彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

08


 思い通りにならないことってあるんだと感じた。何だかんだで甘やかされて育った三人家族独りっ子。実家から通えない距離ではないけれども自由気ままに過ごしたいという理由だけで許された一人暮らし。怠惰な生活をしていることくらいわかっているのだろうに毎月律儀に振り込まれる家賃とその他の生活費。何不自由ない。私を縛るものも堰き止めるものも何もない。代わりに、強く求めるものも、何もない。



 毎日をぼんやりと過ごしている。久しぶりに学校に行くと、女同士特有の排他的な空気に飲まれて結局誰とも一言も会話をすることが出来ずにただ時間だけが刻々と過ぎていった。友達といえば私にはあの女しかいない。けれどあの女もまた、長いこと学校には姿を現してはいないらしかった。そもそもあの女は本当に私の友達だったのだろうか。初めの馴れ合いも、もうちっとも思い出せないというのに。
 教室の隅でポツンと席に座り、クラスの喧騒から取り残される自分。まるで別の角度から誰か他の人の目を通して見ているかのように、不意に鮮明にその光景が目の前に浮かんだ気がした。そして、ああそうか、と気づく。これは代償なのだ。今私がこうして独りでいるのは、今までの私の怠惰が祟った結果なのだ。人と上手く付き合おうともしないで、親しい友人一人作ろうとしないで、ただ楽だから何も考えずに気も使わずに済むという理由だけで、嫌われたって別段構わない女の隣というポジションを自ら選んだのは私だ。彼女のことを常々中身のない性欲だけのつまらない奴だと内心罵ってきたけれど、今、機械音を纏い脱け殻だけを残した冷蔵庫のように空っぽなのはむしろ私のほうだった。

 あの日以来、度々友人からショートメールが送られてくるようになった。殺してやる。殺してやる。殺してやる。
 添付された画像を開くと、あの金髪と並んでマンションに入って行く私の姿がそこには写っている。ゲッ、私の後ろ姿ってなんか短足際立ってるし。それとも無駄に足の長い見た目だけの糞男を隣にはべらせていたからこう見えてしまうんだろうか。
 他にもコンビニから二人で出てくるところや、あまつさえうっかり手を繋いでいる写真まで撮られている。どれもこれも私の記憶の中ですら危うい場面ばかりだ。そもそも二人でコンビニなんか行ったっけ。

 殺してやる。彼女の殺意の正体は嫉妬だ。そうは言ってもここまでアブナイ女だったかと、もう随分会っていない友人の顔を思い浮かべる。彼女の面影すら、私の中で朧気なものになりつつあった。

 ぼんやりといくつかの画像を繰り返し眺めながら放課後の道を歩いていると、ふと視界の端に見覚えのある顔を見た。違和感を覚えて顔をあげると、スポーツウェアを纏った女がじっとこちらを見つめている。

「制服だと別の子みたいね」

 じろじろと不躾な視線に思わず顔を顰めた。彼の部屋にいたあの女だ。何故こんなところにいるのか。偶然だとしても質か悪過ぎる。

「でもあんたそっちのほうがいいよ。なんていうか、年相応で」

 電信柱に身を預けながら立っているのが妙に様になっているのが腹立たしい。睨みつけるように見つめると、女は私の態度に反して穏やかな表情をしてみせた。あの時、彼の部屋では見られなかった顔つきだ。私を見下すような空気はそこにはない。

「今日はあんたに謝りたくて来たの。ごめんね。あいつから話は聞いたわ」

 あの嘘の塊のような男に一体何を吹き込まれたのか、それは私にとって都合のいいことなのか、それともあの男にとってのみ都合のいいことなのか、真相はわからない。

 けれど、

「……あたしのこと怒ってないの」

 不意に口から漏れ出た。

「あの人、あたしのこと怒ってなかったですか?」

 考えてもいなかったことだった。でも心の隅の方で確実に引っかかっていたこと。
 私はあの日のことで、いよいよあの男に愛想を尽かされたんじゃないかってこと。

 女はじっと私を見つめた。そうして時間をかけて、私の中の何かを推し量るみたいに。ドクンドクンと胸の中で心臓が忙しなく鳴いている。

「それは、あんたが確かめなよ」

 女はどこか優しげに聞こえる声色でそう言った。あんたからの連絡、きっと待ってるよ。アドレスやナンバーは知っているんでしよ?

「あいつ、ケータイ依存症だから」

 冗談なのか本気なのか、真顔のまま彼女は言う。胸の中で凝り固まっていた何かが、少しだけ熱を帯びて溶けて行くような、そんな感じがした。


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