさえ几帳面な性格でもないというのにそれに輪をかけてあらゆることをサボりまくっていた。結果出き上がったブタ箱のようなこの部屋に好きな男を上げるなんてそんな恥知らずなことはいくら私にだって出来るわけない。 実家から持ってきた大きめのタッパーにカレーをこれでもかというくらいに盛ってラップを敷き、蓋を閉める。まあおかしな具合に傾けたりしなければあの人の部屋までくらいなら無事に運ぶことが出来るだろう。風呂敷に包んだカレーを持って、玄関で靴を履く。外はもう暗くなり始めていて、駆け足で駅に向かって電車に乗り込んだ。 ちらちらと光る夜の町の街灯を眺めながら、どうせ今から会うというのに絶えず男とくだらないメールをして過ごした。昨日の雨で桜が散っちゃったねとか、今テレビでやってる大喜利が傑作だとか、そういえばカレーを温める鍋がないよとか。鍋は彼のマンションがある駅についたら適当な店で買うとして、いっさいの調理器具もなく普段は一体どこで食事をしているんだと訊ねたらそれに対しては上手くはぐらかされた。いつも、肝心なところでさらりと逃げる男だ。別に今更毎朝毎夜あの男にご飯を届けにくる情婦ならぬ通い妻がいたって驚かない。誤摩化しているつもりなんだろうが、女ってそんなに馬鹿じゃないのよ。ただ気付かないフリをしてあげているだけで。 “もうすぐつくよ” 駅に着き、近所にあった店で小さなステンレス鍋を買って彼のマンションに向かう。いちいち報告することでもないけれど、打った文字を眺めてから迷わず送信ボタンを押した。 いつも、ちょっとヒくくらいの早さで返ってくる返信が、その時ばかりは戻って来なかった。 <<<>>> |