彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

07


 家に帰ってベットに突っ伏すと嗚咽を押し殺すこともせずに私は泣いた。泣きながら、きっとアイツは私があのマンションの部屋の玄関から出ていった瞬間に私のことを綺麗さっぱり忘れてまた軽薄な笑みを浮かべながらあの女と仲良く話していたんだろうと思ったら更に泣けてきて掴んだ枕を思い切り壁に向かって投げつけた。どすん、と鈍い音が立つ。私の腹の底にも同じように重厚な何かが落ちてきて内臓をえぐりながら深く身を埋めたような、そんな感覚だった。

 あの男のことだ、もし今この瞬間私が涙で化粧を流し落とす勢いで号泣している様を見たら、きっと堪らないものを見たとでも言うように笑い転げるだろうのだろう。くそっ。死ね。死んじまえ。ズルズルと垂れ流した鼻水が落ちてくる。腫れた瞼が重い。それでも私はこんな自分を上手く取り繕えるほど器用ではないし、大人でもない。でも子供でもない。大人でも子供でもないって苦しい。愛されたいのに鼻で笑い飛ばされるのと同じくらいに苦しい。馬鹿な話だと人は笑うかもしれないけれど、それでもボロボロと零れ落ちる涙は止まらない。私はあの男のことを、気に入ってた。去年の冬にバーゲンで買ったゼブラの財布ほどには好きだった。定価から値引き30%OFFで手に入れた良品。失ったものは何もないはずなのに、死にたくなるほどに苦しいのは何故だろう。

「………ひくっ」

 ああでも、結局は死ぬ度胸なんてないんだわかってる。本当はただ今この時をなんとかやり過ごしたいだけで、カッターを手首に当てて怖えーマジ死ぬとか無理だわと少しでも思えればまた生きていける。ああそうだよそういう中途半端に図太い生き物なんだよ。

 我に返ると、私は洗面所で眉毛用の剃刀を分解して一番切れ味の良い(のではないかと思っているが実際に何かを切ったことはない)鋭利な部分を手首に浮き上がる青い静脈に当てていた。あれ、と思う。何してたんだっけ。ふと顔を上げると、鏡に映った泣き過ぎて腫れ上がった目をした自分の顔がブス過ぎて笑えた。
 そしてもう一度当てられた刃の痕の残る手首を見る。流れる血は赤いのにどうして肌の上から見る血管は青いんだろうね、とかどうでもいいことに思考が脱線。でもこの青さが私は嫌いじゃなかった。


 この破裂しそうな感情は、時が経てば自然に沈静化するものであることを私は知っている。
 洗面所を出ると私は腫れ上がった目のまま買いだめしていた安物のワインを棚から引き摺り出してきて自棄酒を飲み、あっという間にボトル二本を一人で空けていた。刃物で死ねなかった次は急性アルコール中毒か、とぼんやりする頭で半ば自嘲的に考えながら、せめて花見とか合コンの席とか、否が応でも誰かが看取ってくれるところで死にたかったなと思う。想像の中でだけなら悲壮に暮れるのは自由だ。
 そうして気まぐれに付けたTVでやっていたコメディを見て腹を抱えて笑えるくらいには自棄になれていた頃に、ヒステリックな着信メロディが部屋に鳴り響いた。

「もしもし」

 考える間も持たずに電話に出ると、数週間前に喧嘩別れしたきりの友人の声が聞こえた。

『殺してやる』

 あたしが何したってんだよ。


<<<>>>
- ナノ -