彼の哀しきスティグマに捧ぐ | ナノ

06


 施錠という概念のない彼の部屋に侵入するのに無論合鍵が必要ではないことは始めからわかっていたことだった。それでも、と思う。それでも、彼のいない間に部屋に入るためのスペアキーを彼の手から渡されるのをほんの少し夢見ていた自分がいた。ちっぽけな鍵一つに私という女の価値を照らし合わせて、少しでも安心したいと切に願っている自分がいた。
 ──そんなことは口が裂けても絶対に言わないけれど。


 その日、いつものように玄関先で踵の尖った靴を脱ぎ、彼の部屋に入ると見知らぬ女がそこにいた。
 リビングに続く扉を開けた私に気付くと、女がさっと機敏にこちらを振り返る。猫のようなアーモンド型の両目にツンと尖った鼻と小さな口。動きやすそうな素材のスウェットを着たその姿は、常に気張って値の張る洋服や装飾品ばかり身につけている自分とはコインの表裏のように両極端だと思った。そういう格好の方が好きならそうと言ってくれればよかったのに。こちらを見る女の目は決して穏やかではなかったが、しかし微塵も嫌味のないきっぱりとしたものだった。

 知らぬ間にどこから滲み出たのか、じわじわと暗色の“敗北感”が私を蝕んでいく。

「何、この子」

 乾いた声にはっとする。女の存在に釘付けになっていたせいで気付かなかったが、その影から彼がひょこりと顔を出した。

「あ、いらっしゃい」

 いつもならばまず言わない歓迎の言葉を吐く彼に、虫酸の走るような思いがした。

「あんたの女?」
「まさか」
「じゃあ何、私用でここ使うなって言われてるだろ」
「そんな堅いこと言わなくても。ていうかここの管理費俺が払ってんのに自由に使って何が悪いわけ?」

 女が厳しい目で男を睨む。

「あんたそれ団長の前で言えるの?」

 団長、という言葉が耳に残る。以前も聞いた、彼の電話口に出た人間の呼び名なのだろう。共通した人間を通して関わりがあるのならば、この二人は同僚ということ? それもこれも、彼の言う言葉を鵜呑みにするならの話だが。

「ま、あんたが団長に何言われようがあたしの知ったことじゃないけど」
「じゃあ放っといてよ。せっかくの逢瀬の時間なんだから」

 ね、と男が私に向かってわざとらしく首を傾けると、女は鼻だけで馬鹿にしたように笑った。そしてもう一度、冷たい目で私をちらりと一瞥する。

「ふざけてる」

 見下したような視線。否、見下されているのだと思った。
 今この女の目に映る自分。恋人でもなんでもない、それどころか素性の一つも知らない男にほだされてのこのこと丸腰で部屋にやってくる馬鹿女。

「どういうつもりか知らないけどさ。帰んなよ、あんた。こんなのと関わってもろくな事ないよ」

 女は淡々とした声で私に言った。それは私を単に邪魔者扱いするようなものではなく、あくまで忠告として事実を言っているのだということが彼女の熱のない口調から感じられた。
 彼の部屋に自分以外の女がいたことで頭が沸いているのはむしろ私のほうだ。冷静になれ、冷静に。今嫉妬豚のように発狂してもただ白い目で見られるだけだ。何一つ否定せず上手い言い訳さえも思い付かずにただつっ立っているだけでも充分みっともないというのに、これ以上の醜態を晒してたまるか。堪えろ堪えろ堪えろ堪えろそしてスムーズに方向転換して先ほど脱いだばかりのピンヒールを履いてこの部屋を出ていけばすべて丸く収まるのだ。足の指に力を入れて、女の顔から目を逸らし男の顔は見ないようにして、ただ前を向けばいい。それだけでいい。我慢だ、我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢────。


「テメエなんか排水溝に頭突っ込んで死んじまえ!」


 唾と共に吐き捨てる。驚いたように目を丸くする二人を余所に私は突如玄関までダッシュすると、ピンヒールを引っ掴んで再び振り返り男の顔面目がけてそれを投げ付けた。そしていっそ突き刺すようなつもりで思い切り中指を立てる。

 それから裸足で外に飛び出すと素早くエレベータに駆け込み、追ってくるはずのない男の影を望むこともなく閉ボタンを連打した。昨日塗ったばかりのマニキュアがその振動で剥げていく。関係ねえ。もうやだもうやだもうやだ死ね死ね死ねほんと死ねくたばれ息止めろ二度と呼吸すんなあの綺麗な顔ピンヒールで2、3発ぶっ刺すくらいしてやればよかった。

 階下に向かってゆっくりと降りていくエレベータと共に、最高値まで上がっていたボルテージが息を潜めていく。徐々に取り戻す冷静、それと同時に欠けていく気がするこの気持ちは一体なんだろう。
 何よりも、結局はあの友人とまったく同じ暴挙に出た自分が一番ショックだった。こんなのはただのヒステリーだ。足を開いても愛されない女の身勝手な発狂なのだ。

「……殺してやる、って言いそびれた……」

 出来るはずない。それどころか思い付きもしなかった言葉。口にすることは出来ても、あの人の顔を見たらきっとまたたちまち忘れてしまう言葉。
 ポタリ、ポタリと涙が落ちた。裸足の足を見下ろすと、手の爪と同じ色に塗ったペディキュアが水分を含んでふっくらと盛り上がっていた。


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