◆





「正直、精神の方は範疇外だ」

「それは十分に承知しているよ。でも、」

「ああ。あの事実は今の段階ではあまり広めるべきことではない」


 ゼフィラの医療魔法によって過呼吸が落ち着いてからしばらくして。
 ラジェットの膝の上で横抱きにされながら、フィルは父の胸の鼓動を聞いていた。
 浅い意識の中、頭上で交わされる会話が耳をすり抜けていくが、フィルはどうにかその内容を把握しようと努めた。
 いくらすり抜けて行こうとも、自分に関する話題であることは分かる。知らないことや分からないことをいつまでも無関心のまま、目と耳をふさいで、見えないフリ聞こえないフリをしてはいられない。


「……あの事実、って、何ですか」


 ぽつりと呟くと、父の体が一瞬だけ不自然に強張ってから、何事もなかったかのように普段通りに戻る。僅かな動揺だったが、体を密着しているフィルには微かな振動さえも伝わってくる。
 しばしの沈黙の後、父の手がフィルの背中をゆるりと撫でる。


「フィルは覚えているかな。―――あのディスと名乗ったヴァンパイアのこと」

「………」


 フィルは無言のまま頷いた。
 覚えているというよりは、思い出したと言う方が正しい。つい先ほどまで意識を失ってしまった原因についてすっかり意識の底に追いやってしまっていたのだが、思い出してからはなぜ忘れていたのか不思議に思うほど鮮明で、頭から離れない。
 ふふと笑む声や、さらりと風になびくハチミツ色の長髪。怖いほど惹かれてしまった魅力も、全て覚えている。
 息子の頷きを見て、ラジェットはそっかと小さく呟いた。
 そんな2人の様子を、レオンとゼフィラが一歩引いたところでジッと見守っている。
 ラジェットはそちらには一切目をくれず、腕の中にいる息子だけに集中した。数拍間を置いてから戸惑いがちに口を開く。


「――――それじゃあ、あのとき使った古代魔術についても覚えているかい?」

「古代……、魔術………?」


 父の問いかけに、フィルは首を傾げた。
 まず、古代魔術という言葉をフィルは知らなかった。普段使う魔法と何が違うのか。まるで分からないが、言葉からしてとても古くて特別なものだと感じる。
 フィルの戸惑いを見て、ラジェットは困り顔で微笑んだ。


「フィルはヴァンパイアに捕えられてしまったよね?」

「はい……」

「そのとき使った魔法のことだよ」


 あのとき使った魔法。
 ゆっくりと記憶を辿るとまたドクドクと心臓が逸りだしたが、過呼吸に陥るほどではない。若干顔から血が引いたが、思い出すのをやめなかった。
 耳元で心臓が鳴っているような煩さの中、フィルは思い出していきながら同時に口を開いた。普段ならば整理してから話すが、今はそんな余裕など皆無だ。


「急に、頭の中に術式と魔法陣が浮かんだんです。それを使ったら、魔力が形になって、それで……」

「その知識は、いつ、どこで知ったのかな」


 僅かに固さを帯びた父の声に、今度はフィルが動揺する番だった。途端に煩かった心臓が鳴りを潜め、キンと冷たくなった。体は動かなかったものの、僅かに目を見開く。
 よく分からない術式や魔法陣は使うべきではない。不完全なものは暴走や事故に繋がりかねないからである。
 フィルもそれは重々承知だし、それについて責められたら謝るしかないのだが、今の父はそれについて言及しているようではなかった。使用時よりも、むしろその前の段階について聞かれている。
 しかし、それが分かったとしても、なぜ父が冷たい声で聞くのかが理解できなかった。軍人としての父を垣間見た気がした。その結果として、感じ取るのは恐怖である。
 初めて感じた父に対する恐怖に、フィルはきゅっと拳を作って動揺を表に出さないように耐えた。


「おぼえて、ない、です」

「覚えていない……?それはどういう……」

「いつどこで見たのか全然覚えてない――――というよりは、あのとき初めて知ったんです」

「……………」


 ジッと視線が絡み合う。
 疑われてはいない。けれど、納得もされていない。それが目から読みとれた。
 沈黙が流れる。
 レオンの方から、緊張した空気が伝わってきた。
 数十秒か数分か。僅かな時間がフィルにはとても長く感じられた。
 絡み合う視線が外れない。
 フィルの瞳の中に不安が生まれそうになった頃、ようやく父の雰囲気が和らいだ。ふ、と笑みが浮かぶ。


「あのときが初めて、か……不思議だねぇ」


 ラジェットはそれだけを呟き、フィルの頭を撫でた。
 一先ず棚上げにしたのだろうか、先ほどまでの話題をぶった切ったような感想だった。
 まるで子供の空想話に対する親の対応のようで少し寂しくもあったが、フィルはその話題が終わったことにとても安堵していた。


 考えてみれば、うすら寒い話だ。
 あの不思議な術式と魔法陣は今でも容易に思い出せるが、どこで知ったのかは全く思い出せない。意識がないところで脳内に刷り込まれたようで、誰かに記憶を操作されたのではないかと背筋に寒気が走る。
 第一、フィルのような前世の記憶がある不思議生命体がここにいることからして異質なのだ。それも、光属性という希少種で、魔力は膨大ときた。異質であるにも程がある。まだまだ自分の体の中に自分でも自覚していない『異質』があるようで、怖い。
 フィルは無意識に父の服をギュッと握りしめて頭を胸にすり付けた。


 そこでようやくラジェットは息子を不安がらせてしまったことに気付き、後悔の気持ちを抱きながら、普段よりもより一層優しくフィルの背中を撫でた。フィルの恐怖の全貌を理解したわけではないが、それでもその暖かさと優しさはフィルに安心を与える。フィルはすっと力を抜いて父の胸にもたれかかったままでいた。
 傍にいたレオンが思わずといった風に嘆息する。ゼフィラもすっかり冷めてしまった紅茶に手を伸ばして息を吐いた。
 自分が往来にない態度をとったことに緊張の糸を張っていた周りに対し、ラジェットは謝罪の意味で苦笑いを浮かべた。








[*前] | Top|[次#]